第9話 待ち人戻らず

 本日の天野川高校の授業日程は、いつも通り七限目までだったのだが、敷地内で見つかった傷跡の影響で、五限目までに変更された。それには、生徒全員が歓喜した。そして不謹慎であったが、その傷を残していった犯人に感謝したのだった。


 五限目が終わるころには、都市警察が到着していた。十数人と比較的少ない人数であったが、作業は滞ることなく進められた。こういった機敏な動きができなければ、都市警察になることはできないのだろう。まったくといって無駄がなく、非の打ちどころもない。


 都市警察には、その被害状況から能力者を割り出すことができる「なにか」があるらしいが、それを知っている者は都市警察のごく少数だけだ。そんな噂が流れているが、その真意は定かではない。


 秋雨は校内からその様子を見ていた。五限目が終わったあと、愛栖からの連絡で、今日の日程が終わったことを告げられた。クラスメイトは狂ったように歓喜し、そして興味のない傷跡をもう一度見直すことなく帰って行った。ある意味で団結力のあるクラスなのかもしれない、と愛栖は評価していた。


 他のクラスも同様に帰宅することになっていた。秋雨のクラスとは違い、まだその傷跡を見ていない者が大勢いるのだから、大変なことになると思っていたが、そこにはすでに都市警察が配備され、興味津々だった生徒たちは、渋々帰宅をすることになった。授業がなくなったことで喜び、傷跡をじっくり見ることができなくて落ち込む彼らを見て、少し微笑ましかった。


 秋雨が帰宅をしていない理由は一つである。


 月宮が戻ってこない。


 昼休みごろからいなくなっていたことは気付いていたが、それはよくあることだったので気にも留めなかった。そもそも、月宮の行動を縛る理由が秋雨にはない。五限が始まっても戻ってこないのは、ただのサボりだろうと思っていた。月宮は学校には来るが、授業を受けないということが稀にあった。その間どこに行っているのかは訊いたことがない。訊いても教えてもらえる気がしないからだ。


 今朝の少女、日神のことがあって帰宅したのかもしれないと、月宮の机を見れば、鞄が置きっ放しであった。月宮が鞄を置いて帰ることなど、今まで一度もない。そのせいもあって、秋雨は月宮が校内にいるのだと勘違いしているのだが、もちろん彼女自身気付いていない。


 廊下でただ一人。


 おそらく、校内でただ一人の生徒である。


「なんだ、まだいたのか」


 秋雨は背後からの声に振り向く。教室から出てきた愛栖が、気怠そうにしていた。


「月宮くんが帰ってきてないようなので」


「帰ったんじゃねえの?」


 愛栖はあくびをした。


「あいつ、ずっといないじゃん。朝のホームルームのときしか見てないし」


「それはないですよ」


 秋雨は後ろで手を組んだ。


「だって教室に月宮くんの鞄がありまずから、まだ校内のどこかにいるはずですよ」


「忘れて帰った可能性もあるだろ」


 愛栖は、秋雨の横に立った。


「下駄箱は確認したのか?」


 秋雨は驚いた表情を見せた。


「そういえば確認してないです。そこまで考えが至りませんでした」


「まあ、女子が男子の下駄箱を開けるときは、バレンタインデーのときかラブレターを入れるときだけって世界で定められているからな」


「そうなんですか?」


「いや、嘘だけど」


「……なんでそう簡単に嘘を吐くんですか。教師としてそれはどうなんです?」


「なんで嘘を吐くのか……ね」


 愛栖は遠くを見るように天井を仰いだ。なにを考えているのだろう、と秋雨は思った。


 愛栖は、去年も秋雨のクラスの担任だった。もう一年以上の付き合いになる。しかし秋雨はいまだに愛栖のことをよく知らなかった。表面上の愛栖は、生徒思いで、楽観的で、面倒なことが嫌いな教師だ。それが愛栖の良いところなのだが、それが逆に、なにかを覆い隠しているのでないか、と秋雨には思えた。ただの思い違いならそれでいい。愛栖のことをもっと好きになることができる。


 秋雨は愛栖がどことなく月宮に似ているような気がしていた。表面上では造りものの感情や表情、それに動作を見せる。なにかを悟られないように、知られないように、外側へと現れないように、別のなにかで外壁を造り、そういったものを流さないように堰き止めている。


 自分以外の誰かから一線を引いている?


