10 好きな人の好きな人
10-1 これが失恋というものか
困ったことに、リカルドはまだ夢に悩まされ続けている。
と言っても、眠る時に見る夢ではない。
今彼を悩ませているのは、別名、希望という名の夢だ。
悪夢に関しては、レッシュと酒を酌み交わし、互いの胸の内を語ったことでほぼ解決した。レッシュの言ったように、罪が消えるわけではないが許してくれる人がいることや、本音を打ち明けることができる相手がいることを実感して、少し心が軽くなったのだ。なので、今の平和な暮らしに安座していていてもいいのだと、ようやく思えるようになってきた。そのおかげか、起きてからもはっきりと自己嫌悪をはじめとするマイナスの感情を覚えている夢を見ることは、ほとんどなくなった。
ならば何を思い悩んでいるのかというと、ジュディのことだ。
彼女のことが好きだ。女性として素晴らしいと思う。この先、彼女と今よりも親密になることができれば至上の喜びだ。リカルドはようやくジュディへの気持ちを胸の内で肯定し始めた。
だが、その気持ちを果たして表に出してよいものやら、というところで早くも躓いてしまった。
きっとレッシュや結に相談すれば、何をためらうのだと言われることだろう。
それは彼らが恋愛感情を抱いた相手にアプローチをすることに、ためらいを感じたことがないからではないか、とリカルドは思っていた。結は結婚して幸せな家庭を持っているし、レッシュはアメリカにいた頃に長く付き合っていた恋人がいた。日本に来てからはまだ決まった相手とは巡り合っていないようだが、彼ならいずれ恋人か、それすらもさらりと越えて結婚相手を見つけることだろう。
リカルドとて恋愛経験がないわけではない。だがもうすぐ五十路に手が届こうかという歳で、過去に恋愛感情を抱いた相手が二人で、彼女達に想いを寄せていた期間をあわせても一年どころか半年にも満たないというのは、あまりにも経験不足だと自分でも思うのだ。
そして最大のネックは二十歳の歳の差。相手はまだ二十代だ。ジュディほどの女性ならこれから素敵な出会いがあるだろう。リカルドは自分が彼女にとっての「一番の男」になる自信はないし、そうなることがなんだか申し訳ないような気がする。もっと他にふさわしい、いい男が現れるはずだと思う。
この辺りが、結やレッシュには判らないところだろう。愛に歳の差はないとはよく聞くが、それは互いに愛し合っているからこそ説得力があるのだ。
ジュディはシミもしわも目立たない綺麗な肌なのに、自分は目じりや口元のしわが以前よりも深くなってきた。
ジュディはつややかでさらりと流れる綺麗な髪なのに、自分は白いものが目立つようになってきた
容姿一つとっても、歳の差という壁はリカルドの目の前にあまりにも高くそびえたっていた。
「こんにちはー」
富川探偵事務所に、ジュディの挨拶が清らかな鈴の音のように響いた。
リカルドは顔をあげて彼女の姿を確認すると、目礼する。
今日も彼女は何やら菓子を作ってきてくれたようだ。白く長い指がバスケットのふたを開ける。
レッシュ達が中身を見て歓声を上げる中、リカルドはジュディと自分の手を見比べた。
最近、手の甲が筋張って見える。掌のしわも深くなってきた。元々痩せているリカルドだが、こんなところにも老いが息をひそめていた。
「リカルドさん、手をじっと見つめて、どうされたんですか?」
ジュディが小首をかしげている。リカルドは笑みを浮かべてかぶりを振った。
「あぁ、いえ、大したことではないのです」
「まさかあんたが手相なんてものを気にするわけないしなぁ?」
レッシュが話に加わってきた。信司達も「リカルドさんはそういうの信じなさそうだね」とうなずいている。
「確かに信じないが……。レッシュはどうなのだ?」
「おれ? おれはいい事だけ信じる。悪いことは参考程度かな」
「なんだかレッシュさんらしい感じです」
「それは喜ぶところなのか、怒ったり悲しんだりするところなのか、どっちなんだろ」
ジュディの「レッシュらしい」というところは同意だが、ジュディがレッシュの性格を理解していることが、なんだか少しうらやましいとリカルドはひそかに小さな嫉妬心を抱いた。それを誰にも悟られないようにと、リカルドはジュディが作ってきてくれたマドレーヌに手を伸ばして、一口目をいただく。バターの濃厚な香りが口の中に広がって、自然と目じりが下がる。
