千六百六十六号書架 ほ 百三十一区 十一番 百八十三巻 六百七十四頁 百三十九章 百十五節 「ヴンダーカンマーの邂逅」
この博物館は、いつも予感に満ちている。
こうして、灯りを落とした展示室にひとりで立っていると、改めてそう感じる。今日も無事閉館を迎え、眠りについているモノたちはみんな、そんな予感を日々夢に見ている。
それはすなわち、出会いの予感だ。
モノがモノと出会い、ヒトがモノと出会い、ヒトとヒトとが出会う。あらゆる存在の交差点、あらゆる運命の交差点。
ここは、そういう場所。
大きく息を吸う。埃っぽい、けれど懐かしい匂いを胸いっぱいに吸い込む。
白衣は丁寧に洗い、きちんと畳んで納めた。最低限の道具と日記帳に万年筆、それからインク壜も入れた。
革張りの頑丈なトランクは、出発のときを静かに待っている。
ヴンダーカンマー。私の愛するところ。私の家であり、私の在処。
今日、私はここを離れる。
ヴンダーカンマー専属の一等博物士、貨玖先生と比呉先生はいつも忙しい。
新たなコレクションを求めて世界中を飛び回っているし、要請があれば外部へ講義をしに行くこともある。時折何かの会議に参加して、面倒な連中――大抵は
それはひとえに、我らが一等博物士の熱意と献身の賜物だ。
そんな先生たちが、今日は珍しく揃って顔を見せている。
しかし、彼らも私も決して暇ではなかった。来館者の応対、新しく収蔵されたコレクションの整理、溜まりに溜まった書類の仕分けと処理、その他にも細々とやるべきことはある。各々休みなく作業を続け、やっと手が空いた頃には夜半も間近だった。
貨玖先生に呼ばれ、書庫に入る。収蔵品の目録を更新する作業を手伝うように、とのことだ。もちろんこれも大切な仕事ではあるけれど、実際の目的は貨玖先生直々のレクチャーに他ならない。やろうと思えば八時間ほど集中講義をすることだって可能だと先生は言うが実際のところは不明だ。というか、勘弁してほしい。
ずらりと並ぶ帳面のうち、最新のものを携えて展示室へ戻る。貨玖先生の纏うツイードのジャケットの背中を追いながら館内を歩いていく。
舞台は第八展示室。ヴンダーカンマーのなかでも最も広く、展示内容の変更が頻繁に行われる場所だ。バックヤードに無数に存在するコレクションたちを死蔵しておくのも忍びないという理由で、定期的にテーマを決めてモノの入れ替えを行っている。言うなれば企画展だ。
現在並んでいるのは、二百年ほど前に活躍した標本士の親子による標本群だ。個人の収集家からまとまった数の標本が手に入り、ひと通り点検を済ませたのち、来館者にも見てもらおうという貨玖先生の提案だった。
親子はそれぞれ植物と魚類を専門とした。そのため、二人の作品を並べると、第八展示室はさしずめジャングルのなかの湖に見える。静寂の展示室に賑やかな水場のざわめきが聴こえるようだと来館者の評判は上々だった。
一辺が三メートルはあろうかという額の前で足を止め、貨玖先生は滔々と語り出した。
「植物の葉の標本は通常、乾燥させたのち定型の大きさの台紙に貼り付けて作成します。その際、葉が台紙に収まらない場合は適宜裁断しました。つまり、葉を元の大きさのまま保存しておくという方法は採用されなかったのです」
「保存の利便性を優先したんですね」
「定型の台紙に統一しておけば束ねて保存することが可能です。理に適った方法ですが、実物大でなければわからない情報ももちろん存在します」
一見無秩序なハスの葉脈はその実、合理的に葉の面を覆うように走っている。その全容は切り刻まれて台紙に貼られた姿からは見て取ることはできない。
「この大きさですから、標本を仕上げるのは骨が折れました。何枚かだめにしてしまった葉もあります。ですが、やはりこの形で展示してみて正解でした」
生の植物は放置すればどんどん腐っていく。その前に、できるだけ短い時間で葉を乾燥させなければいけない。この作業には掃除機を駆使したらしい。
「タビビトノキも同じ発想だったんですか」
第二展示室に鎮座する、鳥の羽にも船の櫂にも見える巨大な葉も同様の方法で展示されている。以前ちょっとした事件を起こしたが、最近は新品の額のなかで静かに過ごしていた。
「学術的な解釈によるならあれはバショウ科の常緑高木の葉です。ですが、それ以外の切り口で観察することにも大きな意義があると考えました。すなわち標本ではなく、芸術品として捉えることです」
貨玖先生は元々、歴史という美術館にモノの置き場所を探すような研究をしていたらしい。モノを見るのはいつだってヒトだし、歴史はヒトの足跡で編まれる。ヒトの価値観が時代とともに移り変わること、それによってモノの持つ美しさやモノ自体が変遷していくことを、先生は骨身に沁みて知っているのだった。
講義は続く。襖の装飾に用いられたハスの葉の意匠、左右対称の美と余白の美、奇怪な生物を吉兆あるいは災いの兆しとする解釈、クラゲの標本はガラス細工で代替された、などなど。
「博物館が本来提供するものはなんだと思いますか?」
そのような本質的な質問を前置きなしに投げかけてくるのは先生の癖だ。最初こそ驚いたものの、もう慣れた。
「驚き、です」
「そう。人に驚きを与える場所、非日常を提供する場所。それが博物館です」
驚き。非日常。いつもヴンダーカンマーに満ちているものだ。
唐突な質問にいくら慣れたとしても、空気のように常に漂う気配にまで鈍感になってしまってはいけない。
常日頃ここにいる私なら、それは尚更だった。尚更のはずだった。
