12-2 よかった、と思った

 富川探偵事務所の入り口に続く階段を上る時はあんなにうきうきと逸っていた心が、今はこんなに痛いなんて、とジュディは足を引きずるように階段を降りていた。


 リカルドは確かに、自分を見て「ディアナ」とつぶやいた。

 まだ彼の中では、結婚することのできなかった婚約者の存在が大きいのだ。


 ジュディはリカルドのつぶやきを聞いて、咄嗟に用事を思い出したと逃げるように事務所を飛び出した。が、リカルドの姿が見えなくなると途端に足が石になったかのように重くなった。


 最近、リカルドとの距離が縮まってきたのかもと喜んでいたが、ただ彼は婚約者の面影を宿す自分に優しかっただけなのだと確信して、ジュディは年甲斐もなく大声をあげて泣き出したい衝動を必死に抑えていた。

 これから駅まで歩いて電車に乗って、数十分、人の目のある場所でこの悲しみと苦しみを耐え忍ばねばならないと思うと気が遠くなる。


 目頭が熱くなり、涙が、ぽろりとあふれた。

 ジュディは慌ててハンドバッグからハンカチを取り出して目を押さえた。

 まるでハンカチが涙を誘うかのように、次々とあふれてくる。


(あぁ、駄目、こんなところで泣いてちゃ)


 そう考えるだけの冷静さもかろうじて残っていたが、一旦堰を切った感情を抑えるのは並大抵のことではなかった。


「……ジュディさん」


 ふと、後ろから声がした。ジュディが一番聞きたい、しかし今は聞きたくなくもある声だった。

 足音が近づいてくる。戸惑っているかのように遠慮がちな足音が階段をゆっくりと降りてくる。


 ジュディはハンカチをポケットにしまって、さも何でもなかったかのようにふるまうことにした。

 笑顔を作って、振り返る。

 階段の二段ほど上に、リカルドが困った顔をして立っていた。


「……先程は失礼しました」


 更に階段を降りてジュディと同じ段に立って、リカルドが頭を下げる。さほど広くない階段だ。リカルドの息がジュディの頬にかすかに触れた。


 どんなに想ってもリカルドに届かないと気づいたばかりだと言うのに、それだけでジュディの心臓がどきりと跳ねる。


「いえ。わたしこそ、急に帰ってしまってすみません。それでは、失礼します」


 一緒にいたいという思いを呑み込み、ジュディは逃げるようにリカルドに背を向けて階段を駆け降りた。


「待ってください。……お送りします。あなたに、聞いていただきたいことが、あるのです」


 何を話すというのだろう。顔が似ているからつい、とかなら聞きたくない。

 そう思いながら振り向くと、リカルドの真剣そのものの表情が、そこにあった。

 ただの言い訳ではないような気がして、もしも言い訳だとしても聞かなければならない気がして、ジュディは、うなずいた。


 リカルドはほっと息をついて表情を少しだけ和らげた。

 しかし、彼の車の助手席で隣のリカルドを見ても、あの真剣そのものの表情に戻ったままだった。


 車がジュディのアパートに向かって走る。

 しばらくの間、沈黙が続いた。


 話とは何なのか、ちらりとリカルドを見ても彼の口は固く結ばれたままだ。

 時折、リカルドの喉が軽く鳴る。何かを話そうとして、戸惑い、言葉を呑みこんでいる。そんな感じだ。


 何度かそんなことを繰り返した後、信号待ちをしている時に、唐突に、リカルドの声が耳に届いた。


「先程は、本当にすみませんでした」


 第一声は謝罪だった。ジュディは、再び「いえ」と短く応える。


「しかし……。言い訳にしかなりませんが……、決してあなたをディアナと見間違えて名を呼んだわけではありません」


 ためらいがちであったリカルドの声は、後半になってわずかに速度をあげた。

 ジュディはリカルドの方にしっかりと視線を向ける。

 後悔の表情が、そこにあった。

 ジュディは驚いて、次のリカルドの言葉を待つことしかできなかった。


 信号が変わり、車がゆっくりと走り出す。その動きにあわせるように、リカルドは再び口を開いた。


「今日が、彼女の命日なのです。私は、あの時あの瞬間まで、そのことを忘れていました。あなたを見て思いだしたのではなくパソコンの画面に表示された日付が目に入って……」


 リカルドの告白に、彼の悲しそうな表情に、ジュディはなんと言葉をかけていいのか判らない。

 そんなジュディの戸惑いを知ってか知らずか、リカルドの懺悔が続く。


「彼女が亡くなったのは、私の責任です。それなのに私は無責任にも彼女の命日を忘れていました。毎年、数日前には思いだして、当日は彼女のことばかりを考えていたというのに。……ディアナは死の間際に、自分のことを忘れて幸せになってほしいと私に言いました。今日が命日だと思い出した瞬間、後悔しましたが同時に、これが彼女の望む幸せというものなのかもしれないと、ちらりと思いました。そんな自分にも腹が立ちます。そんなのは、都合のいい言い逃れに過ぎない……」


 リカルドの手が震えている。目じりにうっすらと涙が滲み、声にも混じる。


 彼の表情と声に、ジュディは自分の心に湧きあがった、複雑な思いを自覚した。そしてそんな自分がとても嫌な人間だと思った。


 よかった、と思ったのだ。


 まずは、リカルドが自分をディアナの代わりとして見ていたわけではない、ということ。

 そしてもう一つは、自分にもまだチャンスがあるのではないか、と思ったこと。


 ずっと、リカルドはディアナを今でも愛していると思っていた。だから彼を自分に振り向かせることは難しい、と。

 しかし今のリカルドの言葉には、ディアナを死なせてしまったことと、彼女の命日を忘れていたことに対する罪悪感しかない。

 もちろん愛情も残っているのだろう。だがそれよりも罪の意識の方が強いと見受けられる。

 だから、チャンスなのだ、と。


(わたしは、なんて自分勝手なんだろう)


 好きな人がこんなに近くで苦しんでいるというのに、自分の想いを成就させることを考えてしまったジュディは胸が苦しくなった。


「そんな、そんなこと、ありません」


 声が震えている。ジュディは自分の声がなんだか他人の口から出たような気分になる。

 リカルドが驚き顔になる。運転中なのでさすがにジュディを正視することはないが、ちらりと向けられた目が、なぜ? と問うている気がした。


「リカルドさんの責任だなんて……。リカルドさんがディアナさんを、その、直接殺してしまったとか、見殺しにしたとか、そういうのではないのでしょう?」


 もしここでうなずかれたら、と思うと怖い気もしたが、まさかリカルドがそのようなことをするわけがない、と根拠のない確信のようなものがあった。


「……えぇ。ですが……」


 リカルドはそこで口をつぐみ、しばらく車内はまた妙な静けさに包まれた。

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