第1章

第1話 まどろみの忘却

「月宮くん、起きて!」


 朝の賑やかな日差しでもなく、鳥たちのさえずる声でもない、聞き覚えのある声に月宮湊(つきみやみなと)は起こされた。寝起きの状態の月宮の視界には靄がかかっている。そしてそれは脳についてもそうだった。誰かに叩き起こされるという状況に頭がついていっていなかった。


「月宮くんいないの!?」


 聞き覚えのある声と扉を叩く音が室内に響き渡っている。それは普通の人ならば、完全に目を覚ますには充分なものだが、月宮にはあまりにも無意味だった。音は聞こえてくる。しかし頭には入ってこない。苦いコーヒーでも飲めば、そんな状態から脱することは簡単にできるだろう。そうでなくてもコップ一杯の水でも今よりはマシな状態になれる。


 時間が経つにつれて、月宮の脳も正常に働き始める。昨晩の仕事の疲れがまだ残っているようで、体は動き出そうとしない。それでも動かさなければならないのが学生の辛いところだった。


「仕事……」


 立ち上がり、いまだに叩かれ続けている難儀なドアに向かう。家主を守っている仕事熱心なドアがどうして叩き続けられなければならないのだろうか。いくら強固なドアとはいえ、凹んでしまったらかわいそうである。


 ドアに近づくにつれ、大きくなる声と音。


 月宮は玄関の扉を開いた。


「あうっ」


 そんな声と扉に硬いものが当たったような音が聞こえた。そして自分が鍵をかけずに寝てしまったことに気付いた。強固なドアは家主を守る気はなかったらしい。それはドアのせいではなく、月宮のせいだが。


 ドアを開いてから、覗き穴で相手を確認しなかったことを後悔した。いくら聞き慣れている声だからといってそれが本人でない可能性もあった。敵を作りやすい仕事をしている月宮にとってそれは、致命傷とも言える行為だ。


「秋雨。おはよう」


 外の明るさに目を細めながら月宮は言った。


「うー、おはよー」


 秋雨は額を抑えながら屈んでいた。立ち姿がお世辞でも背のあるほうではない秋雨が屈んでいると、より一層小さな子供に見えた。


「開けるなら開けるって言ってよ。私がドアの前にいたことわかってたでしょ?」


「ちょっと別のこと考えてたから失念してた」


「なんのこと?」


 上目遣いで秋雨は訊いた。


「防犯について……かな」


「そうなんだ、偉いね」


 秋雨は立ち上がり、身なりを整えた。


 秋雨美空(あきさめみく)は月宮のクラスメイトである。それ以前から顔見知りだったのだが、同じクラスになったのは今年が初めてだった。月宮たちは高校二年であるため、一年時に違えば、当然のことだ。


「ところで秋雨はなにしにきたんだ?」


「そうだった!」


 秋雨は思い出したという顔をした。


「あのね。月宮くんが最近よく遅刻をするから先生に迎えに行けって言われて来たの」


「それで来たのか」


「うん。迷惑だった?」


「いや、お前が来てなかったら今日も遅刻してた。もしくは自主休校だな」


「ダメだよ。これ以上休んだり遅刻をしたりしたら」


 少し間を開け、真剣な顔をして秋雨は言う。


「本当に、先生に殺されちゃうよ?」


 先生とは、月宮たちの担任の教師、愛栖愛子(あいすあいこ)のことである。愛栖は元レディース総長で有名だった。抜群の体型と抜群の暴力を兼ね備えている愛栖は冗談でなく、恐怖そのものだ。男子からも女子からも、そして教師陣からも恐れられているが、基本的には生徒思いのいい教師である。それに疲れることを嫌うため、学校ではその暴力を稀にしか見ることができない。


 月宮のアルバイト先の所長と仲がいいらしく、そのせいで月宮は散々な目に合わされている。


「そうだな。当分は優等生でいないと」


「優等生じゃないよ、普通でいいんだよ」


「普通ってのが一番難しいんだ。落ちこぼれか優等生か、その両極端でいたほうが、欠伸が出るくらい簡単だ」


「私にはよくわからないな」


「それがお前の普通だからだろ」


 月宮はその話を終わりにするため、話を切り替えた。


「どうする? 少し時間あるみたいだからあがっていくか?」


「いいの?」


「ああ。ただ着替えるから、少し待っていてくれ」


 月宮は秋雨が頷いたのを見てから、ゆっくりとドアを閉めた。そのときに目の端に何かが映ったような気がしたが、気にも留めなかった。

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