そして、後悔というものは常に先に立たない。
「先生にとって、一番驚きをくれる収蔵物はなんですか」
普段であれば打てば響くはずの答えは、返って来なかった。
琥珀色の丸眼鏡、その奥の怜悧な瞳がすっと細まるのを見て私はやっと自分の失敗に気づく。
「全部です」
先生が腕を組む。ジャケットの袖から覗いたカフスボタンが照明を照り返し、遠慮なしに私の目に刺さった。
「そのような質問はこれまで何度も受けてきましたが、たとえば五本の指のうちどれが一番大切だと訊かれて、あなたはなんと答えますか?」
唐突でもなければ、答えようもない質問だった。
「強いて言うならば、ヴンダーカンマーというこの空間こそが、常に私に驚きを与えるものです。ここは私の仕事場ですが同時に非日常の舞台でもある」
顔が俯きそうになるのを堪えて、言葉の続きを待つ。
「これは、私が常々考えていることなのですがね」
小さく息をついて、先生はふと遠くを見やる。
「どの標本が一番好きか、というような問いを投げる人たちにとっては、モノは簡単に順序や優劣のつけられる存在、ということなのでしょう。この世の万物にいかに価値を見出すか。それを決めるのは、人の在りかたです。ある人にとってここは宝の山ですし、またある人にとってはがらくたの集積場でしょう」
あなたには前者であってほしいと願っていますよ。
そう締め括って、貨玖先生は腕時計を見た。
「今日はここまでにしましょう。残りはまた次回」
「はい。ありがとうございました」
慌ただしく出ていく背中が扉の向こうに消えるまで、頭を下げたまま待った。
――おつかれさま
いつからついてきていたのか、青い羽がひらひらと視界に揺れた。
肩に止まったオナガミズアオの、重さとも呼べない重さが妙に苦しく感じて、そのままずるずると床にしゃがみ込んでしまう。
「最悪」
今の心境、そしてあまりに迂闊な質問を投げた自分に対する評価を表すのに、それ以外に適切な言葉が見つからない。
――勉強のし過ぎだと思うよ
「いやそんなことはない。むしろ逆だよ、私は一体これまで」
――きみは充分勉強してきた。ただし、ヒトの立場からね
遮った口調は、思いがけず強いものだった。
「……へ」
――モノの価値を決めるのはヒトの在りかた。それは正しいと思うよ。だけど……きみはその、純粋なヒトじゃないよね
善良な青い蛾の、躊躇いがちな言葉に後悔が上積みされる。
ヴンダーカンマーの収蔵物たちは、みな一様に誇り高い。だからヒトのように話し、思考する奇妙な人形の在りかたに決して口を出したりしない。
そんな相手にここまで露骨な言いかたをさせてしまった。穴がないなら掘ってでも入りたいと血の通わないはずの顔が燃えるように熱く感じられた。
「ヒトの立場に偏り過ぎてた、ってことか」
頷く代わりに羽を閉じて開いて、起こったわずかな風が頬を撫でた。
――ついでだから、話しておこうかな
もじもじと足を擦り合わせる気配がする。
「なんだよ。改まって」
――きみがここに来て本当に嬉しかった。ぼくたちだって珍しいモノや綺麗なモノが好きで、きみはまるっきりその通りだったから。でもそれ以上に、きみはぼくたちの言葉がわかった。ぼくたちが伝えたいと願っていることが理解できた。それをヒトに伝えることができた
青い羽がふわりと、目の前に降り立つ。光を反射しない目、深い黒と向かい合う。
――ねえ、杜都。もっとぼくたちの言葉を聞いてほしい。きみは、ぼくたちと相対するヒトでもあるけれど、ぼくたちと同じモノでもあるんだ
最初にここへ来たときのことはよく覚えている。
驚きという言葉では足りないくらい、心が震えるなんて表現では足りないくらい、目の前の光景に圧倒された。
混沌とするモノの羅列。知らないモノ、見たことのないモノ、初めて見たモノ。視界いっぱいに炸裂する色と形の群れ。埃っぽい空気のなか、目の奥がびりびり痺れるほどの刺激、怒濤のような衝撃が押し寄せた。自分はあまりに無知なのだという失望を一瞬だけ感じて、すぐに忘れた。そんなちっぽけな感情は目の前の極彩色に比べて少しも意味を持たなかった。
もっと見たい。
もっと知りたい。
世界は美しいから。こんなに美しいんだから。
そう確信し、子供のように立ち尽くす私に向けて、モノたちは一斉に叫んだ。
モノの言葉が理解できると知ったのも、そのときだった。
――ようこそ!
血が沸く、という言葉がある。
そんなものはこの体に一滴も流れていないけれど、それでもあのときの感覚を表すなら、それ以外にふさわしい表現はないだろう。
体の奥の奥、一番深いところからマグマのように熱が噴き出して、じっとしていられない。声が喉を衝くままに叫びたくてたまらない。なりふり構わずそこらじゅうを走り回りたくて我慢できない。
そんな野蛮で純粋な衝動を、疾走する好奇心を、いつの間にか私は忘れていた。
胸に抱えた目録には、モノたちに関する情報が余すところなく記されている。このうえなく詳細で網羅的な知識。
それはあくまでヒトが知り得る限りの知識に過ぎない。「非日常」ではない。
ヒトのようでヒトではない私が、そんなもので満足していいのか。
モノの言葉を聴き取り彼らと会話できる私が、表面的な事柄だけで知った気になることを、正しいと言えるのか。
今さら、ヒト並みの好奇心を満たした程度で。
片手を開いて、眺める。
外見はまるっきりヒトの手だ。でもそこに体温が宿ることはないし、「材質」だってまったく生物らしくない。
そうだ。私は完全なヒトではない。同時に、純然たるモノでもない。
どちらでもなく、どちらでもある。
