六百二十一号書架 ら 百十五区 二百三十九番 二百四十九巻 五百四十五頁 六百九十六章 百七十一節 「神さまによろしく」

 川から上がってくる風が、奔放に前髪をかき乱す。

 橋から見下ろす流れ。広く深く蛇行してやがて海へと至る川は、この街の懐にしっかり抱かれている。

 生きる人が暮らす以上街もまた生き物だ。その記憶に強く刻まれたせせらぎの音、水面に影を落とす橋、気まぐれに雲へと姿を隠す青い山。遠く離れた地から来た私にさえ、その風景はどこか懐かしさを感じさせた。

 時刻は夕方。気の長い夏の太陽はずいぶん傾いたものの、まだ空の途中にいる。水をたっぷり含んだ空気がその光線を気ままに散らす。仕事は終えてしまったが、このまま帰るにはあまりにもったいない。それに何しろ今はとびきり機嫌が良い。通り道にふらりと立ち寄った本屋で探し求めた図鑑を見つけ、叫び出したくなるのをこらえて外に出てみれば、ビルも車もそして川も黄金色だ。

 何もかもがきらめいて燃え立ち、東北の短い夏へ讃歌を灯している。

 暮れゆく今日を惜しみない喝采で見送り、やってくる明日の幸福を心から願う。風に戯れる街路樹の青葉はさやかに唄い、ひと足先に夜へと向かう飛行機は翼に残照を乗せてまっすぐ飛んでいく。

 岩手県。ここは噂通りの黄金郷、理想郷。

 誰もが笑い、喜び、悲しみさえも輝けば、祈らずにいられない。

 こんな素敵な夕暮れ時を、ようやく手に入れたお宝を片手に素通りするなんて、あまりに味気ない。何かをせずにはいられない。何かとはもちろん、美味い酒を飲むことだ。

 もしかしたらこんなこともあるかもしれないと、そういう店が立ち並ぶ場所もしっかり頭に入れてある。ウイスキーの古いコマーシャルみたいにぴょんと飛び跳ねたくなりながら、私はだんだん賑やかさを増す街を歩いた。

 道路を挟んだ向かい側に立つ鳥居を見ながら角を曲がると、白い暖簾がひらりと揺れた。店先に貼られた品書きの鮮やかな墨文字に吸い寄せられるように引き戸を開く。たちまち人いきれが漏れ出し、煙草の煙と酒の匂いと香ばしい湯気がそれを追いかける。半身を差し入れるとすぐに店主がこちらに気づいて目礼する。こちらも軽く頭を下げて近づけば、カウンターの空いている席を示された。

 呑み屋の店主は無愛想なほど良い。寡黙な職人が次々料理を仕上げていくのを、杯を傾けながら眺めるのが何より好きだからだ。鰺の刺身に茹でた空豆、そして大好物の出汁巻き卵。冷たいおしぼりで手を拭いていると、又隣に座った青年の姿が目に入る。

 節くれだった手がお猪口を取る。凛と背筋を伸ばし中身を干す仕草は実に堂に入ったものだ。歳は二十代の終わりと見える。洗い晒した砂色のシャツの袖から伸びる腕は引き締まってよく日に焼けている。癖のある前髪を持ち上げ、照明を遮って額に影を落とす。きりりとした奥二重の、伏せた睫毛は存外に長い。引き結んだ唇が意志の強さを表していた。

 無粋な視線に気づいたか、青年がふと目を上げた。黒目の縁がくっきりとしている。私は、意外にも穏やかな視線にほっとしながら無礼を詫びるつもりで頭を下げた。青年も軽く会釈し、わずかに表情を緩めたようだった。青年はまた机に目を落とし悠然と徳利を取り上げた。肴は夏野菜の焼き浸しと枝豆。食べ終えた焼き鳥の串が行儀良く皿の端に並んでいる。

 今度は少しずつ、味わうように酒を口に運び始めた青年は、一人でいることに随分慣れているように思えた。誰に強いられたわけではなく、一人でいること、一人であることを自ら選び取った、自分の足で歩く覚悟を決めたゆえの静けさを彼は持っている。きっとどこにいても、昔からそこにいたかのようにしっくりと馴染めるのだろう。街角の小さな居酒屋にも、遠い国の道端にも。

 ビールの泡が静まるのを待ちながらふわふわの卵を口に運ぶ。噛めばたちまち溢れ出す出汁と甘く溶けるような卵を、金色の炭酸で流し込む。これこそ、夏の醍醐味だ。グラスをひと息に空け、思わずほうっと歓喜のため息を漏らせば暑さと疲れが消えていく。

