菫色の恍惚

砂糖リリィ

紅から菫へ

 蝉の声が日に日に大きくなっていく気がする。

 先日、私より二十三歳年上の橋元 柊(はしもと しゅう)さんと両想いになった。あの出来事から、数日しか経っていないという事実に、大学生になって初めての夏休みを送っている最中の私は内心信じられなかった。未だに柊さんと恋人同士になったことに私は現実味を帯びることが出来ず、たまにこの前の出来事を思い出しては、一人赤面してしまう。さらに、あの日互いに思いを熱く確かめ合うように私達は熱いキスや、その場の熱に任せてディープキスまでしてしまった事実やあの日の唇の感触を唐突に思い出してしまうこともあり、私は一人死にそうになることも少なくなかった。まだ残っているあの感触は、あの日起こったことがまぎれもない真実だったことを言い表しているようで、私はたまにそれを確かめるように指でそっと唇に触れる癖が付いてしまっていた。誰にも気づかれないように、そっと唇を触ることで、あの日に気持ちが巻き戻されるような気がして、その度に私は満たされた気持ちでいっぱいになっていた。

あの日私は柊さんと海に行くことを計画した。海に行く日は、もう二週間後に迫っていた。本当はもっと早くに行きたかったのだが、二人の予定がその日しか合わなかったのだ。

 それもその筈、ここ数日は世間で言う『お盆休み』が挟み、私自身も遠方に住む祖母の家にお盆期間は泊りに行ったり、バイトが立て込んでいたりして柊さんと会う機会すら無かった。


 お盆明けの昨日、私はようやく柊さんに会える! と柊さんのお店の休憩時間を狙い、ウキウキで会いに行った。

「こんにちはー」

 私はいつものように店の入り口からひょこっと顔を出して挨拶をし、そっと店の中に入った。忙しいお盆の時期を乗り越えた店内は、いつものように落ち着きを取り戻していた。店内の人はまばらで、相変わらずその季節に合わせた色とりどりで綺麗な花達で溢れていた。店内の奥にあるレジでは、柊さんが爽やかな笑顔でお客さんが買ったお花の会計とラッピングをしていた。柊さんは、緩いパーマに前髪センター分けという髪型に小顔でシャープな目に薄い唇という、とても綺麗な顔立ちと、百八十二センチという高身長で手足がモデルのように長いから、一つ一つの動きだけでも様になる。しばらく私は入り口辺りで立ち止まり、柊さんの様子をじっと観察しながら終始見とれていると、私に気づいた柊さんがこちらに手を振ってくれた。

「朱(あや)! 久しぶり!」

 一瞬で柊さんはお仕事モードの笑顔から、私だけにしか見せない『男の人の笑顔』に変わった。あぁ、好きだなぁ。仕事をしている時の柊さんも好きだけど、私はやっぱりこの柊さんが好きだとしみじみ思った。私はすぐに手を振り返し、柊さんの元に急いで駆け寄った。

「柊さん! 久しぶりです! 元気そうでよかったです!」

「朱こそ。今店閉めるから、ちょっと待ってて」

そう言って柊さんは店の入口へと歩いて向かい、ドアにかけられ、『OPEN』と書かれた小さなメッセージボードを『CLOSE』の面へと変え、再びドアノブにかけた。そしてまた、柊さんが優しい笑顔で私の方へと戻って来た。

「お待たせ。さぁ、今朝サンドイッチを作ってきたんだ。一緒に食べよう」

「はい! やったぁ! 今日は柊さんの手作りランチだ!」

柊さんのお昼ご飯はいつもは近くのパン屋で買ってきたパンや、コンビニ商品などが多いけど、たまにこうして、柊さん自身が朝作ったお弁当や軽い軽食を食べることもある。柊さんが作るお昼ご飯は彩りが綺麗で味も美味しい。最近は、私が店に遊びに来る日は、柊さんが事前に私の分の昼食まで用意してくれるようになった。私の目の前には、柊さんが店のバックヤードから持って来た青いランチバッグから取り出された少し大きめのランチボックスが一つ置かれた。

「開けていいですか?」

「どうぞ」

蓋を取ると、そこには一つ一つのサンドイッチに色とりどりの具材がピシッと綺麗に挟まれた、見るだけで思わずお腹が鳴ってしまいそうな長方形のサンドイッチがビッシリ入っていた。柊さんの手作りサンドイッチを初めて見た私は、そのクオリティの高さに思わず感嘆の声を上げた。