境界に立つ私にしか見えないことがある。
曖昧で不確かな私だけが知り得る世界の形がある。
「そんなの、放っておくわけにいかないよね」
返事はなかった。ただ、小さな羽ばたきだけが答える。
顔を上げて見渡せば、展示室は固唾を飲む気配に満ちている。
知っている。知っていた、勿論。
モノというのは気難しいのも気さくなのもいるけれど、大概お喋りで、自分のことを誰かに知ってもらいたがってるなんてことは、百も承知だった。
「みんな、お待たせ。始めよう」
沈黙は一瞬よりももっと短い。
堰を切り、嵐のように吹き付ける言葉。唄うように語る声なき声。
その全部を体じゅうに受けながら、初めてここへ来た日のことをもう一度、思い出していた。
重い書物や標本をいくらでも運べるし、ろくに整備しなくても不具合知らずだ。本当は眠らなくたって構わない。貴重な予算を割いてベッドを購入してもらった手前、大声では言えないけれど。
つまり、私は疲れ知らずだ。
ひとつ欠点があるとすれば、それがあくまで物理的な話に限るということ。
――貴殿の勤勉さは間違いなく美徳ではあるが
だらしなく机に突っ伏していれば、かけられる声が呆れ気味になるのも無理はない。
――多少なりとも加減を知るべきだと進言したい
「面目ないです……」
第七展示室、通称「鉱石教室」に人影はない。午前三時を回り、来館者もひと段落したヴンダーカンマーは静けさに満ちている。
旧制大学の講堂だった階段教室をまるごと「収蔵」し、無数の学生たちの手と時間によって美しく磨かれた机に無造作に鉱物を並べる。鉱物たちが講義に耳を傾けているような大胆な展示手法の取られた部屋で、私は束の間の休憩を取っていた。
ラブラドライトの、つやつやに磨かれた青と金が物憂げに陰る。ヒトの仕草で言うならため息でもついたのだろう。
――何を急いでいるのか。杜都殿
「やりそびれたことがあまりに多い気がしてね。少しでも回収したいんだよ」
――急いては事を仕損じる、という諺もある。我々は貴殿を急かしはしない。我々はいつもここに在るのだから
「まあ、本当に急かすつもりならきみだって長話はしないだろうし」
下ろしたばかりだと言うのにインクの染みに覆われつつあるノートを示すと、ミネラルの集合体は賢しらに答える。
――質問に対して不充分な回答をすれば当方の沽券に関わる
「そうっすか……」
虹色と灰色の真面目な鉱物にやり込められる
ヴンダーカンマーの収蔵物たちにインタビューを始めて、もうすぐ一月ほどになる。
進捗は芳しくない。思いつく理由はふたつある。ひとつは単純に、モノの数が多過ぎる。もうひとつは、みんな揃って話が長い。
みんな口を揃えて、こういう機会を待っていたと言う。他愛ない雑談ならこれまで随分してきたつもりだけれど、物足りなかったらしい。せっかく文字通り「話の通じる」相手がやってきたのだから昔話のひとつやふたつやらせてほしいということだった。もちろん願ったり叶ったりだから、喜んで話を聴いた。
モノが語る、本当の意味での「モノガタリ」は蛇行し、分岐し、回帰しながらどこまでも続いた。
物語の筋はどれも一貫している。この世にモノとしての存在を確立し、やがてヴンダーカンマーにやってくるまで。けれど、どこからどのようにしてここまで辿り着いたか、その道筋にひとつとして同じものはない。
喜び、悲しみ、そしてときに誰かや何かを愛し、やがてこの終の棲家を訪れるまで。唯一無二のドラマ、彼ら自身の旅路は、ときにメモを取る手が止まるほど色鮮やかで目映い。
大学の実験室で回り続け、ヴンダーカンマーの一員となることで廃棄を免れた真鍮の歯車。鳥類専門の研究所から譲られた長くきらめく尾羽を持つオナガドリ。高山にだけ咲く花は調査隊が大切に持ち帰ってきた。爬虫類の歯と真珠を用いた御守は確か、赤道を跨ぐ大陸からぽつりと離れて存在する島から来たものだ。
「行ってみたいな。マダガスカル」
ぽつりと呟いたのは、他でもないこのラブラドライトの生まれ故郷だからだ。
――珍しいこともあるものだ
やや間を置いてからの返事に、てらいのない驚きの色が混じっていた。
「珍しい? 何が」
――貴殿が具体的な地名を挙げるとは
「……そうだっけ」
焦燥感なら、あった。
モノたちの昔話を果てもなく聴いているあいだに、なんだかそのようなものを感じつつあった。彼らの話にはいつも場所の名や人の名前や、うろ覚えであったとしても具体的な名前が出てくる。彼らが見聞きしたこと、実際にあったことを語っているだけなのだから、なんらおかしくはない。
ただ聴いているうちに、自分のことを顧みずにいられなかった。
杜都の話も聴きたいと逆にせがまれてもはぐらかしてきたのは、私にはろくにそのような物語がないからだ。嘘でもなんでもなく、気がついたらここにいた。そのとき私は身ぐるみ剥がれて放り出されていて、こちらを見ている二人の男性、つまり先生たちに気づいて大声を上げたのだ。
ぎゃあ変態、と。
――思い出したくないことを無理に思い出す必要はない
「石に気を遣われるのも変な気分だな……」
迷ったけれど、文字通り口の堅い相手だ。話しても構わないだろう。
「思い出したくても、思い出せることがないんだから世話ないよ」
――ならば打開策は明快ではないか
アンティークの指輪に似た金色を瞬かせ、言葉を継ぐ。
――ないなら作ればよい
「……はい?」
――未来の杜都殿が思い出し誰かに語るべき記憶をこれから作ればよいのだ
「いや、そんなこと」
――なぜ不可能だと考える?
