12 過去を乗り越えて

12-1 その名をここで口にした罪

 ここ数日、リカルドは幸せな気分で過ごしている。

 先日、照子に書類を渡した後、ジュディと三十分ばかりお茶の時間を楽しんだ余韻だ。


 彼女と二人きりで過ごすのは、あの夏の日の買い物以来であった。あの時は店員に親子と間違われて何とも言えない気分になったが、今回は誰にも邪魔されることなくジュディとの時間を満喫できた。


 これも、照子が「届けものをする」という自身の仕事を急に思いだして、あわただしく席を立ってくれたおかげだった。

 もしかすると照子は気を使ってくれたのかもしれないと後になって思う。

 夫である結がリカルドの恋心に気づいているのだから、照子に話していても何ら不思議はない。そして照子はそういった気遣いのできる人だと思う。


 どちらにしても、リカルドにとってありがたいことであった。


 探偵事務所の面々、特にレッシュには「どうしてそこから進展させないんだよ」と言われたが余計な世話である。まずは二人の時間をもう少し増やして行くことを考えようか、という段階で、いきなり告白などできるはずもない。

 レッシュに言わせれば、せっかくチャンプが告白のきっかけをくれたのに、だそうだ。


 彼女の話は、年上の男性を好きになった女性の話だが、ようは歳の差など関係なく好きだと言われれば嬉しいのだから言えばいいというメッセージだ、とレッシュは力説していた。


 なるほど、そういう見方もできるかもしれない。だが地盤固めもしていない段階で告白などしても成果は期待できないというのがリカルドの考えであった。


 仕事中だというのに、リカルドはふとジュディのことを思いだす。パソコンのモニターの前でありながら、リカルドの目は遠くを見ていた。

 彼女のことを思うだけで自然と笑みがこぼれてくる。こんな気持ちに浸れるのは何十年ぶりだろうか。


 もっとジュディと親しくなりたい。それには、もっと彼女との雰囲気をよくしなければならない。

 この探偵事務所で話しているだけでは駄目だ。やはりデートに誘わねばならない。いや、デートと考えるとジュディは身構えてしまうかもしれないので、前のように一緒に買い物というのでもいい。ジュディに見立ててもらいたいと言えばきっと協力するという形で来てくれるだろう。


 そんなことを考えていると、「こんにちはー」とジュディの声がした。

 事務所の入り口に目をやると、果たして、ジュディがいつものバスケットを手にこちらへとやってくる。今日は薄紅色のワンピースだ。相変わらず素敵な着こなしだと思う。


「ジュディさん、こんにちはー」

 事務所の面々が笑顔で彼女を迎える。


「今日はシナモンパイにしてみました。うまく作れたかどうか自信はありませんが……」


 ジュディは遠慮がちに言う。だがリカルドはきっと今日も美味しいパイなのだろうと期待した。今までを考えると彼女が失敗作など持ってくるはずがないのだ。

 ジュディがバスケットを開けると、レッシュ達の歓喜の声が部屋にこだまする。

 彼女が来るだけで事務所の雰囲気がなんと明るく和むことか。

 これこそが幸せなのだとリカルドの口元も緩む。


「リカルドもこっち来いよ」


 レッシュが呼ぶので、リカルドはうなずいて一度パソコンに目を移した。作りかけの書類を保存して、さぁジュディのパイをいただこうと席を立ちかけた。


 その時、ふとディスプレイの日付と時間の表示が視界の端にちらついた。

 瞬間、リカルドの時が止まった。日付の表示が嫌に大きく見え、頭が真っ白になり、体が凍りつく。

 誰かの声が遠くに聞こえた。おそらく、どうしたんだと気遣う声だろう。

 だがそれもリカルドの思考の中にしみ込んでくることはなかった。


 どうして、どうして今の今まで忘れていたのか、という後悔、罪悪感、自己嫌悪。そして同時に覚えたかすかな安堵に気づいて、また自分を責める気持ちが膨れ上がり、心を押しつぶす。


「ディアナ……」


 かつての婚約者の名前が思いのほか大きな声で洩れたことにも、リカルドは気づいていなかった。

 その名をここで口にした罪の大きさにも。


 空気が震えたのを感じとって、リカルドは我に返った。

 どれくらいの間、放心状態だったのか、いつの間にかジュディがいなくなっている。事務所にあるのは、戸惑いや同情にも似た皆の痛々しい視線だった。

 その中でレッシュだけが非難めいた顔をしてリカルドを強く睨みつけている。


「何やってんだよ、あんた」


 レッシュの声は低く、表情よりも落ち着いていた。だが今までリカルドに見せたことのない憤りを含んでいて、リカルドはとっさに何も返せなかった。


「何ぼーっとしてんだよ。さっさと行ってジュディに詫びて来いよっ」

「ジュディさんに、詫びる?」


 なぜ、何を詫びると言うのかリカルドには判らない。


「やっぱ無意識か」


 レッシュは荒々しく息を吐き、怒りの表情を和らげた。


「おれは察しがつく。あんたがどうしてあのタイミングでディアナの名前を口走ったのか。でもジュディは判ってない。多分あんたが自分を見てディアナを思い出したって思ってるぞ。まだ自分を昔の婚約者と重ねてるって誤解したぞ、きっと」


 言われて、リカルドはあっと小さく悲鳴をあげた。

 すぐにでもジュディを追いかけてその誤解を解きたいと思う。だが今はまだ就業時間中だ。勝手に飛び出していくわけにも行かない。


「しかし、今はまだ――」

「あー、もう! こんな客の来ない探偵事務所で待機してんのと、自分の失態で好きな女に悲しい思いをさせちまったのを詫びるの、どっちが大事なんだよっ!」


 レッシュの啖呵に信司達は苦笑いを浮かべながらも、しかし、うんうんとうなずいている。

 それなら今すぐジュディを追いかけて、とリカルドの心がはやる。だがその思いに水を差す一言が飛んできた。


「レッシュ、雇われの身なのにひどい言い草だね」


 所長の亮が、やれやれと肩をすくめている。

 やはり、いくら客が来ないと言っても勤務時間内に私事で出て行くのは許されないか、とリカルドの心がしぼむ。


「あぅぁっ。ちょっと言い過ぎたのは悪かった。でもさ」

「――でも、ジュディさんは毎週のようにうちに来て事務所の雰囲気を明るくしてくれる大事なお客様だ。そのお客様に粗相があってはうちの信用問題に関わるでしょう。リカルドさん、ジュディさんを丁重にお送りしてください」


 亮が軽くウィンクをした。

 私事を仕事としてとらえることで、許可してくれたのだ。

 そう理解して、リカルドは返事もそこそこに車の鍵をひっつかんで事務所の外に飛び出して行った。


「頑張れよー」


 後ろからレッシュ達の声が聞こえた気がした。


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