「すごい……! 見た目も凄く綺麗で美味しそうです!」

「ありがとう。いつもは卵ハムサンドなんだけど、今日はちょっと早起きしちゃったから野菜も少し入れてみたんだ」

「そうなんですね! 私、サンドイッチ久しぶりに食べるんですごく楽しみです! うわぁ、ほんと凄い……!」

「そんなに褒めてくれるなら、今朝頑張った甲斐があったよ。先、一個取って」

「あ、先良いんですか? ありがとうございます。じゃあ……、これにしよ」

私は、赤いトマトが目立っていた一番手前のサンドイッチを一つ手に取った。柊さんは私の左隣の、ツナとレタスが入ったサンドイッチを取った。

「「いただきます」」

私達は同時にサンドイッチにかぶりついた。口の中には、一瞬でトマトの瑞々しい味が広がり、その後にレタスのシャキシャキ感と細かく刻んだ卵の温かい味が交互に広がった。

「美味しい!」

「ほんと? 良かった。それ、今朝採れたトマトが入ってるんだ。結構水気が入っていて美味しいでしょ」

「あ、そっか。柊さん、そう言えば家で小さな家庭菜園もやってましたね。そっかー。柊さんが作ったトマトだからこんなに美味しいのかー」

「そこまで言わなくても……」

柊さんは謙遜しながら、黙々とサンドイッチを頬張った。

「あ、後、この卵のふわっふわ感が堪らないです! 私がこの前サンドイッチ作った時はこんなに卵ふわふわにならなかったのに」

「いや、大したことはしてないよ。今日はたまたま上手くいっただけ。というか、朱もサンドイッチ作ったことあるんだ」

「はい。と言っても、作ったのは三年も前なんですけど……」

「いいなぁ。じゃあ、今度は朱が作ってきてよ」

「え? 私が?」

突然の柊さんの提案に、私は目の前のサンドイッチに集中していた視線を思わず柊さんの方に向けた。

「うん。そう言えば、まだ朱の料理を食べたことが無かったから、一度食べてみたいと思って」

あれ? これって、もしかして『彼女の手料理をおねだりする彼氏の図』じゃない? こういうこと、本当にあるんだな……。どうしてこの人はいつもこういうことを何食わぬ顔でサラリと言えるんだろう。私は、柊さんに、自分が彼氏だということをいきなり再認識させられた気がして、顔が微かに赤くなった。

「……じゃ、じゃあ、今度は私がサンドイッチ作って、柊さんの店に持って来ます」

「ほんと? ありがとう、楽しみにしてる」

そう言って柊さんはニコニコと嬉しそうに微笑んだ。対する私は、照れを誤魔化すように、二つ目のサンドイッチに手を伸ばした。二つ目のサンドイッチは、卵だけがはいった、通称『卵サンド』だった。柊さんさっき、いつもは卵サンドしか作らないって言っていたから、もしかして好物なのかな? 上手に作れるように今からこっそり家で特訓しないと。

「お盆は何してた?」

「お盆は、前半はバイトをずっと入れてたんですけど、後半は京都のおばあちゃん家に行ってました。おばあちゃん家は清水寺の近くにあるんですけど、いつも清水の前にある商店街で一日中ブラブラしたり、おばあちゃんと京都駅辺りに行ってのんびり散歩したりしました。あ、その時に寄った凄く美味しかった甘味処があったんですよ! その時に食べたのが‥‥‥」

 私は、久しぶりに柊さんとお話出来ることが嬉しくて、気づけばほぼ私ばかりが話していた。私の話を聞く柊さんの眼差しや微笑みが本当に優しくて、私はつい安心して話し続けた。

 すると、ずっと私の話を聞いていた柊さんはふと笑った。

「柊さん?」

「……あぁ、ごめん。いや、その……、ずっと僕の目を見つめながら凄く嬉しそうに話すから、可愛いなぁって思って」

「えっ⁉ そんなに顔に出てました⁉」

「うん。そんなに僕に会いたかった?」

 柊さんの瞳が私を真っ直ぐ捉えた。私はそれに射抜かれたようにその場から動けなくなってしまった。いきなりこうして爆弾をしかけてくるなんて、やっぱり柊さんはズルい大人。

「……はい。だって、ここ一週間はお店にも行けなかったし、忙しかったから柊さんが恋しくて‥‥‥」

 柊さんの真っ直ぐな瞳に影響されたように私も柊さんに正直な気持ちをぶつけた。すると、柊さんは何か驚いたのか、目を丸くして私をまじまじと見つめた後、バッと顔を逸らして片手で無造作に前髪を上げた。上げられた前髪の隙間からは、ほんのり赤くなった柊さんの顔が見えていた。

「柊さん、もしかして……」

「いやぁ、まさかそこまでストレートに言われるとは思っていなかったから、つい‥‥‥」

「……柊さんって、もしかしてストレートな言葉に弱い?」

「……‥‥‥さぁ、もうすぐ休憩時間が終わるけど、もう全部食べ終わったのかな?」

「えっ⁉ もうそんな時間⁉ あっ、本当だ‥‥‥」

 誤魔化すように柊さんにいきなり話題を変えられ、私は壁時計を見ると、確かに休憩時間終了まであと十五分しか経っていなかった。お喋りに夢中で、サンドイッチをおざなりにしていたことにやっと気づいた。柊さんは椅子から立ち上がり、店の開店準備を始めた。

「まだ時間はあるから、ゆっくり食べていていいよ」

「はい。あ、でも、あと十五分で柊さんとお別れなんですね‥‥‥」

「朱は昼から予定あるの?」

「はい。二時からバイトがあるんで、これ食べ終わったらすぐ家に戻ります」

 本当は、昼からの営業時間もここにいたかったけど、柊さんの店の邪魔をしてはいけないし、私自身、家に帰ってバイト用の服に着替え、もう一度化粧直しやら身支度を整え直さなければいけなかった。柊さんに次会えるのは、二週間後の海デートの日しか無い。それまで私は、LINEと電話だけで我慢しなければいけない。