言い淀んだ私にラブラドライトはすかさず詰め寄る。
――行きたい場所があるならば迷わず行けばよい。外界を出歩くための知識が必要ならば学べばよい。移動のための資金が必要であれば博士たちと交渉すればよい。必要ならば我々が口添えしても構わない。断念するにはあまりに早急だ。いやそもそも
もしもこの石が人間だったら、こちらに向き直ってまっすぐこちらを睨んだに違いない。そんな気配がして息が詰まった。
――改めて尋ねよう。なぜ自分にはそれができないと考えているのか。誰かが貴殿にここから出ることを禁じたのか
噛み締めた奥歯をこじ開ける。
「それは」
――気分を害することを承知で敢えて述べよう。当方は杜都殿を心底妬ましく思っている
冷静さをかなぐり捨てた言葉には、混じりけのない苦しさが滲んでいた。
――ここは安全な場所だ。同胞もいる。様々な展示品に出会うことができる。それでも足りないのだ。まだ見たことのないモノたちがこの世界には溢れている。それを見たい。どんなモノなのか知りたい。だがこの身はただの石だ。単身ではどこへも行かれまい。しかし
噛んで含める言葉に、悔しさが滲んだ。
――しかし杜都殿には、できる。どこまでも、行けるのだ
それが心底羨ましく、悔しく、妬ましい。ラブラドライトはそう結んだ。
かける言葉がどこにあるだろう。
黙って伸ばした指先が触れた石肌は、どこか熱を帯びているように思えた。
地中から掘り起こされ祖国から遠く運ばれ、土に触れることもない、雨からも風からも隔たれたこの階段教室で、それでも成長を続けている鉱石。
誇り高いラブラドライトが前触れなく吐露した本心は、疲労の吹き飛んだ頭に重く、虹色をまとって突き刺さった。
――話すつもりはなかった。謝罪する
「謝るのはこっちだよ。そこまで思ってくれていたなんて、気づかなかった」
――当方の身勝手な思いなど気取られたら当方の沽券に関わる
「そう簡単にかっこ悪くなったりしないよ、きみは」
――不格好ついでにもうひとつ述べておこう。当方は以心伝心などまったくの虚偽であると理解した
「どういうこと?」
――対話なしに伝わることなどないということだ
「そうだね……いや、まったく」
ひと際深い青色を撫でて、ため息交じりに頷く。モノたちが辿ってきた旅路も、この美しく気高い鉱石の剥き出しの感情も、言葉を交わさなければ知らないままだった。
「話せてよかったよ。なんだか、月並みな言いかただけれど」
答えはない。ただ風に吹かれる水面のように、虹色の紋様が波打った。
午前七時三十分。間もなくヴンダーカンマーの閉館時間だ。
展示室を点検して回る。ここのところ、モノたちは揃って上機嫌だ。思う存分話せたことがよほど嬉しかったらしい。行く先々で普段以上に声をかけられて、応じているうちに残り時間がみるみる減っていった。あわてて自室に引き上げ、今日の記録をつける。来館者は十人と少し。コレクションの寄贈、貸出、返却もなし。普段通りの一日だ。
普段通りの、いつもの一日。それなのになぜかそわそわと落ち着かないのは、私のほうに変化があったからだ。
――杜都殿
普段通りの冷静さに、耳を澄まさなければわからないほどの切なさを込めて、虹色と灰色の石は私に告げた。
――どうか自身の願いを踏みにじらないでほしい。たとえそれが叶わないものだとしても、心から願ったということが重要なのだ
私がただの人形ではなく、ヒトやモノと言葉を交わし、それを理解し、そして何かを願うように作られたことには、どんな意味があるのだろう。
一月あまり、毎日毎日モノたちの話を聴いてきて気づいたことがある。
彼らのほとんどが、ヒトについての話をするのだ。
丁重に扱ってくれた恩人、無下にした無法者。意味合いは千差万別ながらも、自分に関わったヒトについてモノたちは好んで語った。自ら道を選べない彼らはヒトの手から手へと受け継がれてここまでやってきた。彼らの来歴はすなわち、ヒトの物語でもある。
さらに、それに引きずられるように思い起こしたこともある。
大事なコレクションを寄贈する人たちの多くが、モノと一緒にそれにまつわる昔話を携えてやってくる。誕生日に祖父が贈ってくれた輝く羽を持つ虫。友人と化石を求めてハンマーを振るった若い夏の日。海を渡った先で出会った、新種の花と生涯の伴侶。
ヒトはモノを、ただモノとして見ているのではない。大切な思い出の証として、歩んできた道に刻んだ印なのだ。それを見ればいつでも、懐かしく輝かしい日へ戻ることができる。思い出は古びず、記憶は色褪せず、今を歩む支えになる。
そうだ。
ヒトはモノを愛し、モノはヒトを愛する。
私はヒトの言葉もわかるし、モノと会話することができる。
彼らの想いを余さず聴いて、それを伝えることができる。
もしも。
もしも、ヴンダーカンマーの外にいるヒトやモノと出会うことができたら。
彼らと言葉を交わすことができたら。
そしてその先に、私自身の物語を綴ることができたなら。
答えはまだ粗削りだ。だけどそれがどのように磨かれていくかは、未来の私が知っている。
誰かに語って聴かせる思い出を、たくさん持っているであろう、未来の私。
思い出の始まりはみな、自分がこの世界に現れた瞬間と相場が決まっている。
だったら、マダガスカルはしばらくお預けだ。
心から願ったということが大事。確かにそれは正しいと思う。でも一度願ったのなら、叶えるまで諦めたくない。言葉に込められた切なさが、私の至る結論を既に見越していたものだと今になってわかっても、それでも諦められない。
なら、やることはひとつだ。
私は
ヒトと会話し、モノと通じ合い、心を持つ。
そして、加減を知らない。
いつものノートを携えて、私は部屋を飛び出した。
「いらっしゃい瀬記くん! 待ってたよ」
エントランスホールに現れた杜都さんは、今日は一段とご機嫌らしかった。
ぼくを見つけるや否や大股に近づいてきて、待ちかねたとばかりにぼくの腕を掴み、展示室をずんずん通り抜けていく。半ば引きずられるようについていけば、妙に視線が後を追ってくるのに気づいた。睨みつけるのではなく、何か面白がるようににやにやと笑う気配。