 思えば、今回の旅は慌ただしく始まった。ちょうど手が空いているからとなし崩しに私が指名され、泡を食ってスーツケースを引っ張り出した。災難だと眉をひそめつつ楽しみであったのも事実だ。まだ足を踏み入れたことのない土地は、それだけで心が躍る。

 見たことのない景色、出会ったことのない人。何が私を待っているのか、飛び乗った新幹線の座席であれこれと夢想しては、思わず顔がほころんだものだ。

 熱々の空豆が口のなかでほろりと崩れ、塩味が舌に沁みるのを味わっていると、青年がふいに顔を上げカウンターの向こうに声をかけた。

「お代わり、お願いします」

 その声で、先ほど感じた印象が確信に変わった。

 青年のことはまったく知らない。旅先の、たまたま入った店で出会った誰か。それなのに、何気ない彼の声がひどく染み入ったのだ。広く深い海に似て内側に湛えたものを大切に守っている。どこへも留まらず漂いながらその漂流を自身のあるべき姿として受け入れ、生きている。

 一人でいること、一人であること。

 悲愴さも虚勢もない、ただそうあるだけのこと。

 新しい徳利から静かに酒を注ぎ、飲み干したのを見計らって、私は思い切って声をかけた。

「この辺りの方ですか」

 青年は私が話しかけることをわかっていたのか、うろたえた様子もなく言葉を返してくる。

「いえ。旅の途中で立ち寄りました」

 この街は夕陽が綺麗ですね。そう言ってやわらかく目を細め笑う。その表情にそっと胸を撫で下ろす。冷たくあしらわれたらどうしようと、ほんの少し恐れていたのは杞憂に終わった。自分も用事があって南から来た。東北の風景は新鮮で、本当に美しい。そう話すと、青年は頷いて続きを引き取る。

「ここは理想郷で、黄金郷ですから」

 空席をひとつ挟んだ、遠くも近くもない距離感で私たちは会話を続けた。

 青年は丁寧に言葉を選び、時折酒で口を湿しながら話す。

 小さな荷物で街から街へ、国から国へ渡り歩く生活を青年はもう何年も続けているのだという。資金が足りなくなれば日雇いを転々として稼いだ。宿代が工面できず路上で寝た日もあれば、ろくに言葉も通じない現地の若者の下宿に転がり込み、朝まで呑み明かした。酔っ払いとの喧嘩は数知れずしたし、時には警察に捕まって一晩収監された。それでもこの生活はやめたくないし、やめられない。

 彼の体験談に比べれば、私の暮らす南の街の話は実に味気なく、つまらない。それでも青年は静かに耳を傾け、賑やかで楽しいところだと言ってくれた。

 青年がふと目を逸らし、徳利に手を伸ばしたのをきっかけに会話が途切れた。私もグラスを傾けながら何気なく視線を漂わせると、ずっと目の端に見えていた大きな黒い塊が注意を引いた。

 喩えるなら、口を長く伸ばした巨大な瓢箪。私も若い頃、遊びのつもりで手を出したことがあるから、もちろんそれが何かはすぐに見当がついた。

「ギターを弾くんですね」

 そう声をかけると照れて笑い、これが旅の相棒なのだと答えた。

「これまで本当にいろんなところへ行きました。人がいるところ、いないところ、あちこちです。そうやって気づいたのは、どんな場所でもそれぞれ違う風と土があるということです。景色も空気の匂いもひとつとして同じものはない。それがぼくに歌をくれます。ぼくは風に代わってギターを弾き、土の作った歌を唄っているだけなんです」

 抑えた調子で語る言葉の端々に、地中深くで煮え滾るマグマに似た、彼自身を支え前へ進ませる力の気配があった。

 酒を口に運ぶのも忘れて聞き入っていた私に、青年ははっと目を開いてばつが悪そうに苦く微笑んだ。

「すみません。よくわからない話をしてしまって」

「ああいや、その」

 正直、彼の話を理解できたという自信はなかった。

 私も旅を好んでいるが、所詮は手頃な街を歩いて呑気に楽しんでいるだけで、景色から旋律を聴き取るような感性は持ち合わせていない。ごく平凡な散歩者だ。ただ彼が、自身の感覚やそれが引き起こす経験を何よりも大切に思っていること、それが彼の内面を築き、どこにあろうと折れない強靭さを保っていることだけはわかった。