 私は、休憩が終わる五分前にようやくサンドイッチを全て食べ終わり、予め持って来ていた水稲の中に入っているお茶を飲んだ。

「ご馳走様でした。これってどこに置いておけばいいですか?」

 私は、柊さんにランチセットの仕舞場所を聞いた。

「あぁ、後で僕が片付けるからそこにそのまま置いておいて」

「はい、分かりました。サンドイッチ、すごく美味しかったです! ありがとうございました!」

「それは良かった。僕も、久々に朱とゆっくり会えて楽しかったよ。じゃあ‥‥‥、次会うのは、海に行く日かな?」

「はい‥‥‥」

「……寂しい?」

 私の気持ちを察した柊さんは、私に近づき顔を覗き込んだ。私は柊さんの問いに静かにコクン、と頷いた。こんなわがままな姿を見せたら、柊さんを困らせてしまうかもしれないけど、何だか今日は甘えたかった。

「……実は僕もちょっと寂しいんだ」

「え……? 柊さんも‥‥‥?」

 あの大人で余裕がある柊さんも、私と会えなくなることが寂しいと思ってくれているの? まさか、柊さんも同じことを思っているとは思っていなかった私は、驚いたのと同時に、少しキュンとした。

「うん。僕はいつも心に余裕があるわけじゃないから。でも、今日会ったら、何だか大丈夫な気がしたよ。またLINEや電話するし、二週間後には必ず会えるんだから、それまでお互い頑張ろうか。ね?」

 柊さんが私の手を両手で包み込んだ。手から柊さんの熱と私の熱が溶け合うみたいで、なんだか心地が良かった。その熱を感じた私は心に安心感が戻って来た。

「……ありがとうございます。私、今夜またLINEします、絶対!」

「うん。本当、朱は分かりやすいなぁ」

 さっきとは打って変わって顔色が明るくなった私を見て、柊さんは苦笑いし、握っていた手を片手だけ外し、よしよし、と言いながら私の頭を優しく撫でた。手だけに伝わっていた熱が今度は頭にも伝わり、私は再び顔を赤くした。どうやら、この人の優しさにはまだ私は慣れることが出来ないみたい。

「……柊さん、そろそろ」

「あ、本当だ。そろそろ店開けなきゃ。……じゃあ、朱。またね」

「柊さんも、午後からのお仕事頑張ってくださいね」

 私は柊さんから離れると、机の上に置きっぱなしだった荷物を持ち、柊さんに手を振りながら店を出た。

 店を出てからも、柊さんの言葉や行動が頭の中で蘇り、再び体温が上昇した。早く二週間後になって欲しい、と帰り道に心底願うばかりだった。



 当日の朝、私は元気よくベッドから飛び出した。なぜなら、今日がいよいよ待ちに待った柊さんとの海デートの日だから。自室の時計をチラリと見ると、まだ気象予定時刻の一時間も前だった。どれだけ楽しみにしていたんだ、と思わず笑ってしまった。二度寝して柊さんとの約束の時間遅れる遅刻するのは嫌だったので、私は朝食を取る為に軽快な足取りで階段を降りた。

 朝食を終え、洗面所で朝の支度を終えると私は再び部屋に戻り、昨夜事前にクローゼットの持ち手にかけてあるハンガーに吊るした、腰元に大きめのリボン付いた藍色のミドル丈ノースリーブワンピースを着た。この服は先日、お母さんとショッピングモールへ買い物に行った時に入った大学生頃の女子に人気のファッションブランド店に入った時に一目ぼれし、その時に買ったばかりだった。そして、鏡の前で髪型をポニーテールにしてそれを藍色のリボンで結んだ。化粧を終え、クラウンんの下に白いリボンが巻いてある、少し大きめの麦わら帽子を被り、水着やその他必要な物を前日に詰め込んだバスケットを持つと、もう一度私は鏡の前に立ち、身だしなみの最終チェックをした。鏡に映る自分は、まだ柊さんに会っていないというのに、顔の表情が緩みっぱなしだった。このままではずっとニヤニヤしっぱなしのヤバい人になっちゃうんだけど、今日はこんな調子で大丈夫かな……。

でも、海で水着を着た柊さんが優しい声で私の名前を呼びながら一緒に歩く姿を想像するだけで、「ふふっ」と笑い声が漏れてしまう程、今の私は浮かれていた。気づくと、時間はそろそろ家を出発する時間になっていた。柊さんも今頃私と同じ気持ちになっていたらいいな、と私は微かに期待しながら部屋を出た。


お母さんには、「友達と海で遊びに行ってくる」って伝えた。お母さんに嘘をつくのは、心苦しかったけれど、さすがに世間体もあって、二十三歳も歳上の人と付き合っているとは親にはまだ正直に言えない。もっと柊さんと深い仲や信頼を深めてから、改めて自分の口から言おうと考えている。私達自身が、堂々と『付き合っています』と言えるようになる日まで。

十分程歩いて、柊さんの家の前に着いた。本当は、柊さんが「私の家の前まで車で迎えに行く」って言ってくれたけれど、「歩いてすぐなので大丈夫です」と言って断った。空を見上げると、雲ひとつない快晴で、まさに海日和。早く柊さんと海に行きたい気持ちが強くなり、私は早歩きで柊さんの家へと急いだ。