聖書の登場人物を模った彫像に憐れむように見送られ、フタバスズキリュウの標本のウインクをまともに喰らう。
まずい。今日は来てはいけなかった日かもしれない。
「あの、杜都さん」
「んー?」
「どこ行くんですか?」
「バックヤード」
事もなげに返答され、さすがに耳を疑った。
普通はそんな場所へ容易に部外者を入れたりしない。修復途中の絵画や標本がごろごろしているのだから当然だ。そのなかには、諸々の事情で展示のできない希少品がバックヤードに無数にある。不用意に入れば袋叩きじゃ済まない。
けれど杜都さんは、いとも容易くその空間へ繋がる扉を開いた。
白衣の背を追って長い廊下を進み、案内された部屋は縦横およそ十メートル。壁には隙間なく棚が設置され、大量の書籍に無数の標本、顕微鏡、金槌や糸鋸といった道具が整然と並んでいる。そして部屋の中央には堅牢な一枚板の書類机が据えられ、そのうえでノートと万年筆が持ち主を待っていた。
「まあ座ってちょうだい」
そう言いながら杜都さんは、部屋の隅にあった電気ケトルのスイッチを入れた。そこらにあった椅子をおそるおそる引き寄せながら、ティーポットの蓋を開け、紅茶の缶を取り出すのを眺める。鼻歌を唄いながら手際よく作業する姿は、多分一般的に言えば微笑ましいと言えるのだろうけれど、背筋に冷たいものが走って止まらない。
これが、この世で最後に飲むお茶になるかもしれない。
いやさすがにそれはない、と妄想めいた懸念を即座に振り払った。確かにぼくには「前科」があるけれど、実際のところ未遂に終わっている。命をもって償わなければいけない事態にはならない。
……多分。
「お待たせ」
差し出された白磁のカップは湯気を立て、琥珀色の水面からは甘い果物と花がふんだんに香る。
これだけ香りの強い紅茶なら、妙な薬を入れたところで気がつかないだろう。睡眠薬とか、自白薬とか……媚薬とか。
恐怖のあまり不健全な想像に走り出しかけるぼくを気にも留めず、杜都さんは自分のマグを取った。赤い地肌を煙のような白が取り巻くぽってりとしたカップ。熱々の紅茶に息を吹きかけ、ゆっくりと啜る姿にこちらを伺う気配はない。
「いただきます」
「どうぞ」
意を決し含んだひと口は、やっぱり普通の紅茶の味だった。
高級品らしく実に美味しかったけれど、ケミカルな苦味らしきものはどこにも感じない。添えられたフロランタンを取ってかじればキャラメルとアーモンドが香ばしく弾け、クッキー生地にふんだんに使われたバターが舌に染み入る。
「それ、先生がお土産に買ってきてくれたんだ。最近流行ってるんだって。口に合うかな?」
「……美味しいです、すごく」
嬉しそうに頷いて、また紅茶を飲む。つられてぼくもひと口。
甘く濃い菓子の味が華やかに濯がれていき、極度の甘党であるぼくはうっかり疑念を一緒に飲み込んでしまう。
青い瞳がこっそりこちらを伺っているのにも気づかず。
「そういえばさ」
紅茶で体が温まったのか、杜都さんは着ていた白衣を無造作に脱ぎながら切り出した。
「最近ちょっと調べものをしてるんだ。自由研究って位置づけで」
「自由研究ですか。良いですね、何を調べてるんですか?」
「あるヒトの行方」
「……行方?」
杜都さんは鉱物が好きだからそれに関するものか何かだろうと予想していた。まったく違う方向からの返答にぼくはおうむ返しをしてしまう。
「行方っていうのは」
「実在していることは……いや、していたことは、って言ったほうが正しいな。ともかく実在の人であるのは確かなんだよ。ただ足取りがまったく掴めなくて」
「はあ」
それで誰を探してるんですか、と尋ねる暇はなかった。
「『
がちゃん、と手から滑ったカップが机を叩いた。
「
満面の笑みを向けられて、悪寒が舞い戻ってきた。
「
「……どうして知ってるんですか」
「さあ。どうしてだろうね?」
知識の塔。
調査部隊がかき集めてきた情報を分類し、体系付け、新しい情報として収める。定期的に手を入れて古い情報を更新する。そうやって高さを増してきた塔があることを知る人は、
今となっては、「いなかった」と言うべきか。
「それから」
指が震えているのが見えていないはずがない。けれど杜都さんはそれをすべて無視して、とどめの一言を放った。
「きみには、前科があるよね?」
ことり、と目の前に転がったのは、見覚えのあるちっぽけな塊。
指先でつつかれ、ぱかりと半分に割れた中身は空っぽになっていた。
「危ないからね。一応、これくらいの手術は了承してもらった」
ぼくが以前、持ち込もうとして失敗した小型爆弾。
こんなものを持たされた理由は単純だ。
人と寸分違わない外見を持ち、言葉を解し、ひいてはモノとさえ意思を交わす、
修理はこちらで可能だから、軽度の損壊であれば構わないと言われて。
「……脅迫ですか、これは」
「要請だよ。あるいは交渉。なんにしろ、言葉は正しく使いたまえ」
余裕たっぷりに微笑む顔は、ぼくにとっては死神のそれも同然だった。
「博物館のバックヤードなんて、展示室以上にモノに溢れているのは常識だね」
空になったカップに新しい紅茶が注がれる。甘ったるい匂いにくらりと視界が揺れる。顔に当たった湯気が微細な水滴に変わって汗と混じっていく。
「たとえばここなら、そうだなあ、マチカネワニの骨格標本がいるね。猛禽類も大勢いるし、肉食恐竜もたくさんいるし。ミニチュアだけどね。……あ、毒草の標本もめちゃくちゃいたな。さすがに危ないからこっちに引っ込めてあったんだけど。でももっと肝心なのは」
唄うように指折り名前を挙げ連ねる姿は戯れる子供のようだ。無垢で無邪気、それゆえに恐ろしく邪悪だった。
「今、ヴンダーカンマーは閉園時間中なんだよ。だからヒトはきみ以外いない。それから、モノたちはみんな起きていて、きみがここにいることを知っている」
ちくしょう、と口のなかで唸る。
こんな交渉があるもんか。条件が悪いどころの話じゃない。向こうに譲歩する気が皆無なのはともかく、こっちの切れるカードは最初からぼく自身の命以外にないときた。断ると言ったところで、数時間後には出来立ての人体標本が新たにコレクションに加わるだけだ。
「……そんなに信用ないですか、ぼく」
すっかり観念して、取り繕う気にもならなくて、弱音を吐いてしまう。
