7

 夫を助けてくださって、ありがとうございました。

 僕らが殺して、蘇らせた男の奥さんは、消え入りそうな声でそう言った。


 少しだけ前の話をしよう。壊れてしまった友達の話を。


 雨季の空は重い。空だけでなく世界全体が重くのしかかっているようだった。見渡す視界の端まで続いてる灰色の空は、もう二度と日が昇らない世界を想起させた。

 「"奇跡"の生まれる前のことを考えたことがあるか?」

 待ち時間だった。穢れたものが現れるであろう林道のルート。僕とルークはひたすら動かずに茂みに隠れていた。鎧の隙間から侵入する雨、ぐちゃぐちゃになった足元がとてつもなく不快だ。

 「ない。そんなことして何になる?」

 僕はそう答えた。目線は茂みの隙間からぼんやりと林道を中心に据えていたが、視界は靄がかかったようで、本当に監視をしているのかしていないのか自分でも分からないほどだ。彼の表情は確認できなかった。

 「人は死んだ。宗教のあり方も違った。死を恐れる人にとって宗教はその恐怖を逃れるよりどころだった」

 雨はまだ止みそうになかった。水がどんどん靴に入り込んできて、気分は最悪だった。

 「ああ、歴史の授業で習ったよ。宗教によって違うが、死後の世界っていう考えがあった。善い人間なら天国に行って、悪い人間なら地獄に行く…生きてる間に善いことをしときなさいよって教えだな」

 地獄のある世界を想像した。死のある世界では殺しは重罪であり、そうならば僕は稀代の大悪人だ。足元の泥から、人の形をした化け物が現れて、その長い腕で僕の体を地獄に引き摺り込む。僕は泣き叫んで亡者たちに許しを乞うけど、体は引き裂かれる。そしてそれを何度も繰り返す。地獄には死という概念がないからだ。

 「"奇跡"は死をなくした。シルヴィア教ではそれこそが人に与えられた救済だ。なら、死後の世界はどこに行った?地獄は消えたのか?冗談じゃない。地獄はここだ。この世界こそ地獄だ、俺たちは死を取り上げられ、地獄に叩き落とされた」

 遠くで雷が落ちた音がした。穢れたものは現れる気配がない。僕はもう少しルークと話を続けることにした。

 「何がこの世を地獄たらしめる?"奇跡"の存在か?それで逆に救われた人もいる。それとも、シルヴィア様の不在か?魔獣の存在か?」

 「罰の不在だ。殺しは本来大罪だ。それを罰する機会を"奇跡"が失くしてしまった。人間の心には罪を認識する機構が備わっている。だから人は良心の呵責に苦しむんだ。その閾値を、あとから倫理とか道徳とか名付けたんだ。後から生き返るからといって、殺しはなくなったりしない。この世界には、心が壊れた人間しかいない。"奇跡"がその事実にふたをして、みんなで気づかないふりをしているだけ。罰がなくても平気なふりをしているだけだ」

 「僕は仕事で罪悪感を感じたことはない。君はまるであるみたいな言い方だな」

 彼は何も答えなかった。そして穢れたものが現れた。


 切り離した首と、残りの身体を持って、最寄りの町の教会へと向かった。

 一度肉体を離れた魂は、"奇跡"を習得したものの導きに従って、肉体の座標へと戻ってくる。肉体に魂が戻るその瞬間、肉体は激しく痙攣し、表情は苦悶を浮かべる。まるで、死の瞬間の苦しみを凝縮し、再現しているかのように。

 死は苦しいものだ。そう、僕らはそれを知っている。一度死んだ後に、また戻ってこられるから。

 "奇跡"が行われている間は、僕らは特にやることがない。僕とルークとカーシェスとメイエフは、教会の扉の前で、特に何をするでもなくたたずんでいた。雨はまだ少し降っていたが、カーシェスはタバコを吸っていた。

 「あの…聖騎士団の方たちでしょうか…?」

 不意に女の人に声を掛けられた。外套を着ていて、フードを深くかぶっているうえにうつむいていたので、顔は見えなかったが、声からそう判断できた。

 「そうですが、どうかされましたか?」

 一番近くにいた僕が応答した。

 「今、教会で"奇跡"を受けているのは私の夫です…。夫を助けてくださって、ありがとうございました」

 女の人はうつむいたままそう言った。そして僕らから少し離れた位置で"奇跡"の終わるのを待っていた。


 "奇跡"が終わるころには雨もやんでいた。夫婦は2人でもう一度お礼を言って。帰っていった。

 「あの女の人の顔、見たか?」

 僕とルークがいた所に、カーシェスが話しかけてきた。メイエフはさっさと帰りの馬車へと向かっていた。

 「いや、見てない。なんでだ?」僕が答えた。

 「あの人の口元、少しだけ見えたが痣があった。旦那に殴られているんだ。案外、蘇らせないほうが良かったかもな」

 「心にもないことを。それは僕らには関係のない領域だ」ルークは黙っている。

 「つくづく最悪な仕事だな。誰もやりたがらないし、危険だし、良い結果をもたらすとも限らない。帝都に帰ったら飲みに行こう。嫌な気持ちは洗い流さないとな」

 そう言って、カーシェスは僕らの肩をたたいてから、馬車へと走っていった。僕ら二人も無言のまま同じ方へ向かった。


 それから半年ほどたったころ、ルークが自殺した。自宅で、首を吊って。

 彼は生き返った。そして投獄された。シルヴィア教において自殺は重罪だからだ。

 彼は日の当たらない地下牢に、おそらくは今もいる。誰の面会も許されず、彼はただ、時間を無駄にし続ける。年老いてまで。

 

 

 

 

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る