一度髪を整え、インターホンを押した。

「はい」

「折原です」

「朱! 待ってて、今すぐ開けるから」

私が返事をするより前に、柊さんはインターホンの通信を切り、中からパタパタとこちらに向かってくる足音が聞こえた。

そして、すぐに、柊さんが淡い水色の無地のTシャツに無地の短パンと,ラフな格好で出てきた。

「おはよう! 朱!」

「おはようございます! 柊さん! いよいよ今日ですね!」

「うん。僕もすごく楽しみにしていたよ。このまま外で待っているのも暑いだろうから、中に入って待ってて」

「はい。それじゃあ、お邪魔します」

 柊さんにそう促された私は、軽く会釈して玄関の中に入った。

「荷物取ってくるからそこで待ってて」

柊さんは、玄関のドアに一旦鍵をかけると、すぐに部屋の中に入った。私は柊さんに言われた通り、玄関で大人しく待つことにした。靴箱の上に置いてある花瓶には、二、三輪の大きく綺麗な向日葵が私を見つめていた。あまりにもそれが美しかったので、柊さんが戻って来るまで私もそれを見つめていた。

 暫くして、大きめのトートバックを抱えた柊さんが戻って来た。

「お待たせ。……その向日葵、綺麗だよね」

「はい。一枚一枚花びらが鮮やかな黄色をしていて、見ていて吸い込まれそうでした」

「昨日まで家の庭で育てていて、今朝活けたばかりなんだ。玄関も明るくなるし、丁度花言葉が朱にピッタリだったから、見せたくて」

「え、私に? 確か向日葵の花言葉って‥‥‥」

 『貴方だけを見つめる』

「…‥‥‼」

 向日葵の花言葉は、世間的にも有名だから私でもすぐに出てきた。花言葉に気付いた私は、ある意味ストレートな柊さんの発言に、顔が一瞬で赤く染まった。それに気づいた柊さんは、確信犯みたいな顔で少し揶揄うように薄い唇をキュッと横に弧を描くようにニコリと笑った。その笑顔が、どこか妖艶で、大人の余裕を見せつけられたようで余計ドキドキした。

「……行こうか、朱」

「は、はい」

 何事も無かったように柊さんはドアを開けて、私に先に出るよう誘導した。こういうレディーファーストな行動がすぐに出来てしまうところもズルい。今日は柊さんにもいっぱいドキドキしてもらおうと頑張ろうと張り切っていたのに、早速私だけドキドキしている。これでは幸先が危うい。


柊さんの愛車である、外車で黒色の軽自動車の助手席に乗った。車内はシンプルできちんと整頓され、エアコンの中央にはクリップ型の小さな芳香剤が置かれており、そこからラベンダーの香りが車内中に漂っていた。

荷物を後部座席とトランクに全て積み込み終えた柊さんは、運転席へと座り、シートベルトを閉めた。柊さんが運転をするところは初めて見る私は少し緊張した。

「準備出来た?」

「はい。オッケーです!」

「じゃあ、行こうか」

「はい!」

柊さんは出発準備を終えた後、サイドブレーキを外し、アクセルを踏み込んで出発させた。これから好きな人との生まれて初めてのデートが始まるんだ。なんだか少女漫画の主人公になった気分で、少し気恥しい。私、いま柊さんの車に乗ってるんだ。それだけで鼓動が早くなった。二人きりでこんな狭い空間にいるのは初めてで、抱きしめ合っているわけじゃないのに、いつもより密着しているみたいでドキドキした。

大きな通りに出て、信号が赤に変わり、柊さんはスムーズな動きで車を停止させた。チラリと横目で柊さんを見た。真剣な眼差しで前方を向いている柊さんの横顔は、思わず写真に撮って収めたい程美しかった。と同時に、ハンドルを切る度にしなやかに動く柊さんの長くて細い指や、少し浮き出た血管に目が行き、私は柊さんに『男の人』を見せつけられた気がして、気づけば柊さんを見つめていた。私の熱視線に気づいた柊さんは、苦笑いしながらノールックで私の頭をわしゃわしゃと軽く撫でた。

「見すぎ。今運転してるからもう少し我慢して下さい」

「すみません……。なんだか、運転する柊さんを初めて見たから、新鮮で……」

「そうか。朱を車に乗せたのは初めてだったか。物珍しいのは分かるけど、そんなにずっと見つめられると運転どころじゃ無くなるから程々にしてね」

「! ご、ごめんなさい! 運転の邪魔でしたよね! 気をつけます……」

柊さんに迷惑かけちゃった。そりゃそうだ。柊さんは今運転中なんだもん。私が柊さんの気が散るようなことをしてどうするの。大人しく外の景色でも見ておこうと思い、顔を反対側に向けようとしたその時、私の右手に微かな温もりを感じ、反射的にそちらの方を向くと、柊さんが私の右手に自分の手を軽く重ねていた。

「う、運転中なんじゃ……、ほら、もうすぐ青になりますし……」

「今の間だけ。あんな可愛いことをされたから、ちょっとだけお返し」

「……!」

手を重ねたまま、柊さんの顔は前方の信号の方をしっかりと向いていた。柊さんの行動と表情が違いすぎて私は微かに混乱した。柊さんの心情が全く読めない。やっぱりこれが大人の余裕なのかな。また一枚上手の柊さんに翻弄されてしまっている。さらに追い討ちをかけるように、柊さんは重ねた手の上から、慈しむように私の手をなぞってきた。そんな触り方をされたのは初めてだったから、思わず私は身体をビクッとさせたと同時に声をあげそうになった。私の中で、早く信号が変わって欲しいようなこのままでいて欲しいような、複雑な心情が交差した。