「杜都さんを危険な目に遭わせかけたのは事実です。でも、言うこと聞かないと殺すなんて、そんな言いかたしなくたっていいじゃないですか」
迂闊なことを漏らせば全身を切り刻まれたっておかしくない状況で、それでもぼくは喋り続ける。
「初めて来たときのこと、今も覚えてます。本当に、本当に嬉しかったんですよ。ぼくのこと新しい友達って呼んでくれて。あれ、嘘だったんですか」
「嘘じゃないよ」
間髪入れず杜都さんは答える。
「あのときから何ひとつ、きみに嘘は言ってない。もちろん今もだ。脅したのは悪かった。だけど、まずきみに私の本気を示しておきたかったんだ」
「本気?」
「行方を調べているのは、私の親だ。私を作った人形師だよ」
いつの間にか、杜都さんは笑顔を消している。文字通り作ったようなその顔に、嘘の気配はやはりなかった。
「私の手元にある情報では足りなかった。きみは私の知り得ない情報にアクセスできる権利がある。そして、きみは私に借りがある」
三本立てた指が、薄暗い部屋に白々と浮かび上がる。
「私も腹を決めたんだ。どうしても探し出したい、見つけたいものがあるなら、手段は選ばない。遠慮はしないし妥協もしない。使えるものならなんでも使う」
そこでほんの少し、言葉が途切れた。
「たとえそれが、私たちと対立する
そう言い切った瞳の奥が、まだほんの少し揺れているのを見つめてみる。
こんなに精巧な、人間と見紛うなんて言い回しすら陳腐な人形を作ったのが、どんな人物なのか。それはぼくも大いに気になるところだ。
モノでありながらモノに対峙しようとする人形なんて、珍しいどころじゃない。
恐怖も無力感ももはやすっかり忘れて、こみ上げる笑いに身を任せる。
生意気な言いかたをさせてもらえば、良い度胸だ。
そうだよ、杜都さん。モノと対峙するのならそうでなくてはならない。
立場も所属も違うけれど、ぼくたちは共通した性質を持っている。今の言葉でそれを確信した。
したたかで、諦めの悪い、徹底的にやらなければ気が済まない、どうしようもなくモノを愛する仲間に
ぼくの新しい友達に。
ぼくはこのとき、全力を貸すことを決めた。
「ちょっと性格、変わりましたか」
「
さらりと言い返したあと、おかしそうに顔をほころばせた。
「そんな機能があるのかどうか、直接問い合わせるんだよ。
持参のノートにびっしりと書きつけたメモを眺めて、こっそりため息をつく。ヴンダーカンマーの所蔵文献からかき集めた情報に、確かに決定的な手掛かりになりそうなものはなかった。これは大仕事になりそうだ。
「ああ、そうだ。大事なことを忘れてたな」
杜都さんはそう言って立ち上がり、黒いパーカーの襟元に手をかけた。
「これもヒントなんじゃないかな。残念ながら私にはまったく理解できなかったけど、きみならなんとかできると思う」
するりと剥ぎ取られたパーカーを、ぽいと椅子の背にかける。セージブルーのTシャツ一枚になってこちらに背中を向け、両手で裾を掴んだところで、ぼくはやっと我に返った。
「ちょっまっ、まっ待ってください! だめです困りますそういうのは!」
やっぱりさっきの紅茶、媚薬が入ってたのか? ということは、つまり……。
ああもう何を言っているんだぼくは!
「何が困るのさ。こういう美術品なんて、いくらでも見てきたでしょ?」
「それはあくまで美術品に限った話です! 杜都さんは違うじゃないですか!」
「ほう?」
首をねじってこちらへ向けた顔にはまたしても邪悪な、けれど面白がっているぶん余計に質の悪い笑みが浮かんでいる。
「きみにとって、私は美術品ではないと。そういうことかな?」
はいそうですなんて口が裂けたって言えない。ちらりと見える、引き締まった脇腹がどんなに艶めかしかったとしても。
「びっ、美術品は人前で服を脱いだりしません!」
「……ふっ」
苦しまぎれの反論に、杜都さんはほんの束の間ぽかんとしたのち盛大に笑った。体を折り曲げ肩を震わせて、そのうち堪え切れなくなったのか机をばんばん叩き出しカップが小さく跳ねた。もはや怒る気にもなれない。
「……いや、あの……ふふっ……ごめん、ツボに入った……くくくく……」
ほんとになんなんだ、この人。
「いい加減にしてくださいよ」
「ごめんごめん……でもしょうがないだろ、脱がなきゃ見えないんだから」
「はい?」
杜都さんの着ているTシャツ。海と空の中間の青色に、鳥が五羽並んでいる。その姿がしなやかに裏返った。現れた素肌の背中は抜けるように白く、眩しい。
けれど、もっと強烈にぼくの目を捉えたのは、そこに踊る文様だった。
白い肌とネイビーの染料の、コントラストが目蓋に焼き付く。
最も大きな模様は背中の中央にあった。
一見すると、五枚の細い花弁を持つ花。しかし目を凝らせばそのうちの一枚、五芒星の上向きの角に該当する一枚はやや寸詰まりだ。残り四枚はすべて二枚の短い花弁で構成されていることがわかる。二枚は鎖の輪のように縦に並び、丸い結節点で繋がっていた。
もちろん、これがただの花であるわけがない。
結節点は人体の関節、つまり肘と膝を意味し、短い花弁は頭部を表している。すなわち、大の字に横たわる何かの姿だと読み取れたら、示すところは明白だ。
さらに観察を続ける。次は、人形を取り囲む種々のモチーフだ。
人形を作り出す職人――人形師たちは、古くから人里離れた場所に工房を構え創作に没頭した。彼らの大半は社会から隔絶された生活を送る。皮肉なことに、人間と一見区別がつかないほどの作品を生み出す者ほどその傾向は顕著だった。
未だ人間の誕生は奇跡と呼ばれる神の領域にあり、疑似的であれそれに届こうとする者に待つのは名誉と恐れと反感だ。無知を責めるには溝が深過ぎる。
ゆえに彼らにとっては、自身の作品であり「子供」である人形こそが世界との接点だった。
人形師たちは我が子を送り出すとき、自らを表す固有の紋章を背負わせた。
それは人形師が込めた祈りであり、祝福であり、また呪いでもある。
きらめく川。三角の標識。竜胆。飛ぶ鳥の群れ。ふたつの林檎。隙間を埋める唐草模様の鎖。十字架。金貨。そして、点の集まりに見えたものは無数の星座。
