月浜定点観測所記録集 第二巻

此瀬 朔真

三千八百二十三号書架 め 七十四区 十八番 百六十七巻 四百九十二頁 四百十三章  百九十四節 「サトナシの夏」

 すれ違ったのは観光中らしい家族連れ。手を繋ぎ、時折吹く風に帽子を押さえながら笑っている。はしゃぐ子どもの肩からぶら下がる水筒の、鮮やかな色合いが目に沁みた。

 彼らは私に気づくことなく、正午近くの短い影を連れて歩く。若い夫婦と幼い男の子。彼らにとってこの街は旅先のひとつに過ぎない。ひとしきり楽しんで、時間が来れば立ち去る。旅を終えて帰るべき場所へ戻っていく。

 親子はゆっくりと橋を渡り、駅へ向かう横断歩道を渡った。何が詰まっているのか、子どもの背負う青いリュックサックは丸く膨らんでいる。それが元気よく弾むのを、ビルの陰に隠れるまで見送っていた。

 肩に掛けた荷物を背負い直し、私は踵を返す。橋の中央付近まで進んでいき、目元を刺す強い陽射しを手で遮りながら左手へ、川の上流へ顔を向けた。

 火口付近の切り立った輪郭。乱反射する光のなかに、くっきりと浮かび上がるシルエット。岸辺に並ぶ建築物をものともせずどこまでも長く伸びていく裾野。

 まとう雲を払い、荒々しい地肌を惜しげもなく晒すその姿。

 水と光の粒子が無数に飛び交う空間のなか、岩手山は揺るぎなく鎮座する。

 住居としての故郷。あるいは、ノスタルジアの行方としての故郷。

 すなわち、心に思い浮かべる地点としての故郷を持たない。

 精神的支柱を旅のうえにのみ求め、あらゆる拠り所を持つことができず、また持つことを選ばない。

 行く場所も、帰る場所もなく、旅すらも栖にならない。

 サトナシ。

 正式には「郷無し」と呼ばれる個別の一族は、そのような性質を持つ。

 自分もその一員であると、そう気づいたのはまだ十代も半ばの頃だった。

 あらゆる場所や組織、果ては家族すらも、心から自分の仲間、あるべき場所と身内と捉えることができなかった。確信はなかったものの、自分が属する場所、依る相手はこの世に存在しないのではないかと、薄暗い不安を抱えながら日々を暮らした。

 無論、周囲はそんな私を受け入れるはずもない。常に疎まれ無視され、時には積極的に攻撃されることもあった。手違いで紛れ込んだ異物、あるいは路傍の石。私に対する扱いは、概ねそのようなものだった。

 サトナシの存在を知ったとき、私は安堵した。この寄る辺なさに、周りに何もないのに感じる窮屈さに名前があること、それを持つ人々が複数いること。その事実はしかし、結果として私の孤独を決定的なものにした。

 同種ではあっても、仲間ではない。

 サトナシはどこにも属さない。誰にも依らない。たとえそれが、サトナシ同士であっても。

 旅に出ようと決めた日のことはよく覚えている。

 いつものように朝に目を覚まし、顔を洗い歯を磨き、誰とも視線の合わない居間で砂の味のする朝食を取る。焦げたトーストを齧ってふと視線を上げたとき、窓の外の景色が鮮烈に網膜を焼いた。

 天頂から地平線まで、たった今織り上がった布のような淡いグラデーションを描く青い空。街路樹の若葉はガラスよりもなお鋭く、繊細にその輪郭を輝かせる。アスファルトに立ちのぼる陽炎が砂糖水に似たゆらめきを見せ、歩道を行き交う濃い影は灰色と青の中間色をまとう。横切っていく虫の羽は日光を透かす緻密な模様のステンドグラスだ。

 飽きるほどに見慣れた景色が、目の前で一枚の名画へと姿を変えた。

 今日という平凡な一日は、二度と来ないという儚さと尊さによって、これほどまでに彩られる。前触れのない奇跡、夏の朝の光景が、ついに私の背を押した。

 私がどんなに孤独でも、世界はこんなに美しい。

 私がどんなに泣いたって、世界はこんなに美しい。

 私に居場所をくれない世界は、残酷で冷たくて、こんなに、美しい。

 部屋に取って返し、窮屈な制服を剥ぎ取った。

 気に入りのTシャツに薄いパーカーを羽織り、プリーツのスカートの代わりにジーンズをまとう。およそ女の子らしくないと嫌われた格好にすっかり身を包む。わずかな荷物を鞄に投げ込み、振り返らず部屋を出る。訝しむ視線が刺さっても、見送りの言葉はない。そんなことはずっと前からわかっていた。

