01-4 イニシアチブすら、存在しない
翌朝、リカルドは恐ろしいまでの頭痛に襲われていた。不覚にも、闘気を解放しなければ起きていられないほどだ。
なのに、リカルドよりも飲んでいた神尾家の親子はけろっとしている。一体彼らの体はどうなっているのかとリカルドは重い頭をひねっていた。
朝食の席に現れた亮も思い切り顔をしかめている。
「おはようございます」
リカルドが挨拶をすると、亮は苦い顔を傾けた。
「あれ? えぇと? ……確か、リカルド・ゴットフリートさん。どうしてここに?」
亮の第一声に、リカルドは愕然とした。まさか覚えていないとか? と周りの人達を見回す。信司も透も頭を抱えていた。
「亮、ボケるには早すぎるぞ」
レッシュが苦笑いを浮かべて亮の頭を手のひらで軽く叩いた。
どうやら彼が事の成り行きを話してくれたらしい。亮は「あぁ、そうか……。うん、なんとなく思い出した」などと応えたようだ。
「本当はこんな個人的なことに加担はしない主義なのですが」
亮の雰囲気が、がらりと変わる。
表情が消えた亮は、まるでオーラに冷気を混ぜているかのような身を凍てつかされる雰囲気だ。
リカルドは息を呑んだ。
「一旦お約束したことを反古にはいたしません。なのであなた方も、私の方針に従ってください」
声にも、黙ってうなずかねばならないと思わせる威圧感がある。
“アンタッチャブル”だ。今の彼は間違いなく、裏社会に絶対的な力をもって君臨する者の持つ威厳を放っている。
「はい。改めてお世話になります」
リカルドは頭を下げた。レッシュも声なく頭をたれる。
きっと普段から接している亮とかけ離れたものと実感している彼こそが、一番驚いているだろうとリカルドは思った。
「とりあえず、しばらくは神尾さんのところで厄介になってください。落ち着いたら改めて住む場所を提供します」
亮の言葉に、リカルドはただただうなずいた。ここ日本での生活は、リカルドはレッシュにすら頼らねば満足に出かけることもできないだろう。今まで上位者として彼に対して握っていたイニシアチブすら、存在しないのだ。
「リカルド」
レッシュが声をかけてくる。
「……そんな不安そうな顔するなよ」
心配そうに覗き込むレッシュに、リカルドはどうにか笑みを返した。
「二日酔いで頭が痛いだけだ」
精一杯の、強がりだった。
「あぁ、そっか。おっちゃんに付き合って飲まされたんだもんな」
リカルドの言葉をレッシュはどう受け取ったのだろうか。
「ゆっくり休ませてもらうといいよ。おれも今日はおとなしくしとくからさ」
レッシュにうなずいて、リカルドは朝食をいただくことにした。
目の前に並んでいるのは、いかにも日本食ですといわんばかりの、焼き魚とご飯、そして味噌汁。
それらを食するためには、箸を使いこなさねばならない。リカルドは箸を手にとって、じっと見つめた後、皆がするように持って、ご飯を掴もうとした。
ぽろ。
もう一度チャレンジ。
ぽろっ。
もう一度。
ぽろろっ。
うまく行かないものである。
手先の器用さには割と自身のあったリカルドは、ちょっと悔しかった。
「信司、悪いけど、フォーク持って来て」
レッシュが信司に頼んでくれている。
日本での生活は、前途多難である。
与えられた部屋で、リカルドは夕方まで転寝を繰り返していた。
どうにも神経が昂ぶって熟睡することはできない。布団に慣れないせいもあるし、ひどい頭痛のせいでもある。これからのことに対する不安を感じているからというのも大きな要因だろう。
心の中では逃げ出したいと思ったこともあったロサンゼルスでの生活だが、いつの間にかそれが自分にとって一番なじみのあるものになっていたのだ。そこから抜け出すことは、自分を守っていた見えない壁を取り払い、身を切る冷風に素肌をさらすようなものであることを、改めて思い知らされる。
今まで理不尽な生活に耐えてきたのだ。これからの暮らしにも、そのうちなじむだろうと、リカルドは自分に言い聞かせていた。
「ただいまー」「おじゃましまーす」
信司と透、そして聞き慣れない女の子の声が玄関から聞こえてきた。
さすがに家人が戻ったとあっては出迎えねばならないだろうと、リカルドは身を起こして居間へと向かった。
「あぁリカルドさん。気分はいかがですか?」
透が気遣って尋ねてくれる。彼のそばには、小学校高学年ぐらいの女の子がいる。
「はい、おかげさまで随分と楽になりました」
透に応えながら、遠慮の欠片もなく自分をものめずらしそうに見上げてくる少女にリカルドは軽く会釈をした。
「おい、ちゃんと挨拶しなさい。――あ、この子は妹の
神奈と呼ばれた少女は頭を下げて「はじめまして」と、たどたどしい発音の英語で挨拶をした。驚いたことに中学生だという。日本人の年齢は判らないものだとリカルドは内心思った。
そのうち亮もやってきて、夕食の時間となった。
リカルドの席の前には、初めからフォークが置かれてある。しかしいつまでもこのままではいけないのだろうな、と、一人だけ置いてけぼりのリカルドは思った。
「そうそう、二人の戸籍を手配するんだけど」亮が言う。「さすがにすぐに本名でというのも危険なので、しばらくは偽名を名乗ってもらうことになるよ。何がいい?」
亮が、戸籍というものについてリカルド達に説明した。日本では、それがないと国民として認められず、また、さまざまな制度を利用することはできないのだ。リカルド達が生まれた時からこの日本に暮らしていた、という設定にするためには、戸籍をどうしても作らねばならない。
そのようなものが簡単に用意できるのかと問えば、亮は「俺ならね」と笑った。さすがは“アンタッチャブル”だ。
「おれはジョージ・バーンスタインでいいよ。前から使ってる偽名だから間違えなくていい」
レッシュがすんなりと答えた。
「それって、最近公共の場で使ったことは?」
「いや、ないよ。念のために用意していたものだから」
「じゃ、レッシュはそれでいいか。……リカルドさんは?」
亮に問われ、リカルドはすぐには返答できなかった。偽名ならいくつか持っているが、どれもロスで実際に使用していたものなので、それらは使えない。
「もう少しお時間をいただけますか?」
「あー、じゃあ、明日までに考えてくださいね」
「判りました」
「……あ、そうだ」
透が隣の神奈になにやら告げている。神奈はうなずいて、鞄の中から本を出してきた。
「英語の教科書なら、適当に名前が載ってるでしょう」
透は英語でそう言うと、神奈と首をつき合わせてページをくっている。そこへレッシュも参加した。
しばらくして、三人は笑い声を上げてうなずきあった。
「ほら、これ」
簡単な英語と挿絵が描かれたページをリカルドに見せ、レッシュが言う。
「このイラストの男。おまえそっくりだ。名前はマイケル・ワンザだってさ。それで行ったら?」
確かに、高身長でメガネをかけている青年はリカルドの若い頃に似ていなくもない。だが、ざっと英文に目を通すと、恋人との待ち合わせに遅れてひたすら謝るという、情けない設定になっている。
「まぁ、名前には異存はないが……」
リカルドがそこまでつぶやくと、レッシュは大きくうなずいて、亮に「はい、決定ー」とにこやかに言った。
「よかったですね、リカルドさん。早く名前が決まって」
「は、はい。……ありがとうございます」
透の言葉に、リカルドはもうあきらめてうなずくしか、なかった。
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