ようやく信号が変わり、柊さんはパッと手を離し、アクセルを踏んで、まるで何事も無かったかのように再び運転に集中した。やっとドキドキから解放された、とホッとしたと同時に、心の片隅で『もっと触って欲しかった』とモヤモヤする気持ちが生まれていた。混ざり合う気持ちをどうにかして抑えようと、私は車窓の方を向いて景色を堪能することに集中した。すれ違う車は次から次へと忙しなく去っていき、やがて目の前には青くキラキラと輝いた海が見えた。


柊さんの家から出て約一時間。この街ではあまりメジャーじゃない、大きな港町から少し外れた海水浴場に辿り着いた。バッグを持って降車し、眩しい太陽の陽射しに目を細めながら麦わら帽子を被り、辺りを見渡すと、この辺に住んでいる人しか知らない場所なのか、人はまばらだった。世間的にあまり大々的にアピールするようなお付き合いじゃない私達にとっては少し安心するような場所だった。運転席から降りた柊さんは、トランクを開けて荷物を取り出し始め、私も手伝おうと、後部座席に置いてあったクーラーボックスを取り出した。

「ありがとう。いつもお世話になっている花屋の店主の家がこの近くにあってね。その帰りにたまにこの近くをドライブしたりしていたんだ」

「そうだったんですね。私、小学校入学した頃からこの街に住んでいるんですけど、こんな所にも海水浴場があるなんて知りませんでした」

「だろうね。僕も店主の家に行くまで存在を知らなかったんだ。穴場スポット的な感じで良いかな、と思ってね」

「なるほど。実は、あまり人が少ない場所が良いと思っていたので少し安心しました」

「それなら良かった! じゃあ、行こうか」

「はい!」

柊さんは、私に右手を差し出した。私は少しぎこちない動きになりながら、差し出された右手を自身の左手で握った。そういえば、こうやって外で手を繋いで歩くのは初めてかもしれない。本当に恋人同士になったんだ、と心の中がじんわり暖かくなった。

駐車場前にある階段を降り、砂浜へと辿り着き右折して、互いに水着に着替える為に更衣室へと向かった。更衣室の前方で待ち合わせしよう、と約束し私達はそれぞれ分かれて入った。

久々に入った海水浴場の女子更衣室は、思ったより綺麗で広かった。早速私は個室に入り鍵をかけ、個室内の荷物置きにバッグを置き、先日大型ファッションビルで買った、アイボリー柄の生地に藍色のペチュニアの花柄が美しい、サロペットビキニが入った袋を取り出した。実は、私は水着を買うなんて数年ぶりだったから流行りなどが分からず、近くにいた店員さんに相談して決めた。あれこれと相談している内に、店員さんが三着程の様々な種類の水着を私の前に持って来た中にあったのがこのサロペットビキニだった。店員さんから、「露出が恥ずかしいお客様でも、このサロペットタイプだと露出が控えめで安心出来ますし、すこし熱くなってきた時にサロペットを脱いでスカート付きや王道ビキニタイプに変更して、ギャップ萌えで彼氏さんを悩殺させることも可能です!」と熱弁された私は、『これなら私でも着やすいし、もしかしたら柊さんをドキドキさせられるかもしれない』と思い、意を決して購入した。

実際に着てみると、サイズもピッタリで、サロペットも着た状態だと露出も少なく、デザインも可愛いと一石二鳥だった。いきなりビキニは恥ずかしいと思っていた私には、まさにピッタリだった。腕や脚など、肌が露出してある部分には大体日焼け止めを塗り終えたものの、やはり背中辺りは中々手が届かず、私だけで塗るのは難しかった。後で柊さんに塗ってもらえばいいか、と思い私は日焼け止めと、水着が入っていた袋をバッグに戻した。荷物を全て持ち、ネイビーカラーのシンプルなビーチサンダルに履き替えた私は、鍵を開けて個室を出た。更衣室は、最初に入ったよりも少し人が増えており、ヘアメイクをしたり、友人と談笑している人がちらほらいた。私は、洗面所の横に設置されていた化粧室の鏡の前に立ち、床に荷物を置き、予め手に持っていたポーチからコームを取り出して髪をもう一度綺麗なポニーテールに直した。鏡を見ながら髪を直している最中、柊さんは私の水着姿を見てどう思ってくれるんだろう、とぼんやりと考えていた。確かに私はまだ十九歳だし、大人のお姉さんのような色気には程遠いかもしれないけれど、それでも今日はいつもより少し背伸びして頑張ってみたつもりだ。少しでも柊さんが私に心を動かされて欲しい。今日はそんな期待を寄せてもいいんじゃないのか、そう考えている間にポニーテールは完成し、準備万端の状態が出来上がっていた。荷物を持ち、もう一度身だしなみを整えた後、更衣室を出た。

待ち合わせ場所には、既に柊さんがいた。その姿を見た私は、声をかけるより前に思わず「えっ」という声が出てしまった。

モノクロカラーの短パン風水着に、上半身には白色のラッシュガードを羽織って更衣室の入口の横側に立っていた柊さんの姿は、とても絵になっていた。私は少し小走りに私は魅了されながらも、小走りで柊さんに近づいた。

「柊さん! お待たせました!」

「! 着替え終わったんだね。……朱はその色も似あうね。綺麗だよ」

 柊さんは、私の水着姿を見てサラリとそう言った。確かに柊さんは私が求めていた百点満点の回答を言ってくれたけど、いざ面と向かって言われると恥ずかしくて仕方無くなり、私は頷くことが精一杯で、それ以外はもじもじして下を向くことしか出来なかった。