 足に馴染んだスニーカーを履き、体当たりするようにドアを開ければ、そこが終わりのない旅路の始まりだった。

 私はいくつか歳を取りながら延々と世界を巡った。街角に、砂漠の真ん中に、森の奥深くに、厚く氷に閉ざされた島に、半島の岬に、最後の夕陽が沈む灯台に、やはり私の居場所はなかった。居場所がないことを繰り返し悟るための旅だった。ほんの少しの諦念はいつも心の近くにあり、しかし時間が経つにつれて薄らいでいった。

 サトナシは国境を持たない。行く先々に、それと思しき人々を見ることが多々あった。みな穏やかな面持ちで、口数は少なく、決して集団には加わらず、人の輪から外れたところで静かに微笑んでいる。好かれることを求めず、疎まれても頓着せず、請われても名乗らない。そして同胞らしき相手とすれ違うときにだけ、ひっそりと目を見交わす。

 そんな個別の一族は、夏になると気まぐれにひと所に集まる。

 誰かが号令をかけるわけでも、ましてや誰かに招かれることもない。けれど、何かに吸い寄せられるようにサトナシはやってくる。ある者はなけなしの金銭で晴れ着を買い、ある者は屋台を借り出してささやかに料理を振る舞う。そして、変わらない微笑をほんの少し紅潮させて、花火が夜空を染めるのを眺める。

 サトナシは群れでありつつ徹底的に独立した矛盾めいた存在ではあるけれど、こと夏祭りに限っては息を合わせたように揃う。そのため、この行事はサトナシ同士の消息を知る場にもなっている。風の噂の吹き溜まりだ。初めて出会う者もいれば、雲のうえ、あるいは地の底へ旅路を変えたことを知らされることもある。何かを香ばしく焼く煙のなか、どこか侘しい祭り囃子のなか、そうして私たちは泡沫のひとときを共にする。そして夜が明ければまたそれぞれ、どこかへ紛れて消えていく。

 幻想の国、イーハトーヴ。その中央よりほんの少しだけ北上したところにある大きな街、モリーオ市。

 幻のようなサトナシたちの、幻のような夏祭り。その舞台に今年選ばれたのは、この街なのだった。

 

 この夏祭りは恩寵なのだと、いつかの祭りで聞いた。

 織姫と彦星が年に一度、天の川を渡り出会えるように、あまりに個別な我々が真の意味で孤独ではないと知るための、いわば天が与えた時間なのだと言う。

 そう言った彼は、いつも瞳の奥に灰色の影を湛えていた。

 望んでサトナシになったのではないと、その目を見ればすぐにわかった。

 先天性の病のように、意思に関係なく一生つきまとう孤独を彼はもてあまし、はっきりとそう表明したことこそないものの、忌避していた。炎天下に滝の汗をかきながら、決して彼が脱ぐことのなかった仕立ての良い灰色のスーツを今でもよく覚えている。

 どんなに望んでも彼の本質と魂は旅へと向かい、「社会とつながり続けるためのおまじない」と称して現代の迷彩服をまとうしか、もはや抵抗する術がない。そんな彼を哀れとは思わなかった。ただ、かつての妻に贈られたというネクタイピンにはめられた薄青い石の冷たさが目に沁みた。

 山から目を背け、ゆっくりと橋を渡り切る。この先は商店街だ。バス停の脇に並んだプラタナスの木が葉を揺らし、赤い軽自動車が勢い良く交差点を曲がっていく。すれ違い、追い越していく誰もが私に注意を払わない。目が合っても何もなかったように逸らす。私たちはそういう存在だ。空気のようですらない。歩く空白。だから目が合っても忘れるどころか、そもそも意識されない。

 そのような、世界に空いた人型の穴たちがこの街に集まってきている。

 街の人口密度がいかに上がろうと息苦しさを感じさせる原因にすらなれない、歩き回る空白地帯の群れは、それでも祭りの気配に浮かれつつあった。

 カラオケ屋がやけに乱立する商店街を昼食時の香ばしい香りが満たしている。揚げ物の、黄金色に染まった表面と跳ねる油を連想させる匂い、蕎麦屋の暖簾の向こうから流れてくる濃いだしの匂い。この町の名物であるという味噌で甘辛く味つけた挽き肉を麺に絡ませた料理を出す店からは湯気の匂いがふんだんに湧き出し、それを目当てに早くも行列が出来始めている。

