5

 悲しみはドロリドロリと溶けていった。

 

 心に隙間が出来ていた。不格好でガタガタの隙間。それをどうしたらいいか分からなかった。仕事をしていても、家で寝ていても、誰かと話していても、ご飯を食べていても、空虚感は埋まらなかった。

 母を亡くしてから、母にとって僕がどう映っていたかが気になり始めた。僕は母の心の一部分で、どんな形をなしていただろうか。それをもう確かめるすべはない。

 この空虚感に少しだけ慣れ始めたころ、僕はこれを悲しみと呼ぶのだと知った。


 「あ、うま」

 一日経って、僕らはまた道端で食べていた。今日は揚げパン。中に煮込んだ肉と野菜が入っていて、聖都にも似たようなものが売られていた。揚げたパンは、外にいてもしばらく暖かいままで、冬場には嬉しい食べ物だった。

 「ほんとだ。美味しいです」

 人間には悲しみが備わっている。誰かを喪くした時に悲しみを感じる機構が備わっている、はずだ。

 この人にもきっとそれがある。揚げパンのかじった後みたいな、不格好な誰かの部品が集まって彼女の心を作っている。そして彼女自身も誰かの一部になっている。それが彼女の世界だ。

 「こっちのご飯は気に入ってくれてるみたいで、よかったよ」

 僕らは平静を装っていた。少なくとも僕はそうだ。

 「はい。何でも美味しくて、よかったです」

 なぜ昨日、僕はあんなものを彼女に見せてしまったのだろう。

 「今日は…そうだな、何かやりたいことはあるか?」

 「じゃあ、外に行ってみたいです。森とか山とか、動物も見てみたい」

 魔獣の出現報告は聞いてないので大丈夫だと思った。外をうろうろしてるカーシェス達に会うかもなと思ったが、特に問題はないだろう。


 ヴィオルナの街は結構広く、外に出る為に門に行くまでも15分くらいかかる。

 歩いている間、僕はカナエに彼女の世界なことを聞いた。彼女の世界では常識であることも、僕にとっては理解できないこともあったので、噛み合わないことはあったが、彼女の世界の技術がどれほど発展していて、凄いものかということは理解できた。

 「私の住んでいるところは、都会で、何でもあって、人もいっぱいいて、すごく便利なんです。でも、だからこそ寂しくなるときもあるっていうか」

 「へえ…正直、よく分からないな。便利すぎると、孤独になるのかい?」

 「発展し過ぎるとそうなるのかも…誰かが作ったすごく大きいものや、便利なものに囲まれていると、まだ何もしていない自分の居場所がないように感じる時があるんです」

 僕は目を閉じて想像する。誰もが僕を取るに足らない存在だと思っている世界。

 それは心地よい感覚を与えてくれた。誰もが孤独で、誰もがそれぞれの悲しみを持っている世界。

 街の衛士に景色のいい場所を聞いた。彼は街を出て、30分ほどのところの、小高い丘になっているところを勧めてきた。振り返ってヴィオルナを見下ろす景色が素晴らしいらしく、ちょうど今の時間だと、日の光が、そこから眺められる山の斜面を照らしてとても美しいと言っていた。

 僕らはそこに向かった。山道に慣れていないであろうカナエでも、無理せず歩けるように道が整備されていた。結構有名な場所のようだ。

 丘にたどり着くと、息をのむような風景が僕らを待ち構えていた。視界の左手に、隣国との国境線にもなっている山脈が高くそびえ、右に位置するヴィオルナを見下ろしていて、まるで霊峰が人々の暮らしを見守っているように思えた。山頂の雪の白と、空の青さが景色の印象を際立て、まさしく、シルヴィア様に祝福されているような風景とでも言うべきだった。

 「きれいですね…本当に女神さまがいるみたい」

 彼女はあっけにとられたようにそう言った

 「そうだね…本当に…」

 しばらくお互いに無言で景色を眺めていたが、彼女が不意にこちらを振り返った。

 「気になったことがあったんですけど、聞いていいですか?」

 「ああ。構わないよ」

 「あの…失礼だったらすいません。シュルトさんは、もしかして、女神さまを信じてないんじゃないですか?」

 「え…」

 僕は呆けたような声しか出せなかった。

 「昨日、教会に行ったとき、"奇跡"を受ける人を見ていた顔が、なんかちょっと嫌な時の感じだったかなって…」

 「…」

 「すいません。そんなの人の勝手ですよね。私、失礼なこと言っちゃって…」

 彼女は再び景色に集中した。僕は彼女から目を離せなかった。

 不意に、母の燃える姿が脳裏に浮かんできた。


 「あれ」

 帰り道、宿に帰る途中の道だった。普通、感じないはずの雰囲気を感じ取った。

 殺気だった。それも複数の。

 「?何かあったんですか?」

 立ち止まった僕を、彼女が不思議そうに眺めてくる。なんにせよ不安にさせないようにしなくては。

 「ああ、いや、大丈夫。何でも——」

 なくないな。建物の影から2人出てきた。気付くと周りには僕ら以外に誰もいない。これはまずいかもしれない。

 「カナエ、よく聞いて。これかガッ——」

 彼女の悲鳴が遠くに聞こえる。


 手首の冷たさに気付いた。それから肩の痛み。頭もガンガンする。

 殴られて、気絶させられて、どこかに拉致されたようだった。手首の冷たさは手錠で、天井から延びる鎖でつながれている。下半身は地面についているが、前のめりになっていて上半身の全体重が肩にかかる形だ。暗くてここがどこだかわからない。部屋の広さすら分からない。