 そのようなことを拙い言葉で話し、それで締め括るつもりだったのに、自分の内心を飾らずに相手に伝えるこそばゆさと早くも回り始めた酒の勢いでうっかり口を滑らせた。

「あなたは、その……いろんな神さまを連れて歩いているようだね」

「神さま?」

「その、信仰の対象とか、何か大きな力を持った存在じゃなくて、そうだな……そこにしかない、そこにしかいない、何か。と言えばいいのかな」

 相槌も打たず、青年はじっとこちらを見つめている。

 その目が何かを問うているようで、私はなおも喋った。

「風や土や、街とそこに住んでいる人が一緒くたになってできる、なんというか、そこにしかない時間とか、空間。そういうものを、神さま、と呼んでみたんだ」

 しどろもどろに継ぎ足した言葉に、返事はなかった。

 ぽっかり空いた沈黙を店の喧騒が通り過ぎていき、迂闊な発言を後悔するには充分な程度に私の頭を冷やした。いかに相手が観念的な話をしているとはいえ、神さまなどとオカルトめいた表現は失礼ではないか。

 彼が語ったのは彼の根幹をなす物語であり、それを安易な宗教か何かのように扱った私はとんでもない恥知らずだ。たかが旅先で隣り合っただけなのに、何を偉そうに。

「このあと時間はありますか」

 延々と続くかと思われた自己嫌悪は、他でもない青年の声で止まる。

 奇妙に緊迫した呼びかけに顔を向ける。爛々とした目に、思わず慄いた。

 くっきりとした黒目の輪郭がますます際立ち、今にもそこから火を噴きそうなほど光が満ちている。視線は射るのではなく、拳を叩きつけ胸倉を鷲掴む強さを表し、先ほど感じた煮え滾る力をありありと見せつける。

 青年は、先ほどまでの穏やかさをかなぐり捨てた気迫を発していた。

 まるで別人になった姿に気圧され、ええ、とかはい、とか曖昧に呟くと、彼はひと息に残りの酒を干した。薄青色の猪口が机を叩く。

「行きましょう」

 そう言ってこちらの返事を待たず席を立つ。あまりの豹変ぶりに戸惑いながら、私も慌ただしく勘定を済ませ店を出た。


 ギターケースを背負った青年は脇目も振らず大通りを進んでいく。途中小さな酒屋に立ち寄り、緑色の壜に入ったビールを二本買う。城址の堀の角を曲がり、到着したのは公園と呼ぶにはあまりにささやかな、申し訳程度にベンチを設けただけの小さな空間だった。街のポケットのようなその場所に人気はない。

 日が沈んでまだ間もないのに、生い茂る木々に囲まれているせいか辺りは既に夕闇に包まれ始めている。

 青年は早々とベンチに腰かけ、壜の王冠を手すりに引っかけて器用に外した。有無を言わせず差し出してくるのをひとまず受け取る。軽く爽やかな炭酸を喉に流し込みながら、武骨なケースの留め金がばちんと外れるのを眺めた。

 ギターは全体に細かい傷をまとい、手の擦れる部分などは塗装が剥がれて木の地肌が露出している。そのほかにも無数の汚れやまるで読めない落書き、破れたステッカー、無理やり木材を当てて補修したらしい欠け、酒やら何やらの染みにまみれ、元の色は辛うじて判別できるほどだ。それでも軽く爪弾けば機敏に反応する。音は掠れるどころか深みと張りを持ち、老成しつつ新鮮なみずみずしさを失わない。

 この楽器は、持ち主と本当によく似ている。

「さっき、神さまと言いましたね。ぼくに歌をくれるのはまさしくそういう存在なんです。世界はそこにしかない時間と空間にあふれている。それぞれの場所に、それぞれの神さまがいる」

 青年は訥々と語り、それに添って呟くように弦が鳴る。

「それに気づく人は多くありません。気づいても無視されることがほとんどです。でも、誰も知らない場所であっても、風は吹く」

 だからぼくは唄うのです。

 指が指板を滑り、擦れる高い音は空気を塗り替える。

 青年は深く息を吸い、夜はほんの少し深まった。

 打って変わって、歌う声は実に饒舌だった。

 民謡と聞けば得心するし、ジャズと言っても頷ける。ブルースと説明されれば疑問の余地もない。細かい節回し、転がす声、何かに似ているようで何とも似ていない、懐かしさと新鮮さの入り混じる旋律。爪先でリズムを取りながら、散歩するよりももっとゆっくりしたテンポで、青年は実に気持ち良さそうに歌う。