 腹の虫を刺激するそれらをひとつずつ楽しみながら、私はついに交わることのなかった人々について思いを馳せる。

 汗を拭いながら飯をかき込む人たちと、もし友達になれたなら私は何を話しただろう。どんな話を聞かせてもらえただろう。大切なもの、若い日の苦い思い出、未だ消えない夢の残り火について、語り合うことができただろうか。

 そこまで考えて私は苦笑する。

 旅に出てから、もう片手では足りないほどの年月が経った。自分がサトナシであり、その性質または運命からから逃れることはできないと承知したのはずっと前のことなのに、まだ未練がましく誰かを求めている。もしかしたらこれは未練ではなく、歳を取ったせいなのだろうか。老人が次第に子供返りを起こすように、私もまた子供じみた欲求を取り戻しつつあるのかもしれない。

「なんてね……」

 あまりの滑稽さに自嘲めいた呟きが漏れた。二十歳を少しばかり回った程度の若輩者が子供返りも何もあったものではない。心配すべきは老いよりも、未熟であることのほうだろう。それに今は時間相応に腹も空きつつある。大抵の場合、前触れのないセンチメンタリズムは栄養か睡眠の不足によって引き起こされる。

 私は通りがかった適当な定食屋に入り、注文を取りに来た女性の目をしっかり見て、丁寧に注文を告げた。サトナシと言えどれっきとした人間だから、言葉は通じる。しかし時折、私たちを見ることも、聞くこともできない相手に出くわすこともある。そうなったらもう黙ってその場を立ち去るだけだ。その人を責めることもできなければ、自分を責める必要もない。ただお互いそのような立ち位置だったというだけのことだ。

 焼き魚は申し分なしに塩が利き、汗をかいた体には実に美味かった。油揚げの味噌汁と茶碗にこんもり盛った飯、煮物ときゅうりの辛い漬け物を平らげ、熱い番茶の湯呑みを傾けながら店内を眺めていると、やかましいワイシャツの集団が引き戸を開けた。力を誇示し合うように大声で喋る彼らに辟易し私はそそくさと席を立つ。サトナシの利点のひとつは、好ましくないと感じた場所からいつでも離れられることだ。私たちを繋ぎ止めるものもなければ、縛り付けるものもない。

 商店街を抜け、水を湛えた城跡の堀を右手に見ながら足を進める。レコード屋、古本屋、呉服屋に年季の入った喫茶店。ラーメン屋を通り過ぎれば道の反対側に神社が見える。参道に立ち並ぶのはほとんどが居酒屋のようだ。ここにも食事を求めてやってきた客が店先にまで列をなしている。

 気忙しい午後の始まりの風景。私はそれを眺め、けれど足を止めずに道を進む。もう間もなく祭りの会場だ。

 そこは広い公園だった。美しい石畳、細やかに手入れされた木々、ふんだんな陽射し。根無し草が集まるにはあまりに贅沢な、平和でありふれた日向。本当にここが目的地なのかつい疑ってしまう。仕方なく、辺りをぐるりと見渡してみる。

 眩しそうに目を細め行き交う人々からぽつりと離れて木陰に座り込む人影は、どっかりと腰を下ろしてくつろいだ様子に反してどうしようもなく周囲から浮き上がっていた。傍らに置かれた緑茶のペットボトルさえ所在なさげに見える。

 歳は四十に差し掛かった頃か。その人に近づいていくと、男は水面に垂らした釣り糸を引き上げるようにこちらへ視線へ向け、そしてすぐさまこちらの素性に気づいたようだった。

「こんにちは」

 挨拶すると小さく頷いて答える。吸いかけの煙草を地面に押し付けて消した。

「ここですか」

「らしいね」

 掠れた声にはやや疲れの色が混じる。身なりは整っているが、彼もまた長旅の末にここへ辿り着いたらしい。

「早く着き過ぎたよ。あんたが二番目だ」

 短く刈り込んだ髪をわしわしと掻き、男は再び視線を公園の情景を投げかける。その釣り針が落ちたらしい辺りを目で追うと、老婆が杖を頼りに炎天下を渡っていく。細かい花柄の、気づかないうちに時間が褪せた色に染め直したワンピース。大きく曲がった腰。濃淡の違う灰色が入り混じる髪は、ゴッホの絵に似た曲線でパーマがかけられていた。

