09 元部下の気遣い
09-1 一番そばにいてほしい
レッシュに「あんたはジュディに惚れてるんだよ」と言われて数日、リカルドは時間があればジュディへの気持ちについて考えていた。
その間にも、ジュディは富川探偵事務所に訪ねてきた。
あの一緒に買い物をした日を契機に、以前よりも二人でよく話すようになった。内容も、テレビ番組の話だけではなく、映画や本、日本での暮らしについてなどと、幅が広がってきた。
ジュディと話すのは楽しい。知らない方面の話題は勉強になるし、共通の話もジュディと語らうと深みが増す気がする。元々知的好奇心が旺盛な方であるリカルドは、それだけで十分に満足だった。
だが、だからだろうか。
ジュディが帰ってしまうと、とても物足りなくなる。レッシュや信司達と話すのも楽しいのだが、決定的な何かが欠けているという気になってしまう。彼女が座っていたところに誰かが腰かけたりすると、寂しいと同じくらい苛立ちも感じてしまう。
それもこれもレッシュが余計なことを言うからだと、少々理不尽とも言える憤りをレッシュに抱きつつ表向きは平静を装って過ごすリカルドであった。
そんな土曜日の午後。
「こんにちはー」
探偵事務所にやってきた女性の声に、反射的にリカルドは顔をあげて扉の方を見る。
と同時に声が期待していた女性ではないとすぐに気づいていた。
果たして、扉の奥から現れたのは、照子だった。
「よぅ、チャンプ。
レッシュが出迎える。
彼の照子への問いかけに、リカルドは彼を見た。
確か少し前までレッシュは結を「青井」と苗字で呼んでいたと記憶しているのだが、いつの間に名前で呼ぶようになったのだろうか。
リカルドの驚きと疑問をよそに、照子はレッシュに笑顔で応えている。
「そうなのよ。富川さんいらっしゃる?」
「所長室だよ」
「ありがと。あ、そうそう。これみなさんでどうぞ」
照子がバスケットをレッシュに手渡して、応接室の奥の所長室へと向かった。
リカルドはそれを見届けて、改めてバスケットを見た。お菓子の差し入れだろうか。
「チャンプの声が聞こえた時、一番に顔上げてたな」
レッシュがにやにやと笑いながら話しかけてくる。
「残念でしたねー」
信司も便乗する形で笑っている。
「何がですか?」
「ジュディさんだと思ったのではないですか?」
透まで乗っかってきた。
「透君まで……。残念とかそんなふうには思っていませんよ」
「けどジュディだ、って期待したんじゃないのか?」
レッシュが食い下がってくる。
「こんにちはと声がかかればそちらを見るのが当たり前だろう」
そんなに俺がジュディさんに気があると決めつけたいのか、とうんざりしてリカルドはわざと溜め息をついた。
「まぁそりゃそうだけど、表情が、こう、特別な感じなんだよな。ジュディが来る日って」
まさか。そうなのか? などと思いつつも、何か言葉を返してはまたつつかれるだけだと思い、リカルドは口を閉ざした。
「チャンプ、何を持ってきてくれたんだ?」
レッシュもそれ以上は言及せずに、バスケットをテーブルに置いてふたを開いた。
「おぉ、クッキーだ」
「たくさんあるね」
レッシュ達が喜んでいる。リカルドもバスケットの中を見た。
プレーンクッキーや、チョコクッキー、ナッツ入りなどもある。
ふと、ジュディを思い浮かべた。そう言えば彼女も菓子の中ではクッキー作りが得意だと言っていた。
「いただきまーす」
信司達が早速クッキーに手を伸ばしているので、リカルドも手をあわせた後に一つつまんでみた。
手に取ったのはチョコチップクッキーだった。
一口かじって、それが覚えのある味だと即座に思い当る。
ジュディが作るクッキーと味が同じだ、と思ったのだ。
(いや、ジュディさんのことを考えていたから、照子さんのクッキーがジュディさんの味に似ていると思うんだろう)
そう考えなおして、プレーンクッキーを食べてみた。
やはりジュディの作るそれとは違う味であった。
思い込みとはすごいものだと変な感心をしながら、もう一度チョコチップクッキーを食べてみる。
(……どうして)
リカルドの口の中に広がったのは、ジュディのチョコクッキーの味であった。
「リカルドさん、チョコチップクッキーがお気に入りですか?」
いつの間にか照子が所長室から戻ってきていた。
「あ、……そうですね……」
お気に入りというよりは、ジュディの作るものと味が同じで驚いているのだが、それを口にするとまたからかわれそうで、リカルドは曖昧にうなずいた。
「そう。ジュディ喜ぶわね」
照子が意味深長に笑う。
「どうして、そこでジュディさんの名前が出てくるのですか?」
聞かなくてもなんとなく答えは想像できるのだが、思わずリカルドの口から真相を乞う言葉が漏れた。
「チョコチップだけ、ジュディが作ったものなんですよ。彼女、今日ちょっと遅くなるかもしれないから、って昨日一緒にクッキー焼いた時に持ってっ行ってほしいって預かったんです」
「そうでしたか」
やはりか、とリカルドの口の端が中途半端に持ちあがった。
ひそひそと所員達のささやき声がする。何を言われているのか、これも想像できるのであえて無視することにした。
そこへ。
「こんにちはー」
ジュディの声だ。
このタイミングで来るとは思わず、リカルドは不意打ちを食らって咳こんでしまった。
「おいおい、大丈夫か?」
レッシュの呆れ声に反応する余裕もない。
「まぁ、リカルドさん、大丈夫ですか?」
ジュディが慌てて駆け寄ってきて背中をさすってくれた。
「は、はい……」
どうにか応えて顔をジュディに向ける。心配そうな彼女と目があった。
「体調がお悪いなら、無理なさらないでくださいね」
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
なんとか咳も収まって、軽くうなずくとジュディもやっと笑顔を見せてくれた。
「リカルドさんね、ジュディのクッキーがお気に入りなんだってー」
照子があっけらかんと笑って言うので、リカルドはまたむせてしまう。
「きゃぁ、大丈夫ですかっ?」
ジュディの悲鳴と、笑いだした所員達の声が事務室内にあふれかえる。
皆が笑う中、ジュディだけは心配そうな顔だ。その表情と、彼女の手の温かさに、リカルドはどきりとした。
「すみません、もう、本当に平気です」
咳が落ち着いてジュディに言うと、本当ですか? と言わんばかりに首をかしげながら、彼女はすっとリカルドのそばから離れて行った。
ソファ一つ分の距離が果てしなく遠く感じる。
(そばにいてほしい)
そう思って、即座に己の思考に驚く。ジュディはすぐ目の前にいるのに。
『あんただって、人を好きになったことがあるんだろうから、その時の気持ちと似たもんを少しでも感じりゃ、な』
先日レッシュに言われた言葉がよみがえる。
ジュディに一番そばにいてほしいと感じたリカルドの気持ちは、かつて思いを寄せた女性にも強く抱いていたものだ。
二十年以上前の、あの温かく満たされたものをジュディに感じていることを、リカルドはやっと自覚した。
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