旅館、朝、皆の驚き
思いもよらないことだった。
ジュディは「えっ」と声をあげて、それ以上何も言えなかった。
リカルドは、その反応は当然だろうという顔でジュディを見つめてくる。
「だからもし、ジュディが子を産んで育てたいと考えているのなら、……別れることも選択肢に――」
別れるという言葉にジュディは目を見開いた。
それは、嫌。
すぐにそう思った。
「もしよければ理由を聞かせてください」
リカルドはやはり、当然というようにうなずいた。
「理由は二つある。一つは、歳の事だ。君と二人で暮らすには歳の差など気にしない。けれど、これから子供を授かったとして、その子が成人する時、俺は七十歳近い。大学まで出そうと思うとあと追加で二年かかる。今と同じように収入があるとは限らない歳だ」
探偵に定年はないけれど、と軽く笑うが、リカルドの笑みはすぐに消える。
「子供が大人になるまで自分は健康だろうかという心配を抱かない歳でもない。もちろん若い人だって自分の子供が成人するまで健康であるという保証はない。けれど高齢で子を持つというのは若い人の二倍も三倍も、その心配が付いて回ると思う」
言われて、ジュディは納得した。
ジュディが勤める病院にも、七十代前半ごろの健康に難ありな老人がやってくる。彼らにもしまだ修学中の子供がいると考えると、大変だろうと思う。
そうだ、七十代は、老人なのだ。
リカルドはあと二十年もすれば誰が見ても老人だと認識される年なのだ。
歳の差など関係ないと思っていたジュディには大きな衝撃だった。
ジュディの動揺をどう見てとったのか、リカルドは少し間をあけてから、二つ目の理由を口にする。
「二つ目の理由は、俺が、いい親になる自信がないからだ。いい親どころか普通の親になれるかどうか……」
またリカルドさんは自分を低くみて。
とは、言えなかった。
彼が何を案じているのかを察してしまったのだ。
「俺は父の愛を、親の愛を知らない。こういうものだろうという知識はあっても実体験や実感がない。虐待は連鎖するとも聞く。俺に子供を虐げる意図はなくても、あの父と似たようなことをしてしまうかもしれないと思うと、怖いんだ」
想像通りの答えをリカルドは語った。
ジュディは愛する人の本音を真正面から受け止めた。
「きっと、それならばわたしがそうさせないようにします。リカルドさんをお支えしますといっても、リカルドさんの不安はぬぐえないのでしょうね。あなたがどんなに苦しんできたのか、言葉で聞いて想像はできても、実感することができないのと同じだと思います」
ジュディの返事は予想と違っていたのだろうか。リカルドは少し驚いた顔をした。
「リカルドさんが本心を教えてくださったのですから、わたしもきちんと本音を言いますね。リカルドさんとの子供がほしかったです。二人で愛情いっぱいに育てたいって思ってました。けれど、あなたに大きな負担をかけてまで子供がほしいかと考えたら、それは違うなって思います。だったら別れて別の人と結婚してなんて、考えられません。わたしは、あなたと一緒に幸せに、楽しく暮らしたいんです」
リカルドの表情が大きく崩れた。泣き出しそうにも、笑い出しそうにも見える。
「俺で、いいのか? あ、いや、責めているのではなくて……」
こんなに明らかに動揺しているリカルドも新鮮だ。
真剣な話をしているのに、ジュディはおかしくて軽く笑った。
そしてリカルドの目を真っ直ぐに見てはっきりと答えた。
「はい。リカルドさんがいいんです。あなたでなければ嫌です」
リカルドは今度こそ泣いてしまうのでは、と思ったのも一瞬のことだ。
優しく、しかししっかりと抱きしめられて、リカルドの顔が見えなくなったのだ。
「ありがとうジュディ。俺の一生かけて君を大切にする。だから――」
ジュディの耳に、その言葉は甘く響いた。
「結婚してほしい。ずっと一緒にいてほしい」
ジュディは二度、三度とうなずいた。
次の日の朝、食事の席に行くと照子がにこにこと笑っている。
「ジュディ、嬉しそうだね。なんかいいことあった?」
目ざとい。それともそれほどまでに自分達が幸せな雰囲気を醸し出しているのだろうか。
リカルドを見る。
優しくうなずいて彼が言った。
「婚約しました。まだ言葉だけですが」
部屋の空気が揺れた。
「……!? おおぉぉっ!」
あまりにも皆が大声を上げたので旅館の仲居さんに驚かれてしまった。
こんなにも祝福されているのだから、これから二人で、ここにいる人達とも、幸せに暮らしていけるだろう。
ジュディは満面の笑みで「よろしくお願いします」と頭を下げた。
(了)
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