05-3 踏み込めない要素が大きくて

 富川探偵事務所のビルの前で待つこと五分ほど。用事を済ませた照子が階段を降りてくる。ジュディは待ちわびたと言わんばかりの笑顔で照子を迎えた。


「お待たせ。それじゃ、どこかでお茶でもしようか」


 実は先程、事務所で紅茶をいただいたばかりだったが、相談に乗ってもらう身で注文はつけていられない。ジュディはうなずいた。


 二人は近くの喫茶店に入った。住宅街の中の、質素な構えの店だ。

 照子はケーキセットを注文している。ジュディは少し迷って、オレンジジュースを頼んだ。


「それで、悩みってなぁに?」


 ウェイトレスが行ってしまうと、照子は後ろに束ねた黒髪を軽く揺らすように首をかしげる。


 照子はジュディより十歳近く年上だ。だが歳を感じさせないはつらつとした雰囲気がある。

 それは照子も極めし者だからだろうか、とジュディは思っていた。


「照子さんは、事務所のみなさんとお親しいですよね」

「うん、まぁね。主人が所長さんと仕事の関係でよく会ってるし、何より信司くんとはもう結構長い間、友達だし」

「じゃあ、……リカルドさんやレッシュさんが、どうして日本に来ることになったのか、とか、アメリカで何をなさっていたのか、とか、ご存じですよね?」


 照子は、少し考えるそぶりを見せてから、意味ありげにうなずいた。


「気になるんだ」


 ジュディは顔を赤らめる。


「そ、それは、えぇ」

「まぁ、相手が元、ああいうところにいたとなると、気にならない方がおかしいよね」


 そこまで言って照子はにこっと笑った。


「でも、元の職なんて気にしなくていいじゃないかな。今のレッシュくんが好きならそれでいいじゃない」

「えっ? ……レッシュさん?」

「えっ? 違った?」


 ジュディが驚いたので照子も素っ頓狂な声を上げる。


 そして沈黙。


 たっぷり数秒の間を開けて、ジュディは上目遣いで照子を見てつぶやいた。


「あ、あの……、リ、リカルド、さん……、なの」


 再び、沈黙。


「そ、そうだったんだ。歳も近いしてっきりレッシュくんかと思っちゃった」


 あはは、と照子が笑う。ジュディも乾いた笑みを漏らした。


「……リカルドさん、ねぇ。わたし、あんまり話したことないんだよね」


 照子のつぶやきに、ジュディはがっかりしたように眉をハの字した。


「あ、でも、わたしはあんまり話したことないけど。うちの主人はよくリカルドさんと話しているみたいだし、聞いてみようか?」

「お願いします。……あの、リカルドさん、婚約者がいたそうなんです。そのあたりのことも……」

「婚約者。へぇ。それはわたしも知らなかったよ。じゃあ、リカルドさんがどうして前の職についてたのか、と、婚約者さんのことを聞けばいいかな」

「はい。……あっ、わたしが聞きたがってたってことは――」

「うん。もちろん言わないよ」


 照子がにっこりと笑ってウィンクしたので、ジュディも安心して笑みを浮かべた。


 と、同時に、リカルドの過去を聞くのがなんとなく怖いと思っている自分にも気づいていた。




 それから数日。ジュディは照子からの連絡を心待ちにしていた。と同時に、不安もあった。

 好んでそのようなことをする人には思えない。何かやむを得ない事情があったに違いない。そうでなければ、いくら仕事とは言え、命をかけてまで依頼人を守るようなことはできないだろう。


 けれど、それは自分が過去の婚約者に似ているという理由だけだったら?


