蝿考
「レモン味のラムネ 第七話 青唐辛子醤油」より抜粋
(中略)
ここで私に一抹の不安が生じた。
ひょっとして私が知っている日本というのは私の妄想でしかなくて、実はこちらの方が正しい世界なのでないか。
まるで胡蝶の夢のようだが、この逆説的仮説は私が現在置かれている状況を正しく説明できるようにすら思えた。あまりに天才的な閃きに私は身震いし、同時に恐怖を感じた。
「あ、ヘーが
そんな哲学的な不安に囚われていた時、秋実さんがいきなり大声を出した。するとまだ部屋に残っていた人たちが一斉に宙を見つめた。
「づけ行って?」
「づく?」
彼らは皆手にスリッパや丸めた広告などを握りしめていた。
「ヘー?」
何が起こったのか分からず、私は秋実さんに聞き返した。彼女はこちらには目もくれず、いやに真剣な表情でその場に立ち尽くしたままだった。
「ハイざい、ハイ。虫っちゃ」
私は彼女の視線の先を追いかけた。すると天井の照明の方に向かってブーン、という羽音と共に小さな虫が飛んでいくのが見えた。
「
私はやっと理解した。しかしここで素朴な疑問が湧いた。
「でもそれじゃ、タバコの『
すると、酔っぱらったおじさんたちが争うようにまるででたらめのようなことを言った。
「『
「いや、『へー虫』に決まっつる」
「『フライバイ』ざっぱ?」
適当な言語だな。
こんなメチャクチャな方言が現実の日本に存在していいはずがなく、私はやはり自分が正気であることを確信した。
***
このやり取り、実は私の実体験に基づいている。
高校生の時、とある先生が、
「名古屋弁では『蝿』のことも『灰』のことも『ひゃー』と言う。『じゃあ、『蝿』と『灰』をどうやって区別するんだ?』と聞いたら、『蝿のことはひゃーぶんぶ』と言う」
という笑い話をしていて、その時私は「なんてテキトーな言語なんだ。そんなのデタラメだろう」と思ったのだった。
しかし、これは後になって分かったのだが、日本全国にあるほとんどの方言ではそもそも「
そして、昔の日本語では「蝿座」を「ハイザ」と読んでいたらしく、要するに「ハエ」と「ハイ」の区別はあまりなかったらしい。
つまり、「蝿」と「灰」の発音を区別しなければならない、という考え方自体が標準語による規範意識のもたらしたものなのだ。
この問を立ててしまっていること(=「蝿」と「灰」の発音をどうやって区別するの?)自体が、実は日本語という言語全体から見るとナンセンスであるということに、当時の私は気づけていなかったのだ。
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