03-2 まるで時を止める魔法

 退勤時間まであと一時間ほどだ。今日も何事もなく終わりそうだなとリカルドは時計を見て思った。

 信司達は昼過ぎに「これから悪霊のいる山に入っていく」とメールで伝えてきてそれっきりだ。厄介な相手と言っていたが大丈夫なのだろうか、と案じた時。


 探偵事務所のドアが勢いよく開かれた。歩の挨拶の言葉には明らかに驚きが混じっている。

 リカルドがそちらに視線を移した。

 心臓が、大きく跳ねる。


「……え」


 ディアナ!?


 心の中で、かつての婚約者の名を呼んだ。


 事務所に飛び込んできた外国人女性も、そのリカルドの声に反応して彼を見る。

 視線が交わると、女性も息を呑んだ。


「……おとう、さん……」


 しんと静まった事務所の中に、女性のか細い声が漏れた。


 探偵事務所が奇妙な緊張に包まれた。

 女性が入ってきてから数秒、まるで時を止める魔法にでもかかったかのように固まっていたリカルドだったが、我に返って女性に声をかける。


「こんにちは。本日はどういったご用件でしょうか」


 女性も、声をかけられたことではっと息をつき、ぺこりと頭を下げる。


「お客さん?」


 その頃になってようやく、亮が所長室からひょっこりと顔を覗かせた。

 ぎこちなく佇むリカルドとお客様に、亮は意味ありげに笑いかけた。


「あ、こんにちは。あの時はお世話になりました」


 女性は亮に視線を注いで近寄って行った。


「あぁ、確かジュディさん、でしたね」


 女性はジュディという名らしい。

 当たり前だが、彼女が二十年以上前に亡くなってしまった婚約者のはずがないのだ。

 リカルドは少し落ち着いた。


 ゆるく大きくウェーブした、肩よりも少し長いダーティブロンドは見た目にも柔らかそうだ。少し大きめの瞳は青みがかったグリーン。

 同じ髪、瞳の色をしたディアナはもっと快活な印象で、目がもう少し細かった。対しここにいるジュディはおとなしそうな印象で、物腰も柔らかい。


 リカルドがジュディを観察している間に亮にいざなわれて彼女はソファに腰かけた。


 亮は以前ジュディが探偵事務所を訪れた時の話をすることで相手の素性を確認している。


 ジュディは一年ほど前、ちょうどリカルドとレッシュが足抜けして神尾家に滞在して――というよりは軟禁状態になっていた頃に日本にやってきた。

 彼女の父親が殺人事件の犠牲者となってしまった。かねてより父から「自分が事件に巻き込まれて死んでしまった際は日本にいる友人を頼るように」と言われていたジュディは、京都に住むと言われていた父の友人を訪ねてきた。だが告げられていた住所に父の友人はいなかった。


 そこでジュディはちょうど近くにあったここ富川探偵事務所に彼を探してもらおうとやってきたのだった。


「結局、お父さんのご友人はジュディさんがこちらに訪ねてくる数か月前に事故で亡くなってしまっていたので、僕がお仕事と済むところをあっせんして差し上げた、という経緯でしたね」


 亮の締めくくりの言葉に、なるほどと相槌を打ちながらリカルドは疑問に思った。

 なぜジュディの父親はわざわざ彼女に「日本に行け」と言っていたのだろう。何も勝手が判らない外国より国内でのつてを紹介した方がよさそうなものだ。

 もしかすると父親にはほかに頼るべき相手がいなかったのかもしれないか、と推測する。


「それで、今日はどうされましたか?」


 過去の確認が終わり、話が現時点へと戻ってくる。


「それが……、誰かに見られている気がするんです。今日はお仕事が休みで買い物に出ていたのですが、視線を感じて……。別に何かされたわけではないのですが気持ち悪くて。気のせいだったらいいのですが、調べていただけたら、と思ったので」


 ジュディが言うには、視線を感じ始めたのはこの数日で、家や職場の近くでふと見られている気配がするらしい。

 気になるともう、ずっとつけられている気さえするので、犯人がいるならはっきりとさせたい、と探偵事務所に依頼に来たのだ。


 ジュディの話を聞きながら、リカルドはディアナが助けを求めてきているような気分になった。


 ディアナは強盗を装った暗殺者達に殺されてしまった。

 ジュディがもしも誰かに狙われているのだとしたら、今度こそ、助けなければならないとリカルドは思う。


「ジュディさんご自身、心当たりはありますか?」

「誰かに見られるような心当たりなんて……」


 ジュディは考え込んでから、かぶりを振った。


「心当たりがないのであれば考えられるのは誰かからの一方的な行き過ぎた好意か悪意ですね」


 一方的に好意を抱いて気づいてもらえない、あるいは相手にされないからストーカー行為に及んだということか。

 そう考えるとリカルドはとても腹立たしく感じた。


「そう決まったわけではありませんけれどね」

 亮が苦笑している。


 恐らくリカルドがジュディにディアナを重ねてみて憤慨していることも気づいているのだろう。亮に過去の話をしたことはないが彼なら正式に引き取ると決めた際にリカルドとレッシュのことはきっちり調べているはずだ。


「僕が気になったのは、どうしてジュディさんのお父さんが日本の友人を頼るようにとおっしゃっていたか、ですね」


 亮も同じところに注目していたようだ。


「前は詳しいことは伺いませんでしたが、ジュディさんのお父さんは何をなさっていたのですか? 亡くなられた時の状況もできれば教えていただきたいです」


 ジュディは「はい」とうなずいて、答えた。


「父は、FBIの捜査官でした」


 ジュディの父親が捜査機関の人間であった。

 えっ、と声が出そうになるのをリカルドはなんとか抑えた。

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