 近くで柊さんの上半身を見ると、服を着たままでは気づかなかったことが色々判明してしまった。柊さんの身体は、ガッチリとした筋肉は付いていないものの、二の腕や腹筋など、付くべきところにはきちんと付いている、世間で言う細マッチョだった。しかも、柊さんの腹筋の縦のラインが絶妙に美しく、私は思わず息を飲んだ。こんなにも男の人の身体をまじまじと見つめたのは初めてだった。私が柊さんの身体をしばらく凝視していたことに気づいたのか、柊さんは少し照れたような、困ったような笑い顔を見せた。

「……どうした?」

「……柊さんの身体が綺麗だなぁって」

「……え?」

未だに柊さんの肉体美に惚れ惚れしていた私は、少しフワフワした気持ちのまま、少し恍惚気味な紺色で呟いた。ふと我に返り、顔を上げると、柊さんの顔が真っ赤になり、いつも私が何を言っても涼し気な様子の柊さんからは考えられない程動揺していた。こんな柊さんを見たのは初めてだった。何も言葉が出てこない程動揺している姿なんて、今まで一度も見たことが無かった。しばらく微動だにしなかった柊さんの様子が心配になった私は、柊さんの顔を覗き込んだ。

「……柊さん?」

「……あっ、ごめん。気にしないで。朱が突然色っぽい声と表情になったから、びっくりしちゃって」

「……え?」

 私が? 対して顔も綺麗じゃないし、胸やスタイルも平均並みの私が? 柊さんの方が何百倍も色気があるのに? 私は柊さんの言っている意味がよく分からなかった。でも、嫌な気分は微塵もしなかったどころか、むしろ嬉しかった。

「……! ごめん! さっきの発言はちょっと気持ち悪かったよね⁉ ごめん、嫌な気分になったら訂正する」

「いや、気持ち悪いなんて全然! ……確かに困惑したけど、そもそも柊さんにドキドキしてもらう為にこの水着を買ったので、その成果がちょっとは出たのかな? と思ってちょっと嬉しかったです」

「そう……? なら、良かった。でも」

「?」

 突然柊さんが私の右手首をぐい、と自分の方へ引き寄せ、私の耳元に柊さんの顔が一瞬で近づいた。周りの騒音が一瞬で二人だけの静寂に包まれた。

「……さっきまでの言葉と表情、絶対僕以外の誰にも見せないで」

「⁉ ……はい」

 それは、今までに聞いたことの無い程『男の人』の声だった。いつもの爽やかで落ち着いた大人の声とは比べ物にならない程、低く、独占欲に満ちた声だった。そのまま柊さんはゆっくりと私から身を離し、柊さんに代わって、いやそれ以上に顔を限界まで真っ赤にし、その場から微動だにしない私にそっと手を伸ばした。

「……じゃあ、まずは海の家で受付をしてもらわないとね」

「あ、そうですね! 受付ですね! 行きましょう!」

 慌てて私はその手を握り、再び恋人つなぎにして海の家へ向かった。もう、どうしてこんなにもこの人は私をかき乱すのだろう。かき乱すだけかき乱して、何事も無かったように去っていく。でも、それが私には今では快感へと変わっていた。もっと貴方だけに乱して欲しい。私だけに違う貴方を見せて欲しい。そう、例えばあの日見た夢のように……。


 海の家で受付を終え、パラソルとレジャーシートを貸してもらった私たちは、砂浜からもシャワー室からも近い、丁度いい場所を見つけ、そこに場所を取ることにした。一通り場所取りを終えた後、私は背中に日焼け止めを塗っていなかったことをお見出し、バッグから日焼け止めを取り出した。

「柊さん」

「ん?」

「私、実はさっき背中の部分だけ日焼け止めが上手く塗れなくて……。よかったら、柊さんに塗ってほしいんですけど、いいですか?」

「あぁ、いいよ。そうだ。じゃぁ、終わった後僕の背中も塗ってもらっていいかな?」

「いいですよ! じゃあ、早速お願いします」

 私は日焼け止めの蓋を開けた状態にし、柊さんにそれを渡した。

「あ、そうだ。これ脱がないと。ちょっと待って下さいね」

「? うん、分かった」

私は柊さんに背を向けると、両腕を交差させてサロペットの裾を持ち、ぐい、と上に持ち上げて脱ぎ、上半身だけビキニ姿になった。その時、背後から唾を飲み込む音が微かに聞こえた気がしたけど、きっと気のせいだろうと思い、スルーした。この姿だときっと柊さんも私の背中に日焼け止めを塗りやすいよね、きっと。

「じゃあ、お願いしまーす」

「……あ、あぁ。分かった。じゃあ、肩の辺りから塗っていくね」

どこか曖昧な返事をした柊さんは、日焼け止めを手に出すと、もう片方の手で私の肩甲骨辺りから丁寧に塗り始めた。柊さんのサラサラとしながら、どこか男の人特有のゴツゴツと骨張った指が私の背中を撫でた。