 男の横顔をそっと見る。眼差しは乾いた郷愁の色を帯びていて、彼も望まずに旅の風に吹かれて道を踏み続けているのだとわかる。

「あんた、随分若いな」

「かもしれません」

 返答は生意気な音をもって響き、男のくすんだ横顔はほんの少し和らいだようだった。新たな煙草をくわえる。

「祭りは夕方からだ。もうしばらく待ちな」

 一礼し踵を返す私の背中に、ライターを擦る音が届いた。

 故郷から遠ざかる道ばかりを辿ってきた。

 心を温めるような思い出がなかったこともその理由のひとつではある。日暮れまで取り残されたかくれんぼ、誰にも拾われずに食卓に落ちた言葉、教室の机に置かれた花瓶。そういうものばかりが脳裏をよぎる。しかし、私が最も恐れ忌避しているのは、長く住んだ場所にべったりと貼り付いた情の、強引に過去を水に流そうとする馴れ馴れしい距離感に他ならない。サトナシを繋ぎ止めようとする行為は私たちに対する敵意、排除しようとする意志と同義だ。

 異物を遠ざけることと、それを飲み込んで群体の一部とすることは、目障りなものを消去するという意味では等しい。やっと消えかけた郷里への執着を煽られ、屈して舞い戻ったものの二度と外へ出ることは叶わず小さな町に縛り付けられたまま果てたサトナシがいたことはまだ記憶に新しい。

「私のさびしさは」

 そうして私はまた、同じ言葉を自身に言い聞かせる。

「私のさびしさは、私のものだ」

 交差点に立ち尽くし、すれ違う誰もが通り過ぎていくなかで呟きを煉瓦造りの屋舎だけが聴いていた。角を曲がる車のウィンカーが急き立てるように点滅し、忙しい街の流れが生け垣に積もる砂埃を撫でても私はそこに立ち続けた。

 私を試すものは私以外におらず、それゆえ誓いを立てる相手も私しかいない。

 汗を拭えば、川の音が聞こえてくる。この街にかかる無数の橋から見下ろすと大方の河原は草に覆われて、何度も人が通るせいでそこだけ露出した砂利を高級そうな運動靴が一定の速度で踏むか、あるいは散歩途中の犬が尾を振っている。一度だけベースギターをつま弾いているのを見かけた。低い弦の震えは減衰して橋のうえまで届くことはなかったが、その胴が縁に向かって暗くなっていく色であることは遠目からでもわかった。奏でては吹き散らされる旋律が何を意味するのか、おそらく私はこの先一生知ることはない。だからただ、夏草の翠と眩しいほどの夕陽色のコントラストのみ記憶して立ち去る。やがて空が同じ色に染まるまで、残りの数時間を逍遥して過ごした。

 引き返す道は次第に暗くなり、気の早い街路灯が虫たちを呼び寄せる。日中に熱され続けた空気が次第に冷えていく、その温度や匂いの変化を楽しみながら、だるくなった足を前へ進める。

 無性にラムネが飲みたくなった。よく冷えた、宇宙ロケットみたいな硝子壜を氷水から引き上げて、駄菓子みたいなピンク色の小さな器具を一気に押し込む。決して怯まず、手のしたで反乱する泡が落ち着くまでじっと待つ。そうしたら、窪みに引っかけたビー玉が落ちてこないよう慎重に壜を傾ける。甘く酸っぱく、獰猛な炭酸が弾けながら渇いた喉を駆け抜けていく。

 記憶通りの味を求めて向かう公園には、既に提灯がささやかな光を投げかけていた。何かを香ばしく焼く煙とどこか侘しい祭り囃子、同じ寄る辺なさを持つ者にしか聴こえない透明なざわめき。

 堪え切れず駆け寄る広場は、祭りの気配に満ちていた。

 サトナシは常に旅路のうえにあり、よって衣服もそれに適したものを好むが、今日ばかりは浴衣をまとう姿も目立つ。丁寧に結い上げた髪に、粋に結んだ貝の口に、弾む心が見え隠れする。老人も若者も入り混じり、思い思いに揺らめく。先ほどの男がペットボトルをなみなみとビールの入ったコップに持ち替え、顔を赤らめているのが見えた。

 私は手頃な屋台に近づき、小銭を差し出した。店先の巨大なクーラーボックスには満々と水が張られ、ブロック状の氷が浮かんでいる。手ぬぐいを頭に巻いた若い女がそこへ手を差し入れ、壜を掴み出した。壜がまとう水滴を丁寧に拭って渡してくれる。