ぼくが読み取れたモチーフは、概ねそのようなものだった。
「写真、撮っていいですか」
意を決し、カメラを取り出す。渇いた喉のせいで声が掠れた。
顔だけで振り返る、その目元がうっすら赤らんでいた。胸元を隠すように掻き抱いて、けれど口調だけは相変わらずにぼくに告げる。
「うちの収蔵物は、撮影禁止だよ」
よろしくね。小さな呟きに頷いて、ぼくはシャッターを切った。
外出申請などという書類を作ったのは初めてだった。
様式なんて知らないから、とにかく思いつく限りのことを書く。目的と期間、そして行き先。大切な万年筆で一字ずつ、嘘偽りなく書く。
次の日、比呉先生にそれを渡した。ぽりぽりと頭をかきながら、ひと通り目を通して再度私の顔を見る。
驚いている様子はなかった。
「あとは現地に行ってみるしかない、か。よくここまで調べたね」
「はい。苦労しましたが、なんとか」
内心冷や汗をかきながら、あくまで冷静を装って答える。
絶対に彼の、彼らの名前を出すわけにはいかなかった。
個人の関係がいかに良好であれ、お互い立場上は決して相容れない場所にいる。もし私の計画に協力していると露見すれば彼は無事で済まないだろう。もちろん私も、相応の処分を受けるに違いない。
「……良い友人を持ったね」
ばれるわけにはいかないのだ。私と私の友人のために。
たとえその覚悟が、瞬く間に無駄になったとしても。
「なんのことでしょう?」
即座にしらを切る。ボストンフレームの奥で笑う瞳がそれを悪あがきと告げるけれど、口が裂けても白状するつもりはない。なにせ証拠はどこにもないのだ。少なくとも、先生たちの手の届く場所には。
「私はあくまで私自身の判断で行動しました。それだけです」
「もちろんそれは知ってるよ。ただね……杜都さんはこう、なんでも一人で抱え込んじゃうところがあったからね。頼れる友人ができたのは、大きな成長だなと思ったんだよ」
「おっしゃっていることが分かりかねます」
「まあ、成長という意味なら、反抗期が来ることもなんら不思議ではないか」
精いっぱい冷たい声で切り返しても、先生はますます笑みを深めるばかりだ。目を細めて眉を下げて、まるで泣いているみたいに。
「僕にも子供がいるんだ。まだ小さいけれどいずれ反抗期が来て、言い争ったり喧嘩しながら大人になっていくんだろうね」
きみのように、と先生は言葉にしなかった。
「ここに来てからきみは本当に変わった。見た目じゃなく、きみの心そのものがどんどん成長していった。それはもちろん嬉しいことだったけれど、同時に不安でもあったよ。きみはやっぱり、どこまで行っても
なんとなく、気づいてはいた。
私を見るときほんの少しだけ、苦しそうに表情を陰らせることに。
「僕は、きみを一人前の博物士にしたいと考えていたんだ。僕らと一緒にモノを守れるように。そしていつかきみが自分自身を守れるように。そのためにできることはなんでもするつもりだった。だからね」
革張りの書類挟みは、パピルスを飲み込んでぱたりと閉じる。
「外出申請は必ず通す。可愛い子には旅をさせよ、って言うからね」
頭を撫でようとした手は、結局私の肩をやさしく叩いた。
「旅行鞄が必要だね。ぼくのを貸してあげよう」
「あの」
今を逃せば、多分二度と尋ねる機会はなかった。
「今でも、不安ですか。私がどういう風に成長するのか」
「いいや。まったく」
だって、と屈託なく先生は笑った。
「私自身の判断で行動した、って言ったでしょう。胸を張ってそう言えるなら、もう何も心配することなんてないよ」
ひらりと手を振って、深緑のシャツの背中は今度こそ行ってしまう。
開館までもう間もない。目を覚ましたモノたちのそわそわとした気配に満ちた展示室で、私は踵を返す。
今日は団体客が来る予定だ。その案内が済んだら、寄贈されたコレクションの検品。そして、荷造り。
忙しい一日になりそうだ。
ガラスに映ったぼくは、珈琲より濃い隈を浮かべている。
こんな有様で会いに行くのは気が引ける。それでも今は、一刻も早く報告書を渡す必要があった。
文献を読み漁り、使用理由をでっちあげてデータベースを隅々まで調べたのに、決め手になる情報は何ひとつ掴めないままだった。わからないことをわからないと正直に言う、それは正しい在りかたと頭ではわかっているけれど、どうしても悔しさが拭い切れない。
分厚い紙の束を次々にめくり、杜都さんはその内容を手際よく確認していく。
「現在のところは、これが精いっぱいです」
「充分だよ。これだけあれば、あとはどうにでもできる」
言い訳がましい台詞を真に受けて、杜都さんは紙面から顔を上げる。慰めとも気休めとも無縁な性格が、なおさら無力さをかき立てる。
「これはもう、共同研究と言えるかもしれないね」
「共同研究?」
再びページをめくり始め、添付の資料を仔細に検証しながら言う。
「きみが仮説を立てて、私が検証する。形式上はそうだよね。だったら、理論と実践と言い換えてもいい。それはもう立派な研究だよ」
「……それは、その……光栄です、とても」
本当に、身に余る光栄だった。一緒に研究ができたらと出会ったときから思っていた。叶うならぼくが力になりたいしぼくの力になってほしい。そして堂々と、世界中に向けてぼくたちの研究を公表したい。
でもそれが実現するのがいつになるのか、ぼくにもまだわからない。
きっと、とても長い旅になるだろうから。
「いやはや、これじゃあきみの前科を帳消しにしてもまだお釣りが出るね。随分大きな借りを作ったもんだ」
おどけた調子で言うから、ぼくは潤んでしまった目を擦って、同じくおどけて答える。
「まったくですよ。データベースの使用許可取るの、本当に難しいんですからね。必ず返してくださいよ」
「そう言ってもなあ、きみにあげられるものなんて持ってないよ。困ったな」
本当はちっとも困っていないのだろう涼しげな態度に、胸の奥が小さく軋む。
ぼくの友達。
やっぱりきみは、ひとりで行くんだね。
「……あるじゃないですか。とっておきのものが」
だからその代わり、とっておきのわがままを。
「帰ってきたら、杜都さんが見てきたもの、聞いてきたこと、感じたこと。全部、ひとつ残らず、ぼくに話してください。それでちゃらです」
