01 人生の転機
01-1 足抜けなどもってのほか
ずっと今のままだと思っていた。
何らかの不幸、いや、ある意味幸いか――で命を落とすことになるその日まで父の敷いたレールの上から外れることができないのだ、と。
リカルドは、それを仕方ないとあきらめていた。
むしろ考えないことにしていた。
だがそれが、変わろうとしている。
思わぬところからもたらされた人生の転機は、驚きの連続であった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ロサンゼルス郊外の邸宅にて。
「レッシュを足抜けさせてあげてください」
日本から自分を訪ねてきたという日本人の青年、
リカルドは、唐突に吐かれた言葉に目を丸くした。彼がこれほど表情を変えることは珍しいが、それも一瞬のことであった。
信司の――それを通訳する透の話を聞くと、リカルドの部下であるレッシュが前に日本に訪れた時に、彼が名誉ある男、つまりマフィアに属する者であることを確信したので、彼を足抜けさせてやりたいと思ってやってきたのだそうだ。
この私を相手にそのような突飛な願いを物おじもせずに言うとは、とリカルドは感心した。
リカルドはここロサンゼルスを拠点に活動するマフィアファミリー「オーウェン」の幹部だ。それだけではなく「極めし者」と呼ばれる異能者の中でも、かなり腕の立つ者であると裏社会では噂されている。“冷徹な疾風”との異名まであるのだ。
もしもそこまで細かく知らなくとも、百九十センチをわずかに超えるほどの長身、一瞬驚きを顔に出しこそしたが冷静な態度を崩さない四十代半ばの初対面のマフィアの男に対して真正面からはっきりとものを言う者はなかなかいないだろう。テーブルをはさんで向かい合って座っているために距離が少し離れているからだろうか。
何を考えているのだろうか、この信司という男は、というのがリカルドの率直な感想であった。
マフィアには「血の盟約」と呼ばれる厳しい掟がある。足抜けなどもってのほかだ。
むろん、過去に掟を破り組織を抜けた者もいる。だが彼らを待つのは報復と死だ。しかもその過程はあまりにも残虐である。数日、数か月、数年間無事で過ごせても、その時は突然やってくるのだ。
いくらそれを説明しても信司は食い下がってくる。
リカルドを睨むような真剣な表情の信司が、レッシュを気遣っているのは雰囲気で読み取れる。実直を絵に描いたような青年がレッシュの友人であることはほほえましい。隣の透は柔和な顔つきだが信司よりは世間の
信司の決意は固く、透は無理と知りつつ信司に付き合っている、といったところか。
自分がいくら拒んでも引き下がらい。ならば直接、レッシュに断らせようか。
リカルドは方針を転換し、レッシュを呼びつけた。
電話で状況を伝えるとレッシュの声が裏返っていた。彼にとっても青天の霹靂だったようだ。
信司達と共謀して足抜けを計画しているわけではないことが実感できてリカルドは少し安心した。
呼び出して三十分程でレッシュがやって来た。
元々あまりきっちりと整えない糖蜜色の髪が、いつもよりさらに乱れている。急いでやってきたのだろう。野性的な表情は鳴りを潜め、困惑がありありと表に出ている。
目で座れと指示すると部下はそれに従い、ソファに腰を下ろした。
「心配しなくても、ちゃんと話つけて、足抜けできるようにするから」
「え。ちょっ、まっ……」
信司とレッシュが日本語で会話をする。リカルドには判らなかったが、慌てた様子のレッシュからして、信司は足抜けをさせてやると言ったのだろうと思う。彼の自信はどこから湧いてくるのだろうか。
それから、改めて信司の話を聞いてみるが、やはり感情論でしかなく、例えば足抜けをするに当たっての具体的な案はなさそうだ。もっとも、そんなものがあるのならリカルドとてさっさとこのような仕事は脱している。父に無理やり押し付けられ、抑圧されて働かされている仕事などに何の未練があろうか。
その父ももうこの世の人ではない、が、今はマフィアの掟である「血の盟約」が邪魔をする。それはレッシュも同じことだ。
「具体的に足抜けの安全策がないのに感情論で勧めないでください。親切心だけではどうにもならないことがあるのです」
リカルドがふと口にした一言に、信司は思いもよらない返答をしてきた。
「では、安全策さえあれば足抜けしてもいいのですね」
リカルドはレッシュを見やる。レッシュは返答に困っているようだった。
「いや、もしも万が一安全策があるとしても」レッシュが口を開く。「おれは足抜けなんてできない。やっぱり、リカルドを裏切ることは、できない」
少しの間をおいて吐かれたレッシュの言葉に、リカルドは思わず笑みがこぼれそうになった。だがそんな感情を表に出す彼ではない。
それに、努めて表情を隠すどころではない一言が、信司の口から飛び出したから。
「それじゃ、……リカルドさんも一緒に抜ければいいんだ」
……今、何ていった?
思わずそんな言葉が口から漏れそうになった。
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