 「気づいたか」

 聞きなれた声がした。気づくと男が目の前に立っていた。

 「副団長」

 彼がどんな顔をしているかまではわからなかった。

 「これで2度目か?捕まるのは」

 「ああ…間抜けだった。敵を騙すならまず味方からってことですか」

 僕は下を向いたまま彼と話した。それは怒りからとかではなく、単純にその方が楽だったからだ。

 副団長は裏切り者だった。僕らを騙して彼女を手に入れた。

 「カナエは?狙いは彼女だろう?無事なのか?それとも、もう殺したのか?」

 「俺は聖王とは違う。あんな豚野郎とはな。あの子は殺さない」

 小さな虫が床を這っている。副団長の足元をうろうろ回っているのが見えた。

 「豚野郎とは…。それに、平和に暮らせるっていうのも嘘だったのか」

 「聖王が欲しがっているのは贄だ。耄碌しちまって、根拠のない闇魔術的な医術にに傾倒している。死が怖いんだ。転移者の血と肉を食べれば、寿命が延びると信じているのさ。死後、神になれるともな…。そうやって殺された転移者を何人も見てきたよ」

 「…ひとついいですか」

 「あ?」

 「手錠を外してくれないか?痛くてたまらない」

 「…」

 「頼みますよ…調べたんだろう?何も持ってませんよ。抵抗なんかできない」

 「いいだろう。知己のよしみだ」

 彼が僕の手錠を外してくれて、僕は壁にもたれることができた。まだ運はあるかもしれない。

 「どうもありがとう…。それで、あんたはどうしてこんなことをするんだ?」

 虫が彼の股下を通過する。

 「…転移者は蘇らない。座標を持たないから、魂が戻ってこれないんだ。だがそれが人間の正しい姿だ。シルヴィア教は人間の姿を変えてしまった。それを正しく戻す必要がある。彼女のような転移者はその為に必要なのさ。彼女を担いで新たな教えを広めていく。俺たちはに戻る必要がある」

 「国教を否定するのか?過激思想だな。僕らと敵対する側の人間に、まさかあんたがなるとは」

 「聖騎士団だからこそだ。俺達だけが狂った聖王を倒せる」

 「陛下の考えをするのが俺達の仕事じゃなかったのか」

 「お前も俺達と行動していたならば、わかっただろう。タイミングが悪かったな」

 「そうか…。でも、あの子は生きてるんだな。それならよかった」

 僕は上半身を倒して床に横たわった。

 「最後の言葉としてはさみしいな。さらばだシュルト。ここで一生を過ごせ」

 彼は哀れみを含んだような瞳を僕に向けた

 「いいや…あんたは僕を勘違いしている」

 僕は口を少し開ける。虫が僕の上半身に登る。後ろに振り向きかけた副団長が目を見開く。

 「追跡魔法トレースドッグ…!このっ…」

 運はまだこちらにある。

 爆発が副団長の後方で起こる。副団長と、壁に使われている石材が吹き飛んでいく。体制と彼が壁になったことで、僕の顔にも体にも吹っ飛んだ石が突き刺さることはなかった。

 開いた穴から同僚達が素早く入ってくる。カーシェスが死にかけの副団長を抱えて、メイエフとクロウが僕の体を支える。

 クロウが僕の頬を叩く。爆発の音と衝撃で遠くに行きかけていた意識が戻ってくる。

 「役に立ちましたよ。対人訓練。先生が良かったから」

 クロウが僕にそう告げた。その口ぶりからは自信が出てきたように感じられて、何よりだと思った。

 「僕も嬉しいよ…真面目に教えて良かった」

 副団長。さらわれたときに備えて追跡魔法を忍ばせておくのはあんたの教えだ。それがこうして役に立って、あんたも嬉しいだろう。

 2人に肩を貸されて立ち上がる。暗闇に慣れていたので、外の光が眩しかった。

 「そうだ、カナエは…。メイエフ、転移者の女の子はどこに…?」

 「いなかった。ここには副団長と少しの護衛だけだ。すでに何処かに行ったようだな」

 「副団長も捨て駒か…。すぐにカナエを追わないと」

 「そうだな。だが、情報がない。副団長から聞き出す必要がある」

 クロウが副団長の死体を担ぎ上げる

。これから教会に行って、彼の魂を肉体に戻す。そしてカナエの居場所を聞き出す必要がある。それが聖騎士団としての仕事だからだ。

 僕は彼女を追う必要がある。僕は彼女に会う必要がある。それは僕が聖騎士団だからではない。

 僕らは環の中にいる。人は死んでも生き返る。誰かが誰かを殺しても、殺した誰かが殺された誰かの何かを背負うこともない。殺された人間は存在しないからだ。

 僕は母を殺した。僕はそれを罪だと感じている。だが、環の中にいる人間がそれを理解することはない。

 彼女は違う。彼女だけが環の外にいて、死を正しく理解しているはずだ。

 僕は信じている。彼女は僕の気持ちを分かってくれると。

 彼女だけが僕を裁いてくれると。

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