柊さんの手が私の腰辺りに日焼け止めを塗った時、何かゾワッとした感覚に襲われ、思わず「ひゃっ」と、今までに出したことが無いような『女の人』の声を出してしまった。今の声って、本当に私? 今まで他の人に同じ場所を触られても擽ったいだけで変な感じはしなかったのに。ましてや、さっきみたいな変な声なんて絶対出なかったのに。柊さんはただ日焼け止めを私に塗ってくれていただけで、何も変わったことはしていないはず。なのに、なんで私はこんなおかしな反応をしてしまったのだろう。私の頭は混乱し、顔を赤くした。

「……よし、これで一通り塗り終えたかな。……朱? どうした?」

こんなタイミングで柊さんは、よりにもよって私の耳元で低く、品のあるいつもの良い声で私に聞いた。まるで追い討ちをかけるかのような柊さんの攻撃に、私は今度は耳も赤くする羽目になってしまった。

「……‼ な、何でも無いです! 続き、お願いします!」

「そう? すごく耳が赤くなっているけど……。まぁ、いいや。じゃあ、次は僕の背中お願いします」

はい、と言って、柊さんは蓋を開けたままの状態で私に日焼け止めを渡し、今度は柊さんが私にくるりと背中を向けた。柊さんの上半身裸の状態で背中を眺めるのは、生まれて初めてだった。

柊さんの背中は、背筋や肩の筋肉のラインが綺麗で、写真集を出せるんじゃないかと思ってしまう程だった。とても四十代の身体とは思えない程の仕上がりの良さで、私は再び胸の鼓動を速めた。

「じゃあ、背中塗っていきますね」

「うん、お願いします」

柊さんが優しく頷いたのを確認してから、私は右手の甲に日焼け止めを少量取り出した。反対の手でそれを掬い、首、肩、背中の右側、中央、左側、腰へとだんだん下がりながらじっくりと、まるで柊さんの身体の一つ一つを噛み締めるように塗っていった。柊さんの肌は滑らかで、するすると日焼け止めが柊さんの背中に少しずつ染み込んでいく感触が心地よかった。私に背中を向けている柊さんがどんな反応をしているのかは、正確には分からないけれど、リラックスしている様子が背中越しに伝わり、私は嬉しくなった。

「終わりました!」

「ありがとう。すごく丁寧に塗ってくれたね」

「はい! 柊さんの身体がとてもすべすべしていたので、日焼け止めがすぐに柊さんの肌に馴染んでとても塗りやすかったです!」

柊さんは私の方に身体の正面を向けると、蓋を閉めた後私に日焼け止めを渡した。私はそれを受け取り、バッグにしまった。

「じゃあ、全て準備が終わったし、海に入ろうか」

「はい! いよいよですね! 海に入るなんて私、高校の修学旅行以来です!」

「……そっか。朱はまだ高校卒業したばっかりだもんね」

 柊さんは何か現実に直面したような声で呟いた。目の前に広がる青い海は、太陽の光に反射してどこまでもキラキラと眩しかった。

「柊さん! 早く行きましょう! ほら!」

「えっ、わっ、朱、待って」

 早く目の前のキラキラした世界に一緒に行きたくて、私は立ち上がって柊さんの右腕を掴み、そのまま二人とも裸足のまま駆け出した。たまに砂浜に混じる小さな小枝や小さな貝殻の刺激さえ今は心地よかった。今日はここには人が少ないから、少しくらいはしゃいでいたって構わない。どうせなら、この機会に柊さんと思いっきりイチャイチャしてやろう。チラリと柊さんの様子を見ると、私に引っ張られた時は少し驚いていたものの、目の前に広がる景色を見て、今の私と同じようにワクワクした気持ちでいっぱいになっていた。

「すごいね! やっぱりここの海は綺麗だ!」

「ですね! これ、入ったら絶対気持ちいいですよ! ほら、あと少し!」

 そこには、もう私たちには楽しい景色しか広がっていなかった。


 「うわー! 冷たい! 気持ち良い!」

私たちは二人同時に海に入った。足元に触れた丁度いい海水の冷たさが、今日の暑い気温には適していた。久しぶりに入った海の感触が面白くて、私は子供のように声を出して笑った。

「うん! やっぱり海ってテンション上がるね!」

「どうせならもうちょっと遠くまで行きましょう! ほら! 多分あそこら辺までなら足付きますよ!」

 そう言って私は、今立っている位置から二十メートル前方を指さした。どうせなら、今日は久しぶりに平泳ぎでもして、思いっきり泳いでやろう。

「あぁ、あの辺ね。あそこまでなら浮き輪無しでも余裕で足が付くね。よし、行こうか」

「はい!」

「じゃあ、朱、もしものことがあったら危ないから、手を繋いで」

 柊さんはスッと左手を差した。いつでも紳士な振る舞いを忘れない柊さんの行動に私はテンションが上がり、その手を握っただけでは足りなくなり、思いっきり柊さんの左腕に抱き着いた。抱き着いた瞬間、柊さんは見たこともない速さでこちらを見たけど、今はそんなことがどうでも良くなる程幸せな気持ちでいっぱいだった。

「⁉」

「へへ……。一回こういうことしたかったんだ……」

「可愛いなぁ、もう……」

 私のにやけ切った顔を見て観念したのか、柊さんは微笑みながら私の頭を優しく撫で、私たちは手を繋いだまま歩き出した。ゆっくりと歩みを進めていく程、海の青さはどんどん深まっていき、このまま海の先に柊さんと一緒に吸い込まれていくんじゃないかと思った。このどこまでも青くて、キラキラした海の先には一体どんな世界が広がっているんだろう。その先は、暗い場所なのか、誰もたどり着いたことが無い小さな無人島なのか。もし、二人で歩いて辿り着いた先が、小さな無人島だったら、そこを二人だけの世界として、ずっと柊さんと暮らすのも悪くないな、と思った。柊さんとなら、どこに行ったって大丈夫。傍にいてこんなにも楽しくて、愛しくて、ずっと好きな人は柊さんしかいなくて、だから、私はもう柊さんに全て授けたって―――