 うっとりと聴き入るうち、酩酊した頭がどこかへ流されていくようだった。

 脳裏に、次第に細かなイメージの水滴が凝結する。

 風景が雲となり、手が触れられそうなリアリティで目の前に立ち現れる。

 音楽から何らかの景色を「見る」特殊な感覚が存在することは知っていた。

 存在するものの、それは非常に稀なケースであり自分に宿っているはずはない。実に荒唐無稽な話だが、青年の唄う声に催眠術めいた効果があると考えたほうがまだ信じられる。

 それでも、景色は確かに、私の前にある。

 見下ろすのは長く続く坂道だ。両脇に住宅が立ち並び、狭い歩道の隙間を縫うように電信柱が立ち並ぶ。陽射しがうらうらと明るいが、ひとたび脇道に入れば薄暗く、先も確かではない。

 私はそこを駆け下りていく。三段跳びの長い跳躍のように、長く大きな一歩を刻んでいく。半ば低空を飛ぶようなものすごいスピードで走っているはずなのに不思議と気分は穏やかだった。後方へ飛び去って行く景色がキャンバスのうえで延ばされる絵の具のような長い影になるのを、横目で見る余裕すらあった。

 頬を叩く風や、蹴りつけるアスファルトの固さがあまりに生々しい。記憶よりもっと鮮やかな映像のなか、シャツの裾が複雑な曲線を描いてなびいている。

 私はどこまでが現実なのかを測りかね、そしてはたと気がついた。

 そうか、これが。

「神さま、なのか」

 知らず漏れた呟きに青年はただ、弦の音で応えた。

 羽のように伸ばした腕が、何者かにぐいと引かれた。

 強く前へのめった私の身体はしかし倒れることなく、ストライド気味の歩調が次第にピッチを上げる。小刻みに地面を蹴る動作は、次第に走行ではなく舞踏のそれに変わっていく。

 照り付ける太陽の光。

 瓦礫をくぐる風の音。

 青空に吸い込まれる煙。

 景色は一変していた。

 坂道も住宅も消え失せ、辺り一面に破壊の通り過ぎた跡が残る。

 どこもかしこも廃墟だった。穴の空いた外壁がコーンフレークのように崩れていき、家だったものが燃え殻の山になって未だに燻る。標識か何かがただの黒い棒になって傾き突っ立っている。ひび割れた道路からは焼けた土の匂いがする。

 ここからは見えないだけで、そこらじゅうに死体が転がっているのだろう。

 焼き尽くされたまま顧みられない街には、ざわめきと、既に諦めを通り越した開き直りの覇気のようなものが満ち始めていた。

 黒焦げの木箱をカホンに見立てて叩く男。

 煤と血で汚れたスカートを翻しながら踊る女。

 地面にどっかりと腰かけ呻き声めいて吟じる片腕のない老人。

 涙の跡もそのままに飛び跳ね駆け回り、手を叩く子供。

 名もない宴。その輪に加わる者たちは、みな笑っている。

 家も人も街も焼けた。食い物もなければ明日の保証などあるはずもない。どのみち最初からやり直しならば、泣き暮らすより浮かれ騒ぐほうがまだましだ。

 どうせこの先、悲しみからも苦しみからも逃げられず、浴びるほど味わうほかないのだから。

 今くらいは唄い踊ったって、これ以上悪いことは起こるまい。

 どん底の街に、底抜けに明るい歌が鳴り響く。

 踊りの輪の中心に青年がいた。

 脇目も振らずギターをかき鳴らし、異教の経文かスキャットか判別のつかない声を上げている。生き延びたことへの喜び、生き延びてしまったことへの嘆き。それらに捧げるために、自分の喉さえも楽器にして奏でる。旅の埃に汚れた服と髭面で声を張り上げる彼の姿は信徒のようですらあった。

