忘れられないアジフライ 2

 砂浜から階段を上って、国道に出た。駅から電車には乗らず、ゲンちゃんはすたすた歩いていく。まるでこのあたりをよく知っているみたいに。

 いくつかの信号を通り過ぎ、何本かの電車に追い越され、海に沿って歩いていくと、お店のようなものが見えてきた。オシャレなカフェやレストランもある。だけどゲンちゃんはそれらを素通りして、小さな定食屋さんを指さした。

「あそこの店で飯食おう」

 あたしの意見を聞かないまま、ゲンちゃんはその店の扉を開ける。

「いらっしゃいませー……あら? あんたゲンちゃんじゃない?」

「どうも。ご無沙汰してます」

 ゲンちゃんがお店のおばさんに挨拶した。あたしはその後ろできょとんとしている。ゲンちゃん、このお店を知っているんだ。

「ちょっとあんたー! ゲンちゃんが来たよー」

 おばさんはお店の奥に声をかけてから、あたしとゲンちゃんの顔を見比べる。

「今日はどうしたの? かわいい子連れて。デート?」

「まさか。姪っ子ですよ、俺の」

 ゲンちゃんがそう言ってから、あたしのほうを向いて説明する。

「俺、小学生になる前、このへんに住んでて……ここのおばさんとおじさんには、すっごい世話になったんだよ」

「え、そうだったんだ」

 ゲンちゃんがこんな海のそばに住んでいたなんて……ていうことは、ママも昔このあたりに住んでいたのか。


「あ、こいつ、野々山彩葉っていうんです」

 ゲンちゃんの声に、おばさんがあたしを見てにっこりと笑った。

「はじめまして、彩葉ちゃん」

「は、はじめまして」

 戸惑いながら挨拶すると、店の奥から板前さんみたいなおじさんが出てきた。

「おっ、ゲンじゃないか。めずらしいな、お前」

「どうも」

「あんたー、この子、ゲンちゃんの姪っ子さんなんだって」

 あたしがあわてて頭を下げると、おじさんはわははっと笑って「こりゃ、べっぴんさんだな」って言った。あたしはちょっと恥ずかしくなる。

「ゲン、久しぶりに、アレ食ってくか?」

「はい」

「お嬢ちゃんも同じでいいかな?」

「あー、こいつも同じで」

 ゲンちゃんはまたあたしに聞きもしないで勝手に注文している。

「じゃあ、ゆっくりしてきな」

「ありがとうございます」

 いつもふてぶてしい態度のゲンちゃんが、礼儀正しくそう言った。きっと本当にお世話になった人たちなんだろう。


 中途半端な時間だからか、お店の中は空いていた。おばさんに勧められて、あたしたちは窓際の席に座らせてもらう。大きな窓からは、広くて青い海が見えた。

「俺の母親、昔から体が弱くてさ。あんまり料理とか作れなかったから、腹が減るとひとりでよくここにきて、飯食わせてもらってたんだ」

 ゲンちゃんは頬杖をついて、窓の外を眺めながらそう言った。

「小学生になったころ、ナナんちのそばに引っ越したんだけど。時々無性にここの定食が食いたくなって、中学生くらいからは自転車こいで来たりしてた」

「えー、自転車で?」

 かなり、いや、恐ろしく遠いと思う。あ、でも湊斗とかだったら、やっぱりやりそうだ。

「電車に乗る金、なかったからさ」

 それでも来たかった場所なんだ。ゲンちゃんにとってこのお店は。

「高校出てからはあんまり来れなくなったけど……彩葉を一度連れてきたくて……」

「うん」

 うなずいたあたしの前に、おばさんがお盆にのったお料理を運んできた。

「はい、おまちどう。ゲンちゃんの好きなアジフライ定食。揚げたてだよ」

「うっわー、おいしそう」

 思わず声を上げたら、おばさんが「おかわりしてもいいからね」と笑った。


 お皿の上には、分厚いアジフライが三つ、大盛りのキャベツと一緒にのっている。それからやっぱり大盛りのご飯とあったかいお味噌汁。

 見ているだけで、お腹がぐうーっと鳴ってくる。

「このアジフライ、めっちゃうまいから。食ってみ?」

「うん! いただきます!」

 あたしはアジアフライを口に入れる。サクッとかじると、中はふわふわでとろけるような食感。それからアジのうまみがじゅわーっと口の中に広がった。

 うわ、おいしーい!