「朱!」

 その時、私の身体はいきなり海の深みに引きずりこまれそうになった。咄嗟に柊さんが、血相を変えて繋いでいた手を思いっきり自分の方へと引き上げ、私を抱き留めた。一瞬のことで何が何か分からなかった私は、ただ大人しく柊さんに抱きしめられていた。

「大丈夫⁉」

「……はい。すみません。ちょっとぼんやりと考え事をしてたから、深くなったことに気づかなくて」

「そうだったんだ。いきなり朱の身体が傾いたから、焦ったよ。……よかった、本当に」

 その言葉を聞いて、私はハッとした。そうだ。この人は一回大切な人が離れていった過去があるんだった。だから、私がさっき溺れかけた時に一瞬絶望を見たような表情をしたんだ。あの話を聞いた時から、絶対柊さんを不安にさせないって誓ったのに、早速不安にさせてしまった。今だって、ホッとした様子と同時に、泣きそうな表情をしている。

 私は無意識に柊さんの首に両腕を回し、抱きしめ返した。一瞬、柊さんの身体が強張った。

「……心配させてごめんなさい。でも、私はそう簡単に柊さんから離れません。だから、安心してください」

「……ありがとう、朱」

 絞り出すような声で柊さんが私に呟いた。その声は、どこか心の底から安心したような声に聞こえた。

 絞り出すような声で柊さんが私に呟いた。その声は、どこか心の底から安心したような声に聞こえた。そして、大事に包み込むように私を抱き締める力を強めた。

暫くその場で抱き合った後、私達は同時に顔を上げ、見つめ合った。柊さんに抱き上げられた状態の私は、柊さんと同じ目線になっていた。今ならそれぞれの心の奥まで見透かせるような気がした。

沈黙が流れる。柊さんがゆっくりと私の額に自身の額をコツン、と合わせた。額と額が重なる。額を重ねていても、互いに視線は外さず、ただジッと互いに何かを確認し合うように視線を重ねていた。そして、互いに瞳を閉じてゆっくりとキスをした。一度長いキスをしては離し、次第に軽いキスや、互いの唇を甘噛みしながら、互いの感触を確認し合った。青くて広いこの海に私達二人だけがいる世界が堪らなく愛おしかった。

一通り堪能し、互いに静かに唇を離した。深いキスは一度もしていないのに、私の体温は上昇し、身体の奥から甘い痺れの感覚が微かに残った。柊さんは少し息が上がり、瞳を軽く細めながら潤み、頬は軽く赤に色づき、少し海水に濡れた唇は半開きになっていた。その様子が酷く魅惑的で、思わず見とれてしまった。

「……一回降ろしていい?」

柊さんが耳元で囁いた。そうだ、柊さんはかれこれ三十分程私を抱き上げたまま。そりゃそろそろ腕も限界だろう。

「すみません! 長い時間抱き上げさせてしまいましたね」

「いや、朱は軽いから全然大丈夫だよ。……じゃあ、降ろすよ?」

「はい」

柊さんは、慎重に私を降ろし、私は今度は足元に気をつけながら、あまり深くない位置へと立ち、一度海岸辺りを見渡すと、海岸には人がパラパラといた。と同時に、ここは二人だけの世界じゃないことを思い出した。幸い、今いる私達の近くには誰もいないけど、もしかしたらさっきまでの様子を海岸から誰かが見ていたかもしれない。自分達が恥ずかしいことをしていたことにようやく気づき、今すぐ逃げるように沖へと泳ぎたい気持ちでいっぱいだった。

「……私達、さっきまで結構大胆なことを……!」

「ん? ……ハハッ、確かにちょっとイチャイチャしすぎたかもなー。でも、ここは海水浴場の端の方だから人目にあまり付きにくいから大丈夫だよ」

「何の根拠があって……! 今だって海岸にチラホラ人がいるし……!」

私の心は羞恥と後悔でいっぱいになり、八つ当たりのように柊さんの肩をバンバン叩いた。しかし、私の弱すぎるパンチが柊さんに効くはずが無く、慌てる私の様子を見て楽しそうに笑ってポンポン、と優しく私の頭を叩くだけだった。

「まぁ、たまにはいいじゃないか、こういうのも。ほら、そろそろお腹が空いてきたし、一度戻ろう」

「……わかりました。戻る時は、手を繋ぐだけですからね?」

「手はしっかり繋ぐんだ」

「……もう! 早く行きますよ!」

柊さんはまた声を出して笑った。とにかく早くこの場から去りたい私は、若干ムッとしながら、柊さんの手を握り、海の中をジャブジャブと大股で歩き出した。さっきの熱いキスや視線を思い出す度に、恥ずかしさで死にそうになり、その度に歩く速度を速めた。明らかに動揺している私の様子に、柊さんは呆れ笑いをしながらも、何も言わずに私を見守りながら横に並んで歩いた。


続く

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菫色の恍惚 砂糖リリィ @twinloveit

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