最終話 ずっと一緒にいてください

 大きなスーツケースを片手に、ちよ子がFBI事務所の正面玄関前で立ち竦んでいると、「Hi」と長身で恰幅の良い三十代くらいのアメリカ人女性に肩を叩かれた。長い金髪を頭の上で高く一つに束ねている。


 何か英語で話しかけられたが、英語を理解出来ずにちよ子は頭が真っ白になった。女性は笑顔のまま話し続ける。黒のTシャツ、チノパン姿でラフな格好をしているものの、どうやら女性はFBIの関係者らしい。ちよ子はあたふたしながら用意していた紙を女性へ見せる。「ここに菅原明治は働いていますか? 知り合いなので会いたいのですが」とちよ子が英語で書いた紙だ。


「Chocolate!?」


 女性の目が輝いた気がした。先程以上に元気良く女性が喋り出し、ちよ子は何一つ英語を理解出来ないのだが、片手で背中を押されながらFBI事務所内へと連れて行かれた。


 当たり前だが、建物内はアメリカ人だらけ。女性は受け付けの事務員と陽気に挨拶をしてそのままちよ子を奥へと連れて行く。


 ちよ子は今にも倒れてしまいそうな程に緊張していた。もしかしたらこのまま不審者として牢獄に連れて行かれるかもしれない。ここでは日本語は通じないから誰にも助けを求められない。


 しばらく内部を歩いた後に、ちよ子を引き連れていた女性が立ち止まり、ちよ子に何かを言った。ちよ子が分からない、という顔を向けると、またゆっくりと英語を話し「wait(待ってて)」と聞こえた気がした。


「Meiji!」


 女性が発した言葉にちよ子はどきりとして血の気が引いて行く。


 女性はカウンター奥の事務所に入って行き、女性の向かった先を見ると、白のワイシャツにネクタイを締めた明治が立っていた。女性が明治に話し掛けて、そのすぐ後にちよ子は明治と目が合った。明治が驚くような表情をして、ちよ子はさらに固まる。


 アメリカまでやって来て、しかも仕事中に邪魔して、これ以上嫌われたくないのに……


 ちよ子は声を出すことも逃げ出す事も出来ずにその場に立ち竦んでいた。


 気付けば明治は事務所奥からこちらに向かって来ていて、カウンターを飛び越し、そして力強くちよ子を抱きしめた。


「え……」


「本物?」


 明治の問いにちよ子はコクリと頷く。訳も分からずただただ抱き締められていると、誰かが口笛を吹き、拍手が沸き上がった。


 抱き締められていた腕が緩み、明治が同僚に何かを言って、ちよ子のスーツケースを事務所奥に移動させて、ちよ子の手を引き、二人は事務所の外にある小さな広場へ移動した。明治に促されてベンチへ二人で腰掛ける。



「ご、ごめんなさい……」


 ちよ子はなんとかその一言だけ声を絞り出した。


「謝らないでよ。よくここまで来れたね」


 明治の優しい声に、ちよ子は涙が溢れ出てしまう。


「……会えてとっても嬉しいよ。なんだか夢見たい」


「……本当にごめんなさい。明治くんに迷惑かけるつもりはなくて、田中さんにお土産渡すように頼まれて、……それだけ渡したら帰ります」


「え!? 帰らないでよ」


「……麻布ばな奈、好きなんでしょ?」


「麻布ばな奈? それ、田中の好きなやつ……」


「スーツケースに入ってるの。たくさん……。スーツケース取ってくる」


「ちよ子ちゃん……」


 立ち上がろうとするちよ子の手を明治が握った。


「俺、麻布ばな奈よりちよ子ちゃんが……って違う。そうじゃなくて、その……」


 明治がちよ子をしっかりと見つめた。


「俺、ちよ子ちゃんが好きだよ! だから俺と付き合ってくれませんか!?」


「…………何で? 私の事、嫌いなんじゃなかったの……?」


「まさか。ずっと大好きだったよ。ただ、俺と一緒にいたらちよ子ちゃんをまた危険な目に合わせてしまうから……。でもアメリカまで来てくれたら……もう、俺は、離せそうにないのですけど……」