「ありがとう」

 女は黙ってにこりと笑った。愛らしいえくぼが浮かんでいた。

 礼を言うこと。それに応えて笑うこと。人から遠ざかっていると、そういった些細な社交からひどく遠ざかるように思う。たった一夜の喧騒がその実感を強くさせる。通奏低音めいたさびしさが急に強まるとそれはほとんど暴力に近くて、手荒に落としたビー玉が壜のなかで高く抗議の声を上げた。今日に限ってきつい炭酸がついに溢れ、ずぶ濡れになった手もそのままに一口を大きく飲み込んだ。喉を刺し、叩く甘酸っぱい炭酸は、確かに望んだ味だった。涙が出るほどに。

 決して群れることはできず、根を張ることもできないとわかっているくせに、それでもこうして未練がましく集まっては同じ時間を過ごそうとする。

 たとえ隣り合って笑っても、お互いは夜空の星よりも遠く隔てられているのに。

 それを無駄だと言い切る勇気を未だ私は持てずにいる。そしてきっと、ここに集まったほとんどのサトナシたちも。

 自分が流浪の星のもとに生まれたことを、否定する意思はもうない。私たちに与えられた運命は今や抗いがたい衝動となって体の奥深くに組み込まれており、たとえばある朝唐突に家を飛び出すといった予告のない形で噴き出す。私たちはそういう風にできており、そのような者として生まれた。

 もしも神という絶対的な存在がいて、それがサトナシを作ったのだとしたら、そいつは常軌を逸するほどの間抜けか、情や心といったものが軒並み凍り付いた嗜虐主義者に違いない。

 そうでなければ、サトナシたちに死ぬまで独りであり続けることを宿命づけておきながら、人の心を――誰かと共にいたいと願う心を持たせたりしない。

 本当はみんな泣いている。泣きながら旅をしている。見えない涙を流しながら、幸せそうに寄り添う普通の人々から無理に目を逸らしながら、どうしようもない自分の在りかたを捨てることもできず、一夜の慎ましい祭りに痛みを紛らわせ、明日になればまたどこへともなく散っていき、死ぬまでこの星を彷徨い続ける。

 あまりに無残で、侘しくて、過酷な道を、私たちサトナシは行く。

「停泊したままの船を船と呼ぶものかよ」

 呻いて歯を食い縛る、まだ堪えられない幼い私は空になった壜を割れんばかりに握る。誰も悪くないし誰も責めることができない、けれど一個の人間の根幹を揺るがすほどの理不尽を改めて提示されれば、子供じみて強がる以外できることなど何もなかった。

 行き場のない怒りに剥き出しの腕までが火照る。一日でずいぶん焼けた肌を、隣に立つ気配が涼しく撫でた。

「おばんでがんす」

 静かな声に導かれて顔を上げる。カンカン帽を持ち上げてみせる青年の手は、労働に荒れて草と土の匂いがした。

「……こんばんは」

 私はついぞ方言というものを持たなかった。なんと言ったか理解できたものの、答える言葉は平凡極まる。しかし相手は満足げに目を細めて頷いた。白地に藍で模様を描き入れた浴衣が浮かび上がって見える。

「賑やかで、結構ですね」

「年に一度ですから」

「そうですか。ときにはこうして、みんなで集うのは楽しいものです」

 まるでサトナシたちがこうして集まることを知らなかったような、何か祭りをやっているからこうしてやって来たのだとでも言うような青年の口ぶりに、何か引っかかるものを感じた。

「今日は、どちらから」

 物珍しさだけで今夜の祭りを引っ掻き回されるのはごめんだった。それとなく相手の素性を探るつもりで尋ねる。

「今日は八幡平のほうへ行っていましてね。昨日は宮古、その前は遠野まで足を伸ばしてきました」

 頭のなかに地図を広げ、今青年が口にした地名に架空の赤いピンを刺してみる。かなり広範囲を移動しているようだ。一箇所に落ち着かないのは確かに私たちの性だけれど、大抵の場合極端な長距離を歩き回ることは好まない。青年は訝しむ私に気づいたもののあくまで快活に笑う。

