『無風地帯/悪魔のいる店』(冒頭)
空が鳴っている。
窓ガラスにはしきりに水滴がぶつかり、白く煙る路地裏が余計に遠く見える。オーディオの奏でるリズムがホワイトノイズにくるまれて眠たく響く。時折外を通る車が水たまりを踏み、タイヤの轍を一瞬描き出した水面は小さく白波を立て、すぐに泡へと砕けていく。
機械的にキーボードを叩きつつ意識を外へ向ける。視界を広く取りその瞬間を待ちわびる。
ブラウザには天気予報。注意報、の文字をもう何度も確かめた。南からやってきている雲は厚く大きい。もう数時間はこの天気が続くはずだった。
知らせのように雨音が強まる。
顔を上げ、体ごと窓へ向き直った。
閃光。
焼けるほどの白。
薄暗い街並みの輪郭が切り出される。
息を止め、待った。
音とは空気の振動だと学校で習った。つまらない授業を聞きながら、ノートの罫線を頼りに描いた波形よりも今聴こえる轟音は確固として響く。震える鼓膜が体の存在を教えてくれる。
思わず、頬が緩む。
雷が好きだ。あの光も、あの音も。人の手に負えないエネルギーを夏は軽々と地上に降らせる。摩擦する空気に腕の産毛まで痺れるような心地好さを感じれば、どこにいても胸が躍った。雨雲の近づく気配を感じればいそいそと雨戸を開け、叶わないなら今日のようにひたすら外へ意識を向ける。
なぜそんなに雷が好きなのか。尋ねられたことは多々あるが、まともに答えたためしはない。好きなものは好きだ。他に理由を求める必要を感じない。
強いて言うなら、快いからだろうか。
快い。気持ちいい。そう感じさせてくれるものが好きだし、そう感じることが好きだ。
明快な結論に満足して、再び手を動かし始める。大至急送らなければいけないメールとわかっていても、こんな空模様の日にはちっとも集中できない。
盛岡の路地裏。小さな店は機嫌良く雷雨に打たれている。
光る。鳴る。途切れながら繰り返す。雨脚は強く弱く、波のように途絶えない。道行く人の姿はない。何もないのではなく、一色に塗り潰されて完成する静寂。何にも邪魔されない時間。その懐にすっぽり収まって、夏の午後は過ぎていく。
このまま夜まで続くなら、歩いて帰ってみようか。できるだけ遠回りをして、気が済むまで雷を眺めよう。濡れるなら濡れればいい。それだって悪くない。
そのためにはとにかく、目の前の仕事を片付けなければ。
湿度の高まった空気を大きく吸って、細く長く吐く。冷めかけた珈琲をひと口啜る。ついでに手首をぶらぶらと緩め、首を回すとごきりと鈍い音を立てた。
さて、と気を取り直し、いよいよ書きかけの文面に意識を向ける。
そのときだった。
体の感覚よりも先に、取り戻したばかりの集中に空白が生まれた。
小さな泡がひとつ、前触れなく生まれたと言えば最も近い。暗い水中に現れたそいつはゼリーみたいに震えながら浮かび上がっていき、やがて弾ける。
両目が勝手に見開かれるのがわかった。
神経に火花が散る。肌が縮みあがる。キーボードに置いたままの指が引きつり、急激に息を吸った喉が笛のように鳴る。膨張する血管が手に取るように見える。内側から湧き出す熱のせいで汗が滲み、そのくせ寒気までする。
突然こんな異様な状況に陥ったら、焦るか恐れるのが普通だ。
普通。嫌いな、本当に嫌いな、この世で一番嫌いな言葉だ。
だから、ショーケースの端に置いた鏡をこちらに向けなくたってわかる。
自分は今、顔じゅうで笑っている。
言葉じゃ追いつかないくらいに嬉しくて。
雷よりももっと好きなもの。それは予感だ。
何か面白いことが起こりそうな予感。
それは強烈であればあれほど好ましい。
たとえば――
急激に膨らんだ外気が窓を押し、室内の空気を押し、それに肺を潰され喉から笑い声に似た音が漏れた。
窓の外へ向ける途中、壁時計の秒針に止まった視線が、そのまま焼かれる。
視界がまるごと、白く殺される。
耳は塞がなかった。
爆音。
轟音。
頭蓋骨のなかで脳が揺れる。
商品棚が跳ねる。ぶら下げたカレンダーが風に煽られたように揺れる。天井が軋み、壁ががたつき、傍らに積み上げた書類が舞い上がる。
輪郭が確かに一瞬、消し飛んだ。
自分が消えてなくなる感覚はいつだって得難く、そして病みつきになれるほど長くは続かない。
耳鳴りが続く。数度瞬きを繰り返して、やっと目が正常に辺りを映す。灯りが落ち、暗く沈んだ店のなかで、ただはらはらと書類が落ちてくる。
その不格好な紙吹雪の向こう。
半ば窓にもたれるように、誰かの姿があった。
淡い青のシャツ。麻のパンツと黒い靴のあいだから足首が覗く。
白い横顔には表情がなかった。
「珍しいですね。連絡もなしにいらっしゃるなんて」
返事はない。ただ、ゆっくりとこちらを見た。
そこにいたのは間違いなく客の一人だったが、普段とは明らかに様子が違っていた。
「雷がお好きと聞いたので」
その声も、いつも通り。
ただ、こちらを刺す目ばかりが透き通る。
見覚えのある冷たさに、笑って答える。
「話しましたっけ、それ?」
ぱさり、と書類の最後の一枚が床に落ちる。
「今日はひとつ、クレームを入れに来ました」
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