「…………」


「この仕事も危険だし、忙しくてちよ子ちゃんを寂しい思いさせてしまう事もあるかもだけど、ちよ子ちゃん事は必ず守るから……その……嫌?」


「ううん。嬉しい。……私も、ずっと好きでした……」


 涙をぬぐい、ちよ子は満面の笑みを明治に向けた。


 明治は優しくちよ子を包み、やがて二人の唇が静かに重なった。



 * * *


「――しかしほんとよくここまで来れたね、迷わなかった?」


「行き方は田中さんに聞いていたし、スマホ片手になんとか。本当に明治くんは警察官だったんだね」


「はい、そうなんです。らしくない?」


「ううん、似合ってる」ちよ子はまた明治と目が合い、頬を染めてしまう。


「……ちよ子ちゃんは何泊滞在予定なの?」


「一週間」


「早い……。ホテルとか取ってるの?」


「うん、田中さんがホテルも航空券も予約してくれたんだ」


「……ちょっと、航空券見せて」


 ちよ子は航空券やホテルの詳細が記載されている旅程表一式を明治に見せた。


「帰りのフライト、日時変更可能のチケットだね。観光目的だと九十日滞在可能だから帰国日延長すれば?」


「うん、そうする……。どこか格安ホテルあるわよね?」


「それだけど、ホテルもキャンセルして俺ん家泊まれば?」


「…………。」


「…………。」


「……エロい事はしないわよね?」


「え、むしろエロい事しか考えてなかった」


「〜〜〜〜!! やっぱりホテル泊まる!」


「嘘嘘、ちよ子ちゃんの嫌がることはしないから! ただ一緒にいたいだけっ!」



 明治は航空会社に電話して、素早く帰国日の変更手続きを行った。ちよ子は一週間は予約済みのホテルに泊まり、その後は明治の家で宿泊させてもらう事にした。


「俺、今日は泊まりで仕事だから、夜勤明けたら連絡するね。明日、昼には会えると思うけど」


「わ、分かった……」


「寂しかったら、俺ん家居ててもいいんだよ?」


「いやいい! 観光しとく!」


「夜は出歩いちゃ駄目だよ」


「はい……」


 明治はちよ子の肩をそっと抱き寄せた。ちよ子は慣れていないので石のように体を強張らせる。


「……仕事に戻らなくて大丈夫なの?」


「あと十五分、大丈夫」


「…………。」


「十年間もずーっと離れてたでしょ。正直もうずっとちよ子ちゃんと一緒にいたいんだよね」


「それは私も」


 そう言って、ちよ子と明治はお互いに笑い合った。



 * * *


 十二月二十四日、日本。

 クリスマスイブの夜に、ちよ子は一人、ワインショップに併設された立ち飲みバーでワインを飲んでいた。

 次に明治に会えるのは年が明けてから。遠距離恋愛は辛い。加えていつも夢中になっているのは自分ばかりな気がする。無職なのでそろそろ仕事も見つけなければいけない。アメリカで就職したいけど語学の壁が……。ちよ子は頭を悩ませた。


「サービスです。赤ワインに合いますよ」


 格好良く黒の制服を着こなしたショートカットの女性店員が、「余ったので」とちよ子にノルマンディー産カマンベールチーズをサービスする。優しさが心にしみる。


「今年もホワイトクリスマスですねぇ」とカウンター越しに女性店員が笑った。


 そう、去年もホワイトクリスマスだった。

 会社帰りに明治とこのワインショップでばったり会って、待っていたと言われて、デートの約束をして、でもそれはボディーガードとしてちよ子に近付く為の口実で、とにかく初めは散々な思いをした。

 まぁ、色々あって今はお付き合いをしているのだが、明治のいるアメリカに滞在出来るのは一年間で最大180日。一回あたり最大90日。

 いつまでもこんな状態ではいられない。そして日本で再就職してしまったら明治と今まで以上に会ったり電話もできなくなってしまう。


 夜十時。いつのまにか店内は賑わっている。このワインショップは二次会の場所に利用されているようだ。ちよ子はお会計を済ませて店外へ出た。冷たい風が頰に当たりコートを着ていても寒い。


「ちよ子ちゃん!」


 とても恋しい声。空耳? と思いながらも声のした方向へ振り向くと、そこにはとっても会いたかった男、菅原明治が息を切らして立っていた。


 背中から赤いバラの花束がチラリと見える。


「結婚しませんか? 今度はボディーガードの仕事で言ってるんじゃないよ」



 ――その日のことはアメリカで住んでいる今でもずっと忘れない。



〈終わり〉

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