05-2 また今日も聞けなかった

 ジュディの事件から一ヶ月近くが経った。五月のさわやかな気候にリカルドの気分も晴れ晴れとしている。


 ゴールデンウィークが終わり、また探偵事務所に勤める日々が戻る。と言っても相変わらず依頼人はほとんど来ないヒマな事務所勤めだ。

 が、以前と少しだけ、違っていることがある。


「こんにちは」

 事務所のドアを開ける音に続き、涼やかな女性の声がする。


「あ、来た来た、ジュディさん」

 亮が笑って出迎える。信司や透もそれにならった。


「今日は何を作ってきたんだ?」

 挨拶もそこそこにレッシュが嬉しそうにジュディの手元を見る。


「今日はアップルパイを焼いてみました。お口にあうといいのですが」


 緑色のワンピースに身を包んだジュディが、にっこりと笑う。

 その姿が、在りし日のディアナにあまりにもそっくりだったので、リカルドはどきりとした。

 彼女はバスケットを抱えている。ふわり、と焼きたてのパイと、甘酸っぱいリンゴの香りが事務所の中に広がる。


「いいにおいだねー」


 信司が言う。リカルドはその香りと言葉で我に返った。


「なんだ? リカルド。我を忘れるほど楽しみ、ってか?」


 レッシュが茶化すのに皆が笑った。ジュディははにかんで笑っている。


「い、いや、そういうわけでは……」

 リカルドは言葉を濁して苦笑した。


 ジュディは、事件以来、こうやって時間を見つけては探偵事務所に遊びにくるようになった。最初は事件を解決してくださったお礼にとマドレーヌを焼いて持ってきた。これがとても好評で、ジュディはそれが嬉しかったのだろう、仕事が休みの日にはお菓子を持ってくる。

 彼女の職場は木曜日と日曜日が休診日で、土曜日は午前中だけだそうだ。なので探偵事務所にやってくるのは木曜日の午後が多い。時々、土曜日の夕方にも顔を出しに来る。


「しかし、ジュディさん、いつもいつもお菓子を作ってくるのでは大変でしょう?」


 菓子作りは手間もかかるだろう。材料費だって馬鹿にならないはずだ。リカルドは心配顔で尋ねた。


「大変じゃないですよ。アメリカにいた頃からお菓子作りは好きでしたし、なによりここでは皆さん喜んでくださいますし」


 ジュディはにっこりと笑う。リカルドも思わずつられて笑顔を浮かべた。


「ジュディは、あんたに一番喜んでもらいたいんだよ」

 レッシュがにやっと笑ってリカルドの肩を叩いた。

「そ、そんな……」

 ジュディは顔を伏せてしまった。


「レッシュ、ふざけたことを言うな。ジュディさんが困っているだろう。よりによって冗談の対象が私だなんて気の毒だろう」


 リカルドはジュディを擁護するために抗議した。ジュディは何も言わずにうつむいたままもじもじとしている。


 ほら、困っているじゃないか、とリカルドはため息をついた。

 同時に、周りがみんなため息をついた。それを自分への同意と解釈したリカルドは、そらみたことかと肩をすくめる。


「――ま、まぁ、とにかくジュディさんのパイをいただこうか」


 亮が空笑いをしながら皆をソファへと促した。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 富川探偵事務所で過ごすひと時を、ジュディはいつも楽しんでいた。


 マフィアが自分を狙っていた、それを助けてくれたのもマフィアに属していた人だったというショッキングな事件は彼女の心に大きな影を落としていたが、こうして探偵事務所に遊びに来ることで、徐々に癒されてきていた。


 だからこそ、事務所を後にする時はいつも物悲しさを覚える。

 ずっと気になっていることを、また今日も聞けなかった。

 ジュディはため息をひとつついた。


 彼女の心を捉えているのは他でもない、リカルドのことだ。

 在りし日の父を思い起こさせるリカルドは、話しているととても落ち着く。穏やかで、優しい。あまり大きく表情を崩して笑うことはないが、彼の微笑を見るとなんだか嬉しかった。


 いつからだろう。彼を「父のような人」ではなく一人の男性として意識し始めたのは。

 まだ「気になる人」という存在であったが、日に日に彼への思いが強くなってきているのはジュディにも判る。


 だからこそまた気になり始めた。一体リカルドはどうしてマフィアに属していたのか。なぜ抜けたのか。

 ジュディには、リカルドが好んで人を殺めたり傷つけたりするようには思えない。だが実際に彼はマフィアの一員であったことを認めている。


 冷酷で残忍な犯罪者と、身を呈して自分を守った探偵。どちらが本当のリカルドだろうか。

 そして、過去の彼と婚約をし、何らかの理由で結婚には至らなかった女性がいる。今もおそらくリカルドはその女性を想っている。


 あれこれと考えては、またひとつ、ため息。


「あら、ジュディ? どうしちゃったのため息なんてついちゃって」


 声をかけられてジュディは少しうつむき気味だった顔を上げた。

 目の前に、照子がいる。友達候補に、と紹介された彼女は、さすがそのような候補に挙がってくるだけあって気さくな女性だ。

 二、三度ほど会っただけだが、すぐに打ち解けた。


 照子になら相談しやすいかもしれない。既婚者の女性という点でもポイントが高かった。

 ジュディは名案を思いついたとばかりに笑顔になった。


「実はちょっと悩んでいることがあるんです。もしよかったら相談に乗っていただけませんか?」

「あらら、悩み事? わたしでよかったら聞くよ」

「はい。お願いします」

「それじゃ、わたし富川さんに届け物してくるから、その後でね」


 すぐに戻ってくるね、と言って照子は事務所に続く階段を駆け足で上っていった。

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