こちらに向けられた眼差しが、やっと苦く笑う。それで、少しだけ満足した。
「また高くついたね。取り引きが上手いな、瀬記くん」
机に置いたレポートが小さく音を立てた。
「わかったよ。約束だ」
杜都さんが伸ばしてきた腕に、逆らわず身を任せる。
肌は冷たく、けれど包むように人を抱く
ぼくを友達と呼んでくれた
「必ず、帰ってきてください」
「もちろん。待っていてね」
外出申請はあっけなく通った。
ただし、大きな宿題つきで。
「そこに行けば、何かしら手掛かりが得られると?」
「これ以上の資料の入手は不可能です。現地調査以外の方法はないと考えます」
できるだけ淡々とした口調で返答すると、貨玖先生は片眉を上げてみせた。
面白がってるな、まったく。
こちらが何をしたか比呉先生以上に知っているくせに、決して口は割らない。このしたたかさがヴンダーカンマーを守っているのだろうけれど、相手にすると厄介で仕方ない。
「結構です。そういえば、杜都さん」
丸眼鏡の奥で老獪な瞳が笑う。
「三等博物士への昇格試験の内容を、まだ考えていませんでしたね。せっかくの野外調査ですし、これは私からの提案なのですが」
こういうのをおそらく、墓穴を掘ったと言うのだろう。
しかも月のクレーターくらい特大のやつを。
「あなたを制作した人形師の手がかりを現地で入手し、結果を報告する。そして、そのレポートをもって試験とする」
いかがですか、と首を傾げられたところで、こちらに拒否権はない。
比呉先生の意図はどうあれ、私はいずれ博物士になるつもりだった。目的ではなく、ひとりになっても生きていく手段として。
そのための勉強を日々の業務にかまけて後回しにしていたのはこちらの過失だ。それは間違いない。そうは言っても、こんな伏線の回収があるだろうか。
「承知しました」
「よろしい。ではもうひとつ条件を」
過剰に性能良く作られた表情筋が引き攣るのがわかって、まだ見ぬ親を今から恨む羽目になる。
「手がかりが得られなかった場合、あなたを非活性化します」
「……それはつまり」
「ただの人形に戻っていただく、ということです」
こんな冷たい目をする人だったか、彼は。
勘づいてはいた。でも、知りたくはなかった。
「研究施設への部外者の侵入は断じて許されるものではありません」
何を示しているのかは嫌でもわかった。さっきは口を割らなかったのではなく、切り札を取っておいただけだ。
「では、非活性化の方法も同時に調査してまいります」
「それはこちらで把握しているので、必要ありません」
こてんぱんだ。こんなに惨めな意趣返しの失敗ってあるだろうか。
貨玖先生、
「……承知しました」
深々と一礼し、言いたいことの諸々は腹に収めて文書を受け取る。
出張命令書。
両先生の署名と花押は、この施設における最高にして絶対の効力を持つ。
「詳細は別紙に。旅券は比呉先生から受け取ってください。それでは」
そう言い残して立ち去ろうとする貨玖先生に、もう一度言葉をぶつけた。
「先生は」
立ち止まった背中に、あの日のことが思い起こされる。
今日は頭を下げて見送るわけにいかなかった。
「先生は、獅子の子落としをご存知ですか」
「あなたは獅子ではなく龍の類でしょう、人智を超えている意味では。それに」
ほんの少し間があって振り向いたその顔に、珍しく老いの影があった。
「獅子だろうが龍だろうが、私たちはあなたをここへ連れてくるつもりでしたよ。初めて会ったときからね」
ひらりと手を振って、踵が床を蹴った。
「谷は深いですよ。全力で、這い上がってきなさい」
背中に施された精細な紋様――「家紋」に散らばるモチーフは、とある青年の手による未完の小説を表すのだという。
広大な土地を山と川に抱かれた郷で青年は生まれ、石の声を聴き風の歌に耳を傾け、動物とヒトこよなくを愛し、終わらないままの物語を残し、亡くなった。
人形師たちはめったに社会へ姿を現さない。しかしそのうちの、奇才の名工と名高い職人があるとき突然工房を畳み、郷へ移住した痕跡を
あとは行って確かめるしかない、とレポートは結論付ける。
ならば、ここからは私の仕事だ。
どれだけ歩いても壊れず、どれだけ眠らなくても崩れない、特別に頑丈な体を私は持っている。そして、諦めるつもりなんて最初からない。
だったら大丈夫。私は、どこまでだって行ける。
この体に詰め込んだいくつもの物語と共に、私は旅に出る。
「困ったらいつでも連絡しなさい」
比呉先生の貸してくれたトランクには、小さなタイプライターが入っていた。
短い手紙に小さく苦笑する。きっと比呉先生は、子供には甘い父親なのだろう。着替えにしっかりとくるんで、詰め込んだ。
外套のポケットに手を入れる。取り出した旅券をランプにかざし、何度も読み返した行き先を照らす。
イーハトーヴ。そう呼ばれる街へ、私は向かう。
きっと長い旅になる。ひどい目にも遭うし途方にも暮れるだろう。帰りたいと泣き言を漏らす日もあるかもしれない。散々歩き回っても何も得られなければ、私はまたがらくたの木偶人形に逆戻りだ。話すことも考えることもできなくなる。ある意味これは、死出の旅だ。
貨玖先生が本気と理解して敢えて条件を呑んだのは、命と呼べるのかどうかもわからない、けれど私を突き動かす何かを賭ける価値があると信じたからだ。
最初で、もしかすると最後になるかもしれない旅。
それがきっと、かけがえのない、いつか思い出すための記憶になる。
私だけの、たったひとつの物語になる。
そう思う。確信している。
だってこの博物館は、いつも予感に満ちている。
ランプのスイッチを捻る。静かに消えた三日月の灯りが、目蓋に焼き付いた。掴んだトランクの重さが胸を逸らせる。夜行列車が待っている。知らない世界が、私を待っている。
ヴンダーカンマー。私の愛するところ。私の家であり、私の在処。
そして、いつか必ず、私が帰る場所。
もう一度大きく息を吸い、天井を振り仰いだ。
「行ってきます!」
――行ってらっしゃい!
見送る無数の声に背中を押され、私は走り出した。
邂逅の旅路へ。
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