第2章

第8話 空の部屋

 月宮がアパートに着いたのは、長月が雑木林からの脱出が困難であることに気付き、秋雨と愛栖が教室に戻り始めたころだった。もちろん秋雨たちのことは知らないが、長月に関しては、そろそろ気付くころか、あるいは気付いて対策を練っているところだろう、と思っていた。


 アパートが何事もなく残っていることに、月宮は驚いていた。長月が天野川高校に大胆にも校門から入ってきたことから、もしかしたら住所も把握されていて、すでにアパートは荒らされたのだろうと思っていた。長月の仲間にどのような人物がいるのかはわからないが、長月と同様に日神ハルを回収するのに手段を選ばず、アパートか、最低でも月宮の部屋はなくなっていることを前提として、月宮は帰路についていたのだ。


 階段を上り、自分の部屋へと進む。そのときに変わったところはないか確認したが、これといって変わったところはなかった。手摺も階段も壊れていない。六つある部屋のどの扉も凹んだり、消失したりはしていなかった。


 隣の部屋の前まで歩いたところで、隣人に、変わったことがなかったか、訊こうか考えたが、わざわざ巻き込むようなことをするのは避けようと思い、そのまま部屋の前を素通りした。


 月宮が異変を感じたのは、ドアノブに手をかけたときだった。月宮は当たり前のように扉を開けた。部屋に日神がいるはずだからと思っていたが、それは違う。日神がいるからこそ、月宮は鍵をかけて登校したのだ。


 しかし、鍵はかかっていない。外側からは鍵開けの技術でもない限り、月宮の持っている鍵でしか開かない。その鍵をなくした場合は、鍵を取り替えなければならないため、予備の鍵もない。そう所長から聞いている。つまり、鍵を開けたのは、日神ということになる。


 月宮は扉を慎重に開ける。相手の目的である、日神の回収が成功したからといって、月宮は待ち伏せしないとは言い切れない。また、なんらかの理由で日神が部屋から出ていったあとに、姫ノ宮学園の追手がここを訪れたとするなら、当然、月宮を狙うだろう。


 扉をゆっくりと開け、その隙間から中の様子を確認する。荒らされた形跡はなく、誰かがいる気配もない。隙間から見える範囲では、変わったところはない。


 月宮はそのまま扉を開き、部屋へ入った。中へ入っても、いつもと部屋の雰囲気は変わらない。靴を脱ぎ、奥へと進む。警戒は怠らなかったが、月宮はそれほど気にしていなかった。気を張ると疲れるのもそうだが、面倒になったのがその理由だ。


 部屋の中は、閑散としていた。炬燵テーブルの上には、日神が残していったコーヒーの入ったカップが残っている。出るときに閉めていかなかった窓も、律儀に鍵までしてあった。一通り部屋を見てみたが、荒らされている形跡は、やはりなかった。


 月宮は残されたカップを片付け、そのまま部屋を出た。


 月宮に焦りはない。


 時刻は、午後二時を回ろうとしていた。意外に時間が経っていないことに月宮は驚いた。天野川高校からアパートまでの時間を除くと、長月から逃げていた時間は三十分ほどでしかなかった。感覚的には、もう少しくらい、一時間は相手していたような気がしていた。


 日神はなにかに気付いて、ここから立ち去ったのだろうか。月宮は、日神がなにをできて、なにができないのかを知らない。考えるだけ無駄なような気がした。しかし無駄であろうと考えなければならない。


 日神がどのような理由で、月宮の部屋を出ていったのか。窓の鍵を律儀に閉めていたが、飲みかけのコーヒーはそのままだった。不自然のように思えたが、それは順番の問題である。なにかを危惧し、窓を閉め、鍵をかけた。そしてそこから外の様子を確認していると、姫ノ宮学園の追手が迫ってきており、部屋から逃げなければならなくなり、部屋をあとにした。


 月宮は、粗いながらも日神の行動を考えた。思考をトレースできれば楽なのだが、月宮と日神が話したのはほんの少しであり、それだけでは彼女の思考を捉えることはできない。そもそもトレースできるのかさえ不安だった。 月宮と日神の生き方は、あまりにも違い過ぎる。姫ノ宮学園という特殊な組織で生きてきた日神のことをどう理解すればいいのか、月宮には判断できなかった。


 風が吹き、自分の頬が冷たくなったのを感じた。どうやら汗が伝っていたようだ。嫌な汗ではないことはわかっていた。長月から逃げ切るために、存分に走ったせいだ。それを脳がようやく認知し、上がっている体温を下げようとしているのだ。長月に出会ってからの緊張が切れたとも言える。


 溜息を一つ吐いた。溜息をすると幸せが一つなくなると言うが、溜息をするときというのは大抵幸せじゃないときなのだから、なくなるというのはおかしいのではないか、と月宮は意味もなく考えた。


 そして、足を進めた。とりあえずの目的は日神を探し出すこと、目的地は駅前にすることにした。本を隠すのなら、図書館。木を隠すのなら、森。人を隠すのなら、人混み。月宮はなんとなく、日神がそう考えるかもしれないと思ったからだ。


 なにかが起こったときは声を出すように言ったのだから、日神はそれを守らなかったか、あるいは起こる前にいなくなったかのどちらかである。月宮は、後者である可能性が高いとなんの理由もなく決め付けた。


「まあ、なにかあれば、飛んでくるのがこの人だけどな」


 月宮は、隣の部屋の前を通ったときに、そう呟いた。


 この部屋の主が静かなときというのは、平和なときだけだ。なにかあれば、ひたすら話しかける相手を探すだろう。誰かが階段を上ってきたりでもすれば、部屋から飛び出してくることに違いなかった。

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