「なに、距離は大した問題ではないのです。行きたいと願えばどこへでも行けるのですよ。ぷいっとね」

 その言葉で確信した。彼は私たちの同胞ではない。どこへでも、願った場所へ行きたい。それを永遠に叶えられないのがサトナシだからだ。

「まあまあ、少しお話しましょう。彼らの出番が終わったら」

 そう言って眺める先へ何気なく顔を向ければ、ふいに人垣が割れた。

 ライトに照らされてぽっかりと開けた一角に木箱とビールケースが置いてある。有り合わせの椅子が二人分、客席と地続きのステージ。そこへ二つの人影が踏み入った。

 つやのある黒いボブヘアにざっくり編んだ帽子、若草色のワンピース。セルロイドの眼鏡の奥で目をほころばせた女性。もう一人は男性だ。真っ白なシャツに銀縁の眼鏡。ぴかぴかの靴を履き、ギターを携えて口元に笑みを浮かべている。もちろん二人もサトナシだ。けれどそれ以上に、彼らのまとう空気のあたたかさがなんだかよく似ている。

 二人が並ぶと、彼らの足元がふわりと明るくなった。あらかじめ置いてあったランプが灯ったらしい。その中身は蝋燭や灯芯ではなく、手のひらに載るほどの三日月だった。細かな粒子を撒くようなやわらかな光のなか、朗読者と演奏者は深々と一礼し、観客は拍手を送った。

 急拵えの椅子に腰かけた二人は、それぞれ大切に抱えた本を開き、フレットに指を当て、すうっと息を吸った。

「『銀河鉄道の夜』」

 やわらかく、同時に輪郭の際立った張りのある声。甘く深く、紡ぎ上げて折り重なる和音。声と音とは緩やかに螺旋を描き、聴衆を取り巻いていく。

 祭りの夜がもう一段、深くなる。

 不思議な符合だ。

 ここがモリーオ市である以上、この物語を読むのは珍しい話ではない。しかし、ステージに耳を預けたまま背負った鞄のなかにある一冊の本のことを思い出すと、そう感じずにいられなかった。

 夏の朝に手招かれて帰らない旅に出た、あの日。

 大急ぎで荷物を詰め込んでいる最中、偶然開け放していた本棚が視界に入った。そこに収めた無数の本のうち、一冊が偶然はみ出していた。そして、鞄には本が入る程度の隙間が偶然残っていた。

 それを掴み、畳んだ服のあいだに押し込んだときの気持ちを、もう私は覚えていない。

 ただでさえ自分がサトナシという非現実的な存在であるから、私はオカルトのたぐいを信じない。偶然は何かに導かれて起きるなどと思いもしない。

 祭りがイーハトーヴで行われたことも、青年と出会ったことも、何もかもが「偶然」だ。

 けれど、と私は思い直す。

 隣の青年の顔を盗み見る。一緒になって台詞を口ずさみ、旋律に合わせて指を振る、にこにこと機嫌の良さげな横顔。

 ここにいるはずのない彼の正体を、私はようやく悟る。

 イーハトーヴ。現実と幻想の境目の国。

 何が起ころうと、誰に出会おうと、何ひとつおかしくはない。


 不意に、辺りに静寂が落ちた。

 女性が本を閉じて立ち上がり、休憩を宣言する。固唾を飲んで聞き入っていた聴衆は大きな溜め息と共に緊張を解き、惜しみなく拍手を送った。傍らを見ると青年も高らかに手を叩いている。嬉しそうに、誇らしげに大きく頷いた。

「じつに良い。じつに良いです。学生の時分に演劇をしたことを思い出しました。あれは楽しかった」

 感極まった声でそう呟き、カンカン帽を取って胸に当てた。

 辺りに再びざわめきが満ちていく。どこかでかき氷機が勢い良く動いている。

「自分の作品が誰かに読まれるのは、恥ずかしくないですか」

「そんなことはありませんよ。こんなに楽しく読んでくれてじつに嬉しいです」

 問いかけるのにはほんの少し躊躇ったけれど、青年はそれを知ってか知らずかこともなげに答えた。

「この話について、今でもたくさんの人が色々なことを言います。みんな、自分自身の考えが正しいと信じている。けれど他の誰かの言葉や想いに胸を打たれることだってあります。それはとても清いことなのです」

「神さまを信じるように?」

 語尾を上げる私に、青年は笑って答える。

「はい。ですからあなたの孤独も、決して無意味なものではないのですよ」

 突然話が私に及んで面食らった。咄嗟に答える言葉が見つからず、ぼんやりと青年の目を見つめ返す。一重の目蓋、やわらかく下がった目尻。

 あたたかい瞳の奥には、何もかもを見透かす知性とあらゆるものを見つけ出す感性が宿っていた。

「あなたがここへやってきたから私はあなたと話ができた。もっと大きな視点で見れば、あなたが旅に出なければ私はあなたに出会えなかったわけです。へんに聞こえるかもしれませんが、私はあなたの孤独に感謝しているのです」