 焼け落ちた街で唄う姿と、ベンチに腰かけ弦を爪弾く姿が二重写しになる。

 ここは住宅街の坂道でもなく、焼かれた街でもない。盛岡の片隅にある小さな公園だ。穏やかでいよいよ夜に包まれていく空間に、あり得ない光景は鮮やかに展開される。

 そこにしかない、名前のないものたち。

 オーケストラのような。街角の風のような。雑踏のような。木々のざわめきのような。

 彼のなかにあり、彼が感じ、見聞きしたものを、彼自身の言葉と声で。

 ああ、そうか。

 ようやくわかった。

 彼自身に宿る「神さま」が、彼を唄わせているのだ。

 青年が、自身の体と心にいっぱいに詰め込んで持ち帰ってきたものたち。

 それが今、歌となって、景色となって流れている。

 架空の街で私は踊る。それに合わせ、現実の街で手を打ち鳴らす。歌は続く。宴は続く。灰と汗の匂いが鼻先をかすめ、幻と現の狭間に溶けて消えていく。

 どれくらい経っただろうか。

 焼け落ちた街はいつしか消え、代わりに淡い光が現れた。

 辺りはすっかり暗く、右に左にゆったり揺れるその光に視線が吸い寄せられていく。

 真鍮色のフレームが覆う、ガラスの火屋はぽってりと丸い。

 一見なんの変哲もないそのランプは、よく見ると芯が燃えるのではなく、手のひらに載るほどの三日月が光っているのだった。

「あなたには、よく見えるのですね」

 尋ねるべきではないのかもしれない。

 灯りを掲げ静かに呟いた、どんなときでも独りで立つのだろう彼に。

「あなたは」

 意を決し口を開く。青年が黙って耳を傾けるのがわかった。

「さびしくは、ないのですか。こんなに鮮やかに景色を唄うことができるのに、それを大勢と分かち合わないのですか」

 一瞬の沈黙に三日月の光が揺れ、残像の帯になり、束の間宙に浮いていた。

「さっきも言ったように、誰もが気づくものではないんです」

 木々の匂いのする暗闇に、声は染み入っていく。

「あなたのようにはっきりと見聞きできる人は多くありません。共有したくてもできない、そういう類のものなんです。だけど、それで良いと決めました」

 静かにベンチへ置いたランプが、彼の顔を柔らかく照らす。

「そこにしかない時間も空間も、ぼくのさびしさも、すべてを含めてぼくの歌になる。そう決めたんです」

 浮かび上がった面持ちは穏やかで、一層決意の固さを物語った。

「それに、こうしてたまさか訪れる出会いこそ、ぼくには何より尊い」

 息をひとつ吸う。再び弦に指を添え、きっとこれが最後の歌になる。

 心からさびしいと口にするのは、実はとても困難なことだ。

 大抵その言葉は他人を求める色合いをまとってしまう。誰かに注目されたい。耳を傾けてほしい。相手をしてほしい。そういった要求を感情の糖衣でくるんだありふれたものになり下がる。ただ想いを言い表すだけの純粋な言葉は、相応の覚悟を持たなければ発することができない。

 だからこそ、歌はナイフよりも切実だった。

 さびしい。

 ただその想いだけを鋭く、まっすぐに、一分の欠けもなく切り出す。

 誰にも何も求めず、空の色を唄うように、華やぐ街角を唄うように。

 今度はなんの景色も見えなかった。その理由を既に私は理解している。

 いつかどこかではなく、今ここに、彼のさびしさはある。


 時刻は深夜を回っていた。

 お互い何も言わず表通りまで並んで歩く。夏虫の声以外聴こえるものもなく、足音だけがささやかに響いていた。

 交差点に差し掛かり、青年が足を止めた。夜の凪に似た瞳を細め、小さく会釈する。この先は、もう隣り合って歩けないようだった。

 ゆっくりとした歩調で歩み去る彼に、私は思い切って声をかけた。

「神さまに」

 振り返る彼の目をまっすぐに見つめ返す。

「神さまに、よろしく」

 青年は笑ったかもしれなかった。

 そのまま背を向け、通りの向こうへ消えていく。

 あとはただ、水蒸気に満ちた夏の夜だけが残った。


 自宅へ戻り、盛岡で購入した図鑑をさっそく開く。

 どのページにも色とりどりの写真が並び、ほれぼれとそれらを眺めていると、ある箇所に目が留まった。

 真っ青な空を背景に、どこまでも続く砂漠。

 丘と谷とが無数に影と日向を作る砂の海は、見覚えのある色をしている。

 理想郷、黄金郷で出会った青年。

 砂色のシャツをまとった彼には、多分もう二度と会えないと思う。

 だから祈る。

 青年の旅路が愉快で、安全であることを。青年の歌が高く、遠く響くことを。

 この世界に満ちる神さまに向けて、私は祈る。

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