「ジュディは? 占いとか信じる方? 恋愛運とかチェックしたりするのか?」
レッシュがジュディに問いかける。
「そうですね……。朝のニュース番組を見ていると占いコーナーがあるので、自然と見ている感じです。そんなに意識して調べたりとかは、しないのですが」
「なるほどー。日本のテレビって面白いよな。ニュース番組で占いコーナーなんてあるんだもんな」
「気にする人は結構たくさんいるみたいだしね」
「しかも同じ星座でも局によって運勢違ったりしてますよね」
レッシュや信司、透が笑う。
「そういえば、沙夜香は信司に片思いの頃に、普段は信じてない占いを見てたころがあったってさ」
「サヤカさん?」
「信司の奥さんだ。結構長いこと信司に片思いしてたんだよ」
レッシュがまだロスで生活していた頃に、日本に来ると信司や沙夜香達と会っていたという話はリカルドもよく聞いていた。
リカルドも、足抜けしてから沙夜香と何度か会ったこともあるが、大人しそうな雰囲気の中にたくましさを秘めているといった感じの女性である。
「沙夜香は、なかなか信司に気持ちが通じなくてさ。占いを見て今日がラッキーチャンス、なんて言われた日に信司にアプローチしたんだけど、やっぱり気づいてもらえない、なんてこともあったらしいよ。で、『所詮占いなんてこんなものよ!』ってキレてた」
レッシュと透は愉快そうに笑い、信司は苦笑している。
「でもその気持ち、判る気がします。好きな人に振り向いてもらえるなら、普段信じないことも信じたいと思うのは、やっぱりそれだけ好きだからじゃないでしょうか。サヤカさん、想いが通じてよかったですね」
ジュディがうっとりとした笑顔で信司を見ている。
「それじゃ、ジュディももし思い人となかなかうまくいかなかったら、占いでも何でも頼る?」
「なかなかうまくいかないと、ちょっとのことでネガティブになりそうじゃないですか。『うまくいく』って言葉に安心できるならそれに頼ることもあると思います」
ジュディが恥ずかしそうに応えると、レッシュが口の端を持ち上げて、軽く首をかしげて更に問う。
「実感こもってんな。ひょっとして実践中?」
彼のこの表情は「意図あり」を意識して表に出している証拠だ。おそらくリカルドに答えを聞かせたいのだろう。
頼んでもいないのに余計なことを、と思う一方でジュディの答えは気になる。
「実践は、まだ……」
とっさに出たと言わんばかりの言葉にジュディ自身が驚いたように口を押さえる。
「そっか。よかったな行き詰ってなくて」
「は、はい……」
頬を赤らめるジュディを見て、リカルドは頬が緩みそうになる。
しかし待てよ、と、はたと気がつく。今のやり取りだとジュディには思い人がいて、行き詰まっていないということだ。つまりその相手とうまくいっている、ということになる。
ジュディに好きな人がいる。それが自分であるとは到底思えないリカルドは愕然とした。
(そうか、ジュディさんにはもう……。考えてみたら当たり前のことだ。生活が落ち着いたのだから好きな人がいても……)
自分がジュディを想う資格があるのかどうかと心を悩ませていたリカルドだったが、何のことはない、もうすでに答えは出ていたのだと思うと、なんだかほっとしたと同時に、いきなり心に空洞ができたような脱力感がやってきた。
これが失恋というものか、とリカルドは小さく息をついた。
ジュディの好きな人というのは、どんな男なのだろうか。やはり彼女と釣り合いのとれる素敵な人なのだろう。きっと似たような歳で、話がよくあって、一緒に買い物に行っても店員に恋人であるとすぐに判るような雰囲気に違いない。親子に間違われるなどと言うことも絶対にないのだ。
どんどんと暗くなる思考に、リカルドは、自分の年齢を今すぐ二十年ほど引き下げたい気分になった。
占いに頼る人達は、こんな時にきっと占いの耳に心地よい言葉にすがるのだろうな、とリカルドは早くも先程の会話を身を持って理解した。
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