「お前、顔、ゆるみすぎ」

「だっておいしいんだもん」

「だろ? ここのアジフライは日本一だから」

 ゲンちゃんが自慢げに言って、大きな口を開けアジフライをかじる。

 きっとゲンちゃんのアジフライは、懐かしい思い出もスパイスになって、さらにおいしくなってるんじゃないかなぁ……。


 アジを三枚食べて、キャベツもご飯も味噌汁も全部食べたら、お腹いっぱいになった。ゲンちゃんはご飯をおかわりしていた。普段あんまり食事に興味なさそうなゲンちゃんが、すごい食欲だ。

「はー、うまかったぁ」

「お腹いっぱいだねー」

 ゲンちゃんの言う通り、本当においしいアジフライだった。

 ふたりで満足しながら外を見る。ゆらゆらと揺れる海は、ほんのりと夕方の色に染まり始めている。

「……帰るか」

「うん」

 ゲンちゃんが立ち上がったから、あたしも立ち上がった。


 おばさんに「ごちそうさまでした」と言ってゲンちゃんがお金を払おうとしたら、「いいよいいよ」と断られた。

「でもそういうわけには……」

「ほんとにいいんだよ。ゲンちゃんが来てくれて、おばちゃんもおじちゃんも嬉しかったからさ」

 そう言っておばさんはあたしを見る。

「それに彩葉ちゃんにも会えたし」

 あたしはちょっと照れくさくなって、肩をすくめる。おばさんはいたずらっぽく笑ってあたしに言う。

「ゲンちゃんはね、小さいころは本当にひょろひょろで、この子ちゃんとご飯食べてるのかしらって心配になるくらいだったんだよ」

 その言葉を聞いて、あたしも小さかったころを思い出す。

 ゲンちゃんに初めて会った日、あたしは本当に小さくて細くて、ゲンちゃんにひょいっと抱き上げられた。そしてゲンちゃんは言ったんだ。「お前、ちゃんと飯食ってる?」って。


「それに泣き虫で、しょっちゅうびーびー泣いてたしねぇ」

「おばちゃん、もういいから」

 ゲンちゃんがあわてておばさんを止める。

「へぇー、いまはいっつもえらそうにしてるのに」

 あたしが言うと、おばさんが笑った。

「そうなの? 学生のころも、嫌なことがあるとわざわざこんなところまで逃げてきて……」

「もういいから!」

 ゲンちゃんが怒鳴って、はっと口をふさいでいる。周りで食事しているお客さんがちらちらとこっちを見る。けれどおばさんは、お客さんの視線なんておかまいなしでゲンちゃんに言う。

「でもおばちゃんは安心したよ。ゲンちゃんがこんなに立派になって」

 おばさんは嬉しそうに目を細め、ゲンちゃんの肩をぽんぽんっと叩いた。

 あたしはちらっとゲンちゃんの顔を見る。ゲンちゃんはなにも言わずにちょっと唇をかんでから、おばさんの前で頭を下げた。

「今日は……ごちそうさまでした」

「ああ、またおいでね」

 それからゲンちゃんは、店の奥に向かって叫ぶ。

「おじちゃーん! ごちそうさま!」

「おう! また腹が減ったらいつでも来な!」

 奥から顔を出したおじさんが、笑って片手を上げた。

 あたしも挨拶をして、ゲンちゃんと一緒に外へ出た。

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