第26話 帰還

 気が付くと、病院のベッドの上だった。


 薬品の匂いでそれがわかったのもそうだが、この病室は春にもお世話になった場所だ。窓から見える外の景色が、春のときとよく似ていた。窓は開け放れていて、カーテンが風で揺れている。


 月宮は上半身を起こし、自分の状態を確認する。


 ほぼ全身に包帯が巻かれている。右腕、両足、胴体、顔の左半分。動作確認をしてみるが機能的には問題はなく、包帯がなければ普通に動けそうだった。


 死んではいないが、死にかけていたようだ。


 顔に巻いてある包帯に違和感があったため、止め具を外し、包帯を解く。何重にも巻かれた包帯が、ベッドの上に積み上がっていく。


 左眼を光に馴染ませながら、ゆっくりと瞼を開いていく。何度か瞬きをしたあと、辺りを見渡してみたが、視力に問題は起きていないようだ。顔の左側を手で触れてみるが、目立った傷跡はない。


 月宮が自分の体の傷を確認していると、ドアが開かれる音がした。月宮のベッドの横からは白いカーテンで、ドアを確認することができない。


 白いカーテンの陰から、その人物の姿が現れる。


「月宮……くん」


 秋雨美空が、月宮の姿を見るなり名前を呼んだ。


「秋雨、元気にしてたか?」


 秋雨は答えず、月宮に近づいた。今が何時なのかわからないが、秋雨が制服を着ているところを見るに、通常の放課後と変わらない時間のようだ。時期的に考えても、その時間はまだ充分に日が高い。


「えっと……、秋雨?」


 月宮はベッドの横でこちらを見る秋雨の名前を呼んだ。


「どうして」


 秋雨は俯いた。


「どうして、なにも連絡をくれなかったの?」


「ああ……、えっと、連絡する暇がなかったから」


「私がどれだけ心配したかわかる?」


「……ごめん」


 月宮は素直に謝った。


「月宮くん、今回は大丈夫って言ったよね? 危険なことはないって」


 秋雨の声は震えていた。


 小さな体も、震えている。


「……ごめん」


「それだけ?」


 秋雨は言う。


「私はずっと待ってたんだよ? 心配で胸が痛くて、月宮くんを助けたいと思っても私じゃ足手まといにしかならなくて――」


 月宮の目に、秋雨の涙が映った。


 一つ……、また一つと床に零れ落ちていく。


 それと合わせるように、ぎこちないながらも秋雨が言葉を紡ぐ。


「本当はわかってたんだよ、月宮くんの嘘も、きっと傷ついて帰ってくることも、全部わかってた。だけど、月宮くんは帰ってくると信じてた」


「…………」


「なのに、月宮くんは帰ってこなかった。日付が変わっても、朝になっても帰ってこなかったんだよ……」


「そうか、俺は、帰れなかったのか」


「……うん。月宮くんは、もう三日は家に帰ってないよ」


 月宮は秋雨に悟られないように内心で驚いた。三日間、家に帰っていないということは、それだけ月宮は眠り続けていたことになる。自分の体にかけた負荷が大き過ぎたのだろう。生きていただけでも、奇跡だったのかもしれない。


「先生から入院したことを聞いたときは、本当に辛かったよ……」


 秋雨はその間待ち続け、心配し続けたのだろう。帰りを待った月宮が帰ってきたと思えば入院の知らせを聞き、しかも三日も目覚めなかった。


 月宮は、秋雨が待っている言葉がなんとなくわかったような気がした。


「秋雨」


 月宮は言った。


「……ただいま」


「うん、おかえり」


 秋雨はそう言いながら、月宮に抱きついた。


「おかえり……、本当に、おかえりなさい」


 感極まってしまいただただ泣き続ける秋雨を、月宮はそっと抱きしめ、慰めるように頭を撫でる。秋雨の髪の匂いが月宮の鼻をくすぐった。


 春にも似たようなことがあったことを思い出していた。あのときは、月宮から抱きしめた。秋雨が生きていたのが本当に嬉しくて、それが幻想でないことを確かめたくて。


 今になって、月宮は秋雨がどんな気持ちだったのかに気付いた。


 一頻り泣いた秋雨は、顔を赤く染めながら月宮から離れる。そして、制服のしわを正しながら、近くにあったパイプ椅子に腰を下ろした。


「えっとー、その……、なんかごめんね。いきなり抱きついちゃって」


「いいよ、俺も悪い気はしなかったし」


 続けて、月宮は呟くように言う。


「やるべきことをやれたって、実感できたし」


 秋雨が首を傾げたため、月宮は「なんでもない」と誤魔化した。


「日神とは会えたのか?」


 月宮が訊いた。


「うん、ちょっとだけね。あと如月ちゃんと長月ちゃんにも会ったよ。長月ちゃんは刺し傷があったけど入院するほどじゃなくて、如月ちゃんは、えっと……、なんかいろいろ低下してたから入院して、昨日ようやく目を覚ましたんだよ」


