悠久の世界は月のために

鳴海

笑う太陽、笑わない月

序章

第0話 始まりの少女

「どうして人は死ぬんだろうね」


 なんの前触れもなく、少女は言った。たぶんそれは今までずっと内に秘めていた疑問で、そうでもなければ、このタイミングで言い出すとは思えない。いや、このタイミングだからこそ、言ったのかもしれない。


「人はこれまでに様々な進化を遂げてきた。必要なものを手に入れ、不必要なものを排除した。ほら、昔は尻尾があったとか言うでしょう? 二足歩行でもバランスがとれるようになったから、なくなったって。その名残が今でも残ってる」


 窓から月明かりが差しこむということはない。この部屋には窓がなかった。電灯もない。この部屋では、ないものを挙げるよりは、あるものを挙げていった方がいいほど、なにもなかった。


 これほどまでに生活感のない部屋に少女はいた。


 もう何日経ったか。


 まだ一日も経っていなかったか。


 しかしそれは少女にとって些末な問題であり、突き詰めればなんの問題にもならなかった。時間がいくら過ぎ去ろうと、生活感がなかろうと問題ではない。


「足の小指もいずれなくなるって、どこかの学術書に載ってたよ。あれは誰が書いていたんだっけ? 大学の方は有名だったけれど、あの人自身はそれほど有名でもないのかな。これからかもしれないね」


「科学が進歩するに連れて、人は楽をすることになる。筋肉もそれほど重要ではなくなって、線の細い人が普通になる。細いと言っても、今の人よりずっと細い。頭は大きくなる。脳を使うことだけは変わらないから、身体が小さく、細くなっていくだけ、大きく見えるようになるはずだ」


「それはいい進化と言える?」


「僕は言えないと思う」


「理由は?」


「人で生きる必要がなくなるから」


「だけど、それでも人はきっと死ぬんだよ。どんなに科学が進歩しようと、どんなに種族として進化しようとも死は訪れる」


「これまでもそうだったからね」


「これだけ生きてきて、人は、切れた腕を再生することはできない。失った力を取り戻すための能力、再生力を求めるのは当然だったはずなのに。いつの時代にしてもそうでしょう? 腕や足を失うのは、生きていくためのハンデとしては大き過ぎる。だけど、人は再生力を得られてない」


「そしてこれからもそうなんだろう」


「うん。再生力の話と同じように、いつの時代も死にたくないと思った人はいるはず。それは断言できる。人だけじゃないかもしれない。生物ならそう思うのかもしれない。だけど、どの種も死を避けることに成功してない」


「むしろ短い一生をどう生きるか、という進化をしている。水中から陸に上がったり、鋭い牙を手に入れたり、その身に毒を宿したりと」


「死にたくないから、殺す」


 少女は呟くように言った。


「人が死ぬのは誰かに殺されるからだ」


「誰かに殺されなければ死なない?」


「自分で殺せば死ぬ」


 密閉された部屋では声がよく響いた。空気が振動している。空気はまだこの部屋に存在しているようだ。


 誰かがなにかをするわけじゃない。けれど、この部屋から少しずつなにかがなくなっていくような感覚があった。気付けば消失している。それがなんだったかは思い出せない。初めから存在しなかったのだと決め付けることはできたが、それでこの気持ちを落ち着かせることはできなかった。


 今もこうしている間に、消失したかもしれない。


 最後に残るのはなんだろう。


「どうして人は死ぬの? 死ぬことは嫌なことじゃない。自分が自分でいられなくなるなんて、誰も望まない」


「誰もがきみのようではないんだ」


「私のようじゃない? 他の人は死にたいと思いながら生きてるの? それっておかしくない?」


「いや、ごめん。僕の言い方が悪かった。誰もがきみのように、自分に対して絶対的な評価を下しているわけじゃないって言いたかったんだ」


「みんな、変わりたいと思ってるのね」


「人は変化を望むんだ。それが進化」


「変化と進化は別よ。真逆とさえ言えるわ」


「進化と言えば、外の世界には《欠片持ち》と呼ばれる人たちがいるらしい。なんでも魔法を使えるんだって」


「それは魔法使いと呼ぶべきじゃないの?」


「《欠片持ち》というのは差別用語なのさ。自分たちとは異なったものを、気味の悪いものを、解明できないものを遠ざけるのが人間という生き物だ。たぶんそこには憧れや羨みもあるんだろうね」


「私の質問には答えてくれないの?」


 少女は話題を元に戻した。


「きみ自身がその答えを知っているからだよ。わかっていることを、答えが出ていることを、無意味に訊こうとするからだ。いつものきみらしくない」


「いつもの私じゃない――これは進化?」


「いや、退化だろう。衰えだ」


「死にたくないと思うのもおかしい?」


「おかしくない。それが一般的だ」


「私は、死にたくない」


 少女は告げる。


「同じように誰も殺したくない。だけど、それはできない。私が『私』である限り、誰かを殺してしまう。この先、私が生きる運命でも、死ぬ運命でも、どちらに転んだにせよ多くの命が失われる」


「それは仕方ないよ。きみはそれだけの価値がある存在だ。きみの命と釣り合うのは、その他多くの命だ。一対一の交換ができるものじゃない。命は同じ価値を持たない」


 しばらくの沈黙。


 ふと、今が夏であることを、そしていつか見た、夏の夜空を思い出した。この部屋に空調設備というものはないが、それでも暑過ぎることも寒過ぎることもない。生きるには適温と言えなくもない。しかし、ここで生きることが果たして適しているのかは言うまでもなかった。


 この部屋は外界からの音がまったく聞こえない。そのため雨音を聞くこともない。だから今日の天気がどうなっているのか判断できなかった。


 もし晴れているのなら、脳裏に描かれる夜空が、頭上に果てしなく広がっていることだろう。満天の星々に圧巻されるに違いない。


 しかし、考えてみれば、今が夜であるのかも不明だった。


 この部屋には時間が存在しない。


 消失してしまった。


 少女はまだ残っていた。


「きみは、《きみ》であることに嫌悪、あるいはその類似の感情を抱いているようだけど、今のきみがいるからこそ、僕は、僕らは出会えた。家族を手に入れることができたんだ。だから僕はきみがいてくれてよかったと思っているよ」


 彼女はなにも言わなかった。


 だけど、なにも言わなくても彼女の心がわかる。


 再びの沈黙の後、彼女は静かに言った。


「あなたはいつまで私といてくれる?」


「――きみが望むのならいつまででも。だけど、僕はきみのために死ぬ」


 そう、彼女は残る。生き残るのだ。


 たとえ死ぬ運命であろうと、彼女は生き続ける。


 どうして人は死ぬのか。


 その答えを、彼女は知っている。


「私があなたを殺すのね?」


「そうだね。それでも僕はきみのために死んだと言える」


「そのとき私はどう思うのかしら」


「僕は……、笑うと思う」


「どうして?」


「それがきみだからさ」


「答えになってない」


「答えにする必要がない」


「やっぱり今日の私おかしい?」


 少女は訊いた。


「いつも通りじゃないという意味ならそうだね。少し浮かれているね」


「浮かれている?」


 少女は微笑む。


「どうしてそう思ったの?」


「人間らしさを得ようとしているからだよ。次のステージへ行く準備をしている。もう終わりそうだけどね。どう? 適応していけそう?」


「無意味な質問をしないで」


 微笑みながらも、彼女は言った。


 いつもの彼女を失ってはいないようだ。

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