第2話 黒衣の魔女

 雨のせいで道は泥濘ぬかるみ、予定時刻を大幅に超えて四時間後の到着となった。尻の感覚は痛みで麻痺してしまっている。腿の後ろがビリビリして脚がうまく曲がらなかった。

 不格好な歩行を続けて、僕は屯所に辿り着く。スローストローク――神聖帝国アルミナの南西にある辺境の街だ。列車の走る線路も駅も存在しない。見渡せば広大な農地ばかりが広がっている。金色をした小麦が雨に濡れて大きくしなっていた。じきに収穫のときを迎えるだろう。その前に嵐で薙ぎ倒されなければいいが。


 そう、片田舎。それどころかクソ田舎だ。

 農地のほかにはバカでかい家が点在しているのもいかにも田舎らしい。民家に併設された物置には農具が置かれ、それから馬や牛を飼うための家畜小屋も家の裏手にあったりする。未だに馬車で移動するほどの文明レベルだ、ない家の方が珍しいんだろう。屯所の周囲を見渡して、僕は嘆息する。


 屯所のなかも、まあ想像通りの古臭さだった。首都の洗練されたデザインの建物を求めているわけではないが、それにしたって年季が入っている。明かりは小さな豆電球に粗雑な傘を被せた程度。床は焦げ茶というよりも、茶色だったものが黒く汚れた具合。柔らかい部分がなく軋みもさほどひどくなかったのは幸いだが、喜ぶ基準が低すぎると我ながら思った。

 僕を出迎えてくれたのは、しょぼくれた背中を丸めた中年のおっさんだった。


「刻限は随分前だったはずだが」

「すみません。雨で悪路になっていまして」


 人当たりのいいとは言えない人相をしていた。上司になる男は無精髭を撫でながらそうかい、とさして興味なさげに応じた。


「名前は」


 仮に新入り相手とはいえ、そのつっけんどんな言い方に僕は唇を結んだ。白銀の薔薇が刺繍された団服を着ているから間違いなく彼も神聖騎士なのだろうが、長年着ているせいか本人と同じくくたびれている。せっかくの誇り高い銀色もくすんでしまうというものだ。

 僕はあくまでも大人だから、不平は言わずに淡々と自己紹介する。


「はい。クオーツ・ジェスであります」

「仕事は聞いてるよな」


 それを教えるのが先輩のあんたの役目じゃないか、と言ってやりたくなった。


「はい。神聖騎士の役目は街の治安を守ることです。犯罪者を取り締まり、国民の声を聞き……」

「要するにだ」


 神聖騎士を揶揄する呼び名に僕は不快感を隠せなかった。他人から言われるならまだしも、神聖騎士自身がそんな呼び方をするだなんて。眉根を寄せた自覚はあったので、上司の口調に皮肉が込められても動揺はしない。


「お国のために働ける誇り高い仕事だとでも思ったか? そういうのは中央の役目だ。こんな田舎町にゃあ事件もなければ悪人もいない。毎日平和ボケした畑をぐるりと回って、馬のお産の手伝いをしてやるくらいさ」


 こんな人が神聖騎士だというのか。僕はもっと高潔な……困っている人々を助け、悪人がきちんと裁かれる世の中のために神聖騎士になったのに。

 上司が顎で奥のロッカーをしゃくる。荷物はそこにしまえと言いたいらしい。


「ま、楽して平和に金を稼げるのが利点かね。お前さんもまずは街を回ってみるといい。それで今日の仕事は終了だ」


 ***


「なんだよあのクソ上司!」


 道端の小石を思いっきり蹴飛ばす。が、濡れた足場のせいでずるりと滑った。力んでスイングした割に小石は思ったほどの飛距離が出ず、ぽてぽてと小さく跳ねて小麦畑に落っこちた。何もかもうまくいかない。イライラする。

 上司が外を回ってみろと言っていたし、あの空間に上司とずっと一緒にいるのが精神が耐えられそうになかった。他にやることもないので僕はスローストロークの街を散策することにする。外は雨が降っていて傘が必須だった。田舎の街は土地が広大だからとにかく畑とでかい家しか目に入らない。一軒ずつ回るにしても時間がかかる。とりあえず歩いてみよう。そうやって踏み出した先で、僕は僕の人生を変えるほどの衝撃的な出会いを果たすのだった。


「やあやあ、そこの君。すまないがこっちに来てくれないか」


 その人は、一際大きな家の入口から僕を呼びとめた。

 黒衣、それと黒い傘。全身を真っ黒い服で包んでいるから、喪服かと思ったほどだ。ゆったりとした黒いロングドレスをまとった妙齢の女性がこちらを見ている。深い茶色をした長髪の毛先は緩く巻かれていたが、湿気のせいでやや外に広がっているようだ。神秘的な紫水晶の瞳が僕を貫くように見据えている。

 片田舎に住んでいるにしては、服装が洗練されていた。僕は警戒しながらも女性の元に歩み寄る。


「なんでしょうか」

「君、神聖騎士だろう? ちょっと頼みたいことがあるんだが」


 この街の人は神聖騎士を便利屋か何かと勘違いしているのだろうか。神聖騎士が軽んじられては困る。僕は不躾と知りつつも不本意な思いが勝ったので問いかける。


「……失礼ですがあなたは?」

「私か? 私はグルニエ。

「は?」


 僕は彼女の言っている意味が一瞬理解できなかった。魔女? 魔女って……

 魔女。それは科学技術で発展してきた神聖帝国アルミナにとって唯一の脅威。科学では証明できない未知の力、を扱う存在だ。お伽話や昔話の伝承に出てくるような人智を超えた力は、魔女以外誰にも扱えない。だからこそアルミナは人間の力の結晶である科学技術の発展にすべてを注ぎ込み、国を大きくさせてきた。そうやって膨大な時間をかけて人間が築き上げてきた国を、魔女は常軌を逸した力で一瞬で焦土に変えてしまう。ゆえにアルミナは魔女を恐れる。大陸で一番の大国であるにも関わらず。

 理解した途端、僕は脚がすくむのを感じた。魔女は冗談で名乗って良い名前ではない。アルミナで魔女を見つければ、すぐに帝国の監視下におかねばならないからだ。

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