「……そうか。話はしたか?」


 秋雨は首を振る。「日神ちゃんたちは日神ちゃんたちで話がしたいだろうと思って、まだ遠慮してる。私は、その……、月宮くんが心配だったから」


「ありがとな」


 秋雨と日神たちが話していないのは好都合だった。どんなことがあったのか、まだ誤魔化せる。そのうち、口裏を合わせてくれるように頼まないといけないかもしれない。如月と長月はともかく、日神は話してしまいそうだから心配だ。ただでさえ心配し過ぎている秋雨を、これ以上心配させるわけにはいかない。


 いや、それは月宮の取り越し苦労だろう。


 きっと秋雨が真実を知るのは、もっと先になるか、あるいは、このまま知ることはないかのどちらかだ。とりあえず、今が知るべきではない時期であることはたしかである。


「あのね、月宮くん」


 秋雨が握った両手の親指を遊ばせながら言った。


「うん?」


「月宮くん、家に鍵をかけてなかったでしょ? だからね、この間は無断でお泊まりしちゃったんだけど……。ほら、月宮くんが帰ってくると思ったから……、先生と泊っちゃった」


「別にあの部屋で泊ろうが、なにしても構わないけど、よくあいつと一晩も一緒にいられたな。大丈夫か? 襲われてないか?」


「大丈夫。襲われてないよ。あと、一晩じゃなくて、今日までずっと……」


「そ、それはすげえな……。きっと煙草臭くなってるんだろうな、あの部屋」


「うん。先生、煙草吸わないとおかしくなっちゃうから……。でも、控えるように言ってあるから、それほど匂いはしないと思う」


「そうか。ありがとな。じゃあ、あの部屋には愛栖の私物とか置かれ始めてるだろ。ゲームとか、ゲームとか、ゲームとか」


 月宮たちの担任である愛栖は、無類のゲーム好きである。教師でありながら、ゲームを買うために遅刻をしたり、夜遅くまでゲームをしていて寝坊をしたり、と生徒みたいなところがあった。


「ちょっとだけだよ。あんまり持って行くと持って帰るのが大変だ、って言ってたもん」


「そりゃ重畳だな」


「ちょうじょう?」


「退院したら、勉強を見てやるからな」


「やだよ! 遊ぼうよ!」


 秋雨は全力で拒絶した。


「もうすぐ期末だったよな。頑張ろうか」


「一ヶ月後だからまだ大丈夫」


「追試を受ける気なのか?」


 例年通りならば、期末テストは二週間後くらいである。それが終われば、生徒たちが待ち望んでいる夏休み。秋雨はその夏休みを返上しようとしていた。楽観的すぎるにも程があった。


「夏休みは日神たちと遊ぶから追試はなしだ」


「そうなの?」


「ああ。日神との約束だからな」


 月宮は視線を落とした。


「俺があいつにしてやれるのは、これくらいなんだ」


 月宮は外の景色を眺めた。


 青い空。


 白い雲。


 微かに見えるビル群。


 こんな当たり前の景色を、彼女は見たことがあったのだろうか。


 もちろん、見たことはあるはずだ。


 しかしそれは、彼女の思い描いてきた理想とは違う場所からだ。


 理想を現実にしたくて、けれど届かなくて。


 だから、託した。


 交わす必要のない言葉を交わした。


 風がカーテンを揺らし、病室に心地よい涼しさが溢れた。


「気持ちのいい風だったね」


 秋雨が言った。


「もう、夏なんだな」


「そうだね。……そうだ、言い忘れてたことがあった」


「なに?」


「ありがとう」


 秋雨は微笑んだ。


 彼女に、もう夏はこない。


 終わってしまったのだから。


 始まらずに、終わってしまった。


 月宮の知っている日神ハルはもういない。

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