 リカルドに対する肯定的な想いと否定的な考えが、心の中で目まぐるしく入れ替わる。


 彼が気になる。異性として素敵な人だと思う。だが踏み込めない要素が大きくて、ジュディはどうしていいのか判らない。


 ジュディの思考を遮るように電話が鳴る。照子からだ。ジュディは飛びつくように携帯電話を手にとった。


「もしもしっ、照子さん?」

『わっ、びっくりしたー』


 あまりにも勢い込んで挨拶したので照子はとても驚いたようだ。その後で、軽い笑い声が聞こえてくる。

 呆れられたかな、と、少し恥ずかしく思ったがそれも一瞬のこと。ジュディは照子の話を促した。


「それで、青井さんからは何か……」

『うん。ジュディが納得するようなことを伝えられるかは判らないけれど。電話で話すのもなんだし、お邪魔してもいいかな? 今日はジュディ何か予定ある?』

「いえ、大丈夫です。よろしくお願いします」

『判った。それじゃまた後で』


 照子が電話を切ったので、ジュディもそれに倣った。


 あの事件の後も、ジュディは引っ越しなどせずに同じマンションで暮らしている。だが、事件の時にリカルドに送り届けてもらったあの日からこっち、客人を迎えたことはない。職場では看護師や医師と仲良く話すようになってきたが、相変わらず友人という域ではない。


 なので、照子が自分のことで部屋を訪れてくれると聞いた時、ジュディはわざわざ申し訳ないなと思うと同時に、嬉しかった。


 照子が家からバイクでやってくるとすると、ちょうど午後のお茶の時間あたりに着くことになる。


 彼女も確か、コーヒーよりは紅茶が好きだったはず、と、ジュディはいそいそと客人を迎える準備をした。

 アメリカにいたころは、週末にはホームパーティを開いて友達と楽しく過ごしたものだ。懐かしく思い出しながら、紅茶の用意をする。


 やがて照子がやってきた。ジュディが予測した時間だったので、ちょうど紅茶がいい具合に色づいている。これなら美味しいに違いないと、香りを楽しみながらジュディは照子の前にティーカップを置いた。


「ありがとう。わぁ、いい香り。いただきます」


 照子は嬉しそうに紅茶を味わっている。喜んでもらえてよかったとジュディも嬉しくなった。


「それで、リカルドさんのことだけど」


 照子はカップをソーサーに置くといきなり本題を切りだしてきた。ジュディは不意打ちを食らったかのようにはっと息をのむ。


「ジュディに頼まれたから主人にリカルドさんのこと、ちょっと聞いてみたんだけど。……正直言って、聞いたことをわたしからあなたに詳しく話していいものか、迷ってるんだよね」


 照子は一呼吸おいて続ける。


「ジュディが一番気にしているのって、リカルドさんが本当にマフィアの仕事を進んでやってたのか、ってところだよね?」


 問われて、ジュディはうなずいた。リカルドを意識しつつも踏み込んでいくことをためらっているのは、彼の前の職ゆえのことだ。


 照子は、ジュディの応えにうなずき返した。


「リカルドさんがマフィアの一員だったことには、いろいろと大変な事情があったみたい。結が言うには、リカルドさんはそうすることでしか生きられない身の上だったし、足抜けしてこれ以上罪を犯さなくてよくなったけれど、今までやってきたことを気にかけていると思う、って」

「そうすることでしか生きられない……」


 ジュディは照子の言葉を反復した。一体どのような事情があったというのだろう。


「ごめんね、曖昧で。でも、気軽に話せる内容じゃないんだ。ジュディがどうしても気になるならリカルドさんに尋ねてみてもいいと思うよ。……好きなんでしょう? 気になって当たり前だと思う」

「答えてくれるでしょうか」

「そうだねぇ。結も話を聞いたのは最近だって言っていたから、ジュディももうちょっと親しくなってからの方がいいかもしれないね」


 言われて、ジュディは納得した。それほど親しくもないのに何の抵抗もなしに話せる内容ではないだろう。自分の気持ちにばかり気が向いていたことをジュディは恥ずかしく思った。


「そうですね。リカルドさんがやっぱりお優しい人なんだろうっていうことが判っただけでも十分です。ありがとうございました」


 ジュディがぺこりと頭を下げると、照子は、にこっと笑ってつけたした。


「あと、これは余計なおせっかいかもしれないけれど。婚約者さんのことも、そんなに気にしちゃダメよ。むしろ思い出の人なんか追い出してやるくらいの勢いで行かなきゃ。どんな形であれ、もう終わったことなんだから」

「は、はい……」


 終わったこと、というフレーズに少しほっとしている自分を意識しつつ、それでも、自分に追い出せるかしらとジュディは思った。

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