 言っていることがわからない。私は仕方がなく、衝動のままに、逆らうこともできず飛び出してきただけなのに、それを恩寵であるかのように讃える理由を、私は理解しかねた。

「あなたはどうか、自分の気持ちを見捨てないでください。それはあなたの半身なのです。どんなに呪わしくても、あなたの一部であることに、あなたの欠片であることに変わりはない。あなたを築いている大切な、あなたのものなのです」

「だけど」

 そんなこと言われたって、素直に肯けるわけがなかった。

「こんな気持ちいらないです。誰とも一緒にいられなくて、どこにいても居心地が悪くて、いじめられて、無視されて、やっと自分が何なのかわかったと思ったのに、仲間ができたと思ったのに、なのに一生こうして歩き回るしかないって、そんなの」

 何かの手違いで紛れ込んだ異物、あるいは路傍の石。

 私たちを見ることも、聞くこともできない人々。日が暮れるまで取り残されたかくれんぼ、誰にも拾われず食卓に落ちた言葉、教室の机に置かれた花瓶。

 橋を渡る親子を見たときの、燃えるような羨望と憎悪が火傷になってまだ胸を刺している。

 与えられなかった、決して手に入ることのないものを見せつけられる苦しさは、どれだけ歩いても消えはしない。

「さびしくて、さびしくて、こんなにさびしいなら、もう死んでしまいたい」

 私のさびしさは私のものだ。だからと言ってそれが愛しいはずがない。灯りに吸い寄せられる虫のように集まって、群れのふりをして笑い合って、でも結局、どこまでも一緒に行けるわけはない。明日になれば散り散りに口を噤んで去っていく。祭りの喧騒は公園の外へ漏れ出すことなく、通りがかる人たちはこちらに気づかない。

 誰かを好きになることすら、忘れそうになってしまう。

 肩に置かれた手の、硬い皮膚の感触とあたたかさに甘えて私は泣こうとした。そしてやっと、涙は堪え続けると流れなくなるのだと知った。空の井戸から水を汲み上げる虚しさが胸に刺さって、奥歯をぎゅうっと噛む。

「どうして私たちなんですか。どうして私なんですか。どうして――どうして、なんでですか、先生」

 決して答えが出ないとわかっている問いを子供みたいにぶつけて、驚くほどの大声にざわめきが遠くなった。

 彼は決して目を逸らさない。浴衣の袖に縋り付いた私を振り払うこともなく、肩に置いた手をそのままに、笑みを収めて私を見ている。

「あなたもわかっているのでしょう。あなたがたはただそのようにできていて、誰かを責めることはできないと。あなたという現象は、善でも悪でもなく、ただあるがままに世界に立ち現れている」

 独り言のように、詩を読むように、彼は語る。

「先ほども言いましたね。あなたが放浪の星のもとにいるからこそ、私はあなたに出会えた。誰にも追従せず、誰のことも否定しない。平らかな視野で、遥かを見つめて、ここまで歩き続けてきた」

「それは」

 そうするしかなかったから。それ以外にできることはなかったから。

 それ以外の生き方を、手に入れることはできなかったから。

 しかし彼は反論を許さない。

「いいですか。あなたは、私の弟子なのです。私の大切な教え子、もっとも辛く苦しい道を行く、誇り高い弟子なのです」

 記憶のなかの擦り切れた本がひとりでに開く。見えない手によってぱらぱらとページがめくられ、ある一編の詩が綴られた場所で止まる。

「さびしさはあなたの詩です。かなしみこそがあなたの魂の輝きです。旅立った日を思い出してごらんなさい。世界はあの朝、ほんとうの姿のかけらをあなたに見せたのです。そしてその景色でもって語りかけた。美しいものが、ありあまるほどの美しさがあなたを待っている。立ってその目で見に行くのだと」

