11-3 始まるものも始まらない

 声の元を仰ぎ見ると、やはりリカルドだった。封筒を手にジュディ達のいるテーブルのそばにゆっくりと歩み寄ってきた。


(まさか、今の話、聞こえたんじゃ……。でもどうしてリカルドさんがここにくるのかしら)


 ジュディが照子とリカルドを見比べる。


「あ、言ってなかったっけ。富川さんに書類を渡して、お返事をここの喫茶店で待つことにしてたの。その上、わたしの友達の相談に付き合ってくれてありがとうね、ジュディ」

「えっ? あっ、いえ……」


 照子の言葉の前半は理解できた。亮に届けものをして、その返事を待つ間ジュディの話を聞く目的もあってここで一緒にお茶することにしていたのだ。だが照子の友人の相談とは何のことだろうか。


「ご友人の相談ですか」


 照子に封筒を差し出しながら、リカルドは照子の言葉を復唱する。特に何も気にしていない様子からして「超鈍感」のあたりは聞こえていなかったのだろう。ジュディはほっと一安心だ。


「そうなんですよー。友達が結構年上の人を好きになったって話で。あ、リカルドさんにも聞いちゃおうかなぁ」

「私ですか? そういった類の話に果たして私の意見が役に立つかどうか……」


 ジュディは照子とリカルドのやりとりをハラハラして見つめた。照子は友人の相談と称してジュディの話をしようとしているのが判るから。


「一男性の一意見としてお聞きしたいんです。もしよかったらお願いします」


 照子がジュディの隣の椅子を目で指した。リカルドにそこに座ってと言いたいのだろう。

 丁度そのタイミングでウェイトレスが注文を取りに来たので、とりあえずと言わんばかりに申し訳なさそうにリカルドが腰を下ろした。

 リカルドがコーヒーを注文してウェイトレスが行ってしまうと、早速とばかりに照子が話し始めた。


「実は、大学に勤めてた頃に仲の良かった学生さんと久しぶりにバッタリ会った時に相談されたんですけど」


 照子は、ジュディの状況と似たようなシチュエーションをリカルドに話して聞かせた。

 相談の「彼女」は二十代後半で、好きな相手が四十代ぐらいで、月に数度、仕事の関係で会うのだ、と。

 リカルドは、今のところジュディと自分の話をされているのだと気づいていない様子で、何度か相槌をうっている。


 隣にリカルドが座っている。体温がほんのりと空気を通して伝わってくる。ふわりと香水のような香りがする。

 とても近くにリカルドがいると意識しただけで、ジュディの鼓動が高まった。と同時にとても居心地の良い安心感も覚えて幸せをかみしめる。

 彼のそばで過ごすたびに、やっぱりわたしはリカルドさんが好き、と気持ちを新たにする。


「――で、話をすると、それなりにいい感じだと思うんだけど、自分がその人のことを好きでいていいのかなぁって思うところもあるって言ってたんですよ」


 照子が話を締めくくったので、ジュディは照子とリカルドを見比べた。

 ウェイトレスが持ってきてくれたコーヒーを一口すすって、リカルドは口を開く。


「その方はどうして……、相手の方を好きでいていいのかと思われているのでしょう」


 ジュディにとっては驚いたことに、リカルドは遠慮がちといった様子ではあるが、話に乗って照子に問いかけている。

 今まで接してきて、リカルドは恋愛話にはあまり興味がなさそうだ、という印象だった。なのでこう言っては何だが、この場も適当に話を流して終わるのではないかと思っていたのだ。

 それはもしかして照子も同じだったのかもしれない。彼女も少し驚いた顔をしたように思う。しかしジュディがそう感じたのも一瞬のことで、照子はすぐににっこりと笑った。


「それがねぇ。年が離れているから、みたいなんですよ。わたしは、好きになったら年齢なんて関係ないよって言ったんですけどね」


 照子の返事に、リカルドは何か思うところがあるのか、複雑そうな表情を浮かべた。


「なるほど。ためらう気持ちも判る気がします」

「うん、それはわたしも判ります。立場の違いって結構気にしちゃうポイントだし。でもそこでためらってたら始まるものも始まらないと思うんですよ」


 ためらっていたら、始まるものも始まらない。

 照子の言葉がジュディの胸に響いた。経験に裏打ちされた重みのある、しかし温かい言葉だと思った。

 無言で小さくうなずいているリカルドには、照子の言葉はどう聞こえただろうか。


「それに、好きだって告白されるって、相手がよっぽど嫌な人じゃない限り嬉しいものだと思いませんか? それまで相手のことを意識していなくても、もしかするといい印象で見てくれるようになるかもしれないなって思うんですよ。リカルドさんはどうですか? たとえば若い女性に『あなたが好きです』って言われたら、嬉しくないですか?」


 照子の質問に、リカルドは「えっ?」と戸惑いの表情で応える。

 一般論ではいいけれど、彼自身は若い女性は嫌なのかな、とジュディはどきっとした。

 だがすぐにリカルドはうなずいた。


「それはもちろん、嬉しいですよ。私などに好意を寄せてくださる方がいらっしゃるのかどうかは疑問ですが、だからこそ、好きだと言われれば素直に嬉しいと思います」


 ほぅっと、思わず安堵のため息を漏らしそうになって、ジュディは慌てて横を向いた。


「そうですか。やっぱりそうですよね。よかった。お話を聞いていただいてありがとうございました」


 照子は我が意を得たりとばかりに嬉しそうだ。


「いえ、どういたしまして」


 隣でリカルドの冷静な声がする。

 その頃になってジュディはようやく落ち着いて、また正面を向いた。


「あっ、いけない。書類を結に届けないと。それじゃ、わたしはこれで。ここ、払っときますのでごゆっくり」


 急に言うと、照子はあっという間に伝票を掴んで席を立った。

 引き留める間もなくレジに小走りで向かう照子を、ジュディも隣のリカルドも茫然と見送るしかできなかった。

 そのままリカルドと顔を見合わせた。リカルドがぽかんと口を半開きにしている。きっとジュディもこんな顔をしているのだ、と思ったら笑いがこみあげてきた。


 二人は揃って噴きだした。少しの間、彼らの間には笑い声しかなかった。


「まさか、照子さん、結君のところの経費から出すのだろうか」


 リカルドが笑いながらひとりごちたので、ジュディは収まりかけた笑いをまた復活させてしまった。


「まさかそんな……。でもせっかくですから、飲み終えるまでご一緒しますね」


 和やかな雰囲気に、そんな言葉が、すらっと出てくる余裕があった。

 リカルドの頼んだコーヒーは、まだたっぷりとカップに濃褐色の波を打ち、温かそうに湯気を立てている。


 二人の時間は、しばらく続きそうであった。


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