 いや、違う。


 そうじゃないことを秋雨は知っている。


 昔の秋雨がそうだったように、月宮も愛栖も、自分に一線を引いているのだ。本当の自分を隠して、隠さなければならなくて、意識的にもう一人の自分を作り上げた。そうしなければ誰かを傷つけてしまうから。本当の自分を心の奥へと追いやることで、他者を守っているのだ。


 いつか……。


 いつか、本当の月宮と愛栖を見ることはできるのだろうか?


 愛栖は天井を仰いだまま、秋雨の頭にぽんと手を乗せた。女性の手にしては大きな手だが、それは指の長さがそう感じさせているだけだ。愛栖の指は長く、そしてしなやかである。


「お前にそんなことを言われる日が来るとはな。先生もびっくりだ」


「そ、そうですか?」


 秋雨は髪をくしゃくしゃに撫でられた。少し話し辛かった。


「べ、別に……、珍しくもないと思い、ますけど」


「いやいや、昔のお前を知ってる私からすれば、その発言は驚天動地にすら感じるね。月宮にも言ったことあるか?」


「いえ……、ないです、けど」


 秋雨は抵抗するように愛栖の手を掴んだが、まるで意味がなかった。


「もし、言ったら……、先生と同じことを言うと思いますか?」


 愛栖の手が、秋雨の髪から離れる。疲れたのか、飽きたのかはわからない。手を引いた愛栖は、そのまま胸の前で腕を組んだ。


「煙草はだめですよ」


 秋雨は見透かしたように言った。


「ケチだなぁ」


 愛栖は溜息を吐く。


「煙草は素晴らしいんだぞ。頭は冴えてくるし、気分も爽快になるし、美味いし。煙草がない世界とか考えられないわ」


「吸うことは構いません。けれど場所が場所です。ここは先生の家じゃないんですよ」


「わかってるって。吸うならバレないようにする。それで、えっと、月宮だっけ? 私と同じことを言うかねぇ」


 愛栖は煙草を持っていない手が我慢できないらしく、スーツの胸ポケットから黒のボールペンを取り出し、器用に回し始めた。愛栖の胸ポケットにはいつも二本のボールペンが入っている。先ほど取り出した黒のボールペンと、赤と青と緑の三色のボールペンだ。


 普段から使っているボールペンでないと、上手く字が書けない、と愛栖は言っていた。それに、たまに遭遇するインクの出が悪いボールペンを見ると腹が立つらしい。


「ま、私にはわからないな」


 愛栖は考えることを放棄した。


「私は月宮じゃないし。煙草があればもう少し考えてもよかったんだが、それもダメとなると無理だな。降参だ。わからない。これが私の答えだ」


「そうですかぁ」


「まあでも、驚くかもしれないな。いや、案外驚かないかも」


「どっちなんですか?」


「私は驚かないに賭ける」


「賭けごとはいけませんよ」


「いい子になっちゃったなぁ、お前は」


 愛栖はボールペンを胸ポケットに入れた。


「改心したんです」


 秋雨は微笑む。


 愛栖は吹き出した。


「……そうか。そうだな、改心したんだもんな。そうでないと月宮に申し訳ないもんな」


 愛栖はぐっと背伸びをした。胸が強調され、秋雨はそれをまじまじと見てしまった。


「じゃ、私、仕事残ってるから、またな」


「もう少し話していたかったです」


「いつでもできるだろ、それくらい」


 愛栖は秋雨の頭を撫でてから、廊下を歩いて行った。ヒールの鳴らす軽快な音が廊下中に響く。秋雨はその後ろ姿を見えなくなるまで、ずっと見ていた。


 再び、廊下には秋雨一人になった。


 窓の外を見る。都市警察が作業をしているが、もうそろそろ終わりそうな雰囲気を出していた。犯人を特定できたのかはわからない。けれど、なにかしらの情報は手に入ったはずだ。


 月宮はこのことを知っているのだろうか?


 校内に残っていれば、どうしても耳に入ってきそうなくらいの騒ぎだったのだから、もしかしたら愛栖の示した通り、もうすでに家に帰っているのかもしれない。だとしたら、月宮の鞄を持って行ってあげよう。


 秋雨はそう決断し、教室に入って行った。


 誰もいない教室。


 月宮の鞄はひどく軽かった。机の中を覗いてみても、教科書は持ってきていないようだった。入っているのはノートくらいである。


「もう……、学校をなんだと思ってるのかなぁ」

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