 ――いいかお前は俺の弟子なのだ

「あなたはそれを唄いなさい。力いっぱい唄いなさい。あなたの足音を伴奏に、林や風や野へ向かって唄いなさい。美しさを、さびしさを、あなたが生きているということを」

 ――力のかぎり

「誰にも見えないものを見て、誰にも聞こえない音を聴いて、そして誰にも触れられない世界へ、おそれずに飛び込んでいくのです」

 ――空いっぱいの

「誰もあなたを選ばなくとも、あなたはあなたの道を選びなさい」

 ――光でできたパイプオルガンを弾くがいい

「そして、唄いなさい。あなたにしか唄えない歌を」

 私にしか唄えない歌。

 私だけの歌。

 私だけの、きっと誰にも届かない歌。

 私の旅路に響く歌。

「私に」

 漏れたのはひどく細い声だった。

「私に、唄えるでしょうか」

 先生は、優しいけれど人を甘やかしたりしない。だから、必ずできる、なんてその場しのぎの言葉もくれない。

「やってごらんなさい。繰り返し、繰り返し、一歩ずつ進むように」

 ただ、そう諭すだけだ。

「星が瞬き、川が流れ、山がそびえ、風が吹き過ぎていくように。そのように、唄い、旅をするのです」

 星が、川が、山が、耳元を吹き過ぎた風が、私を誘っている。

 空の向こうから呼んでいる。

 まだ私の知らない、景色が。

 とん、と肩を押され、勢いのままに空を振り仰いだ。

 暗闇を渡る、淡くけぶる星の川。

 その水面を今ひと筋、青い光が駆け抜けていった。

「まっすぐに進みなさい、私の弟子よ。いつかまた、どこかで会いましょう」

 湧き立つ拍手の音が辺りを通り過ぎて、私はやっと目の前に誰もいなくなっていることに気づく。ステージを振り返ると先ほどの二人が戻ってきていた。彼らを照らすぼんぼりがやさしく揺れている。

 ざわめきが引き潮のように遠のいて、物語は続く。

 夜空を行く汽車は、死者の世界を走るのだと言われている。

 そこへ迷い込んだ少年ジョバンニは、親友と共に銀河を旅する。停車場を歩き回り、乗客たちと語らい、やがて彼らと別れる。ついには親友すら少年を残していなくなる。

 虚空へ向かい泣き叫ぶ少年に、その声は語りかけた。

『あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなといっしょに早くそこへ行くがいい』と。

 声の主――ブルカニロ博士は、ジョバンニにもっとも辛く苦しい道を示した。未だ帰らない父は投獄されたのだと噂され、母は病に臥せ、家計を支えるために働く彼は友達と遊ぶ時間もない。さらに現実世界に戻った彼を待っているのは、親友が川で溺れたという知らせだ。

 少年の現実は既に苦難に満ちている。そして行く道も、決して明るくはない。

 朗読は間もなく終わる。

 少年は、丘の頂上で遠く汽車の音を聴く。

「『その音をきいているうちに、汽車と同じ調子のセロのような声でだれかがうたっているような気もちがしてきました。それはなつかしい星めぐりの歌を、くりかえしくりかえしうたっているにちがいありませんでした。』」

 透き通る声はやわらかく灯りに溶け、ページは静かに閉じていく。爪弾く弦は物語を見送り、新しいメロディを奏で始める。

 誰もがよく知るその旋律に、観客たちは詰めていた息をほっと吐いた。そしてもう一度、冴えて透明な夏の空気を胸いっぱいに吸う。

 声を合わせ、ただひと夜の祭りを飾るために。

 

 あかいめだまのさそり

 ひろげた鷲のつばさ

 あをいめだまの小いぬ

 ひかりのへびのとぐろ

 オリオンは高くうたひ

 つゆとしもとをおとす


『ジョバンニはそれにうっとりときき入っておりました。』

 銀河鉄道の物語は、そのように終わる。

 少年がこの先、どのような人生を歩んでいくのかは綴られていない。

 けれど、その先が今ならわかるような気がする。

 再び、見上げる空。

 揃えた声がいっぱいに響き、幾重にもこだまして、天の頂から歌が降ってくるようだった。

 そうだ。

 少年は一人、唄っていたに違いない。

 さびしさに耐えながら、彼にしか唄えない歌を。

 荒れた手を握り、こぼれそうな涙を堪えて。

 ほんとうの幸福を探す旅路のうえで。

 そしてあの人もまた、今なお唄っている。長い旅の途中で。

「先生」

 そっと呟いた声が、新しい響きを持って星空へ吸い込まれた。

「いつか聴いてください。私の歌を」



 作中の文章は以下のテキストより引用しました。

 宮沢賢治(2000)『銀河鉄道の夜』(岩波少年文庫)岩波書店

 天沢退二郎編(2011)『新編 宮沢賢治詩集』(新潮文庫)新潮社

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