忘れられないアジフライ 1
その日は朝から良い天気だった。日差しはぽかぽかとあたたかく、あたしはミルクを膝にのせ、こたつの上に顔を伏せてうたたねしていた。
「おい、起きろよ」
昨日からずっとパソコンの前に座っていたゲンちゃんが、あたしの頭をこつんと叩く。
「んー……ゲンちゃん、仕事終わったの?」
「ああ、なんとか締め切りセーフ」
「おめでと」
最近ゲンちゃんはイラストの仕事をけっこうもらえているらしく、コンビニのバイトを減らしている。よかった。もっともっとゲンちゃんの絵をみんなに見てもらえて、仕事が増えればあたしも嬉しい。
すると台所へ行ったゲンちゃんが、冷蔵庫から缶コーヒーを取り出しながら突然言った。
「お前、今日ヒマだよな?」
「ヒマだけど……買いものはゲンちゃんの番だよ」
「そうじゃなくて。ちょっと付き合えよ」
「え、どこに?」
「海」
うみ? ゲンちゃんの口からありえない言葉が飛び出して、あたしは瞬きを繰り返す。
うみって……あの「海」で合ってるよね?
「なんで、海? なんでゲンちゃんと?」
「いいから早く支度しろよ。あ、泳ぐわけじゃねぇから、水着はいらないぞ?」
「あったりまえでしょ! バカ!」
そう言いながら、あたしはなんだかそわそわしていた。
電車に何回か乗り換えて、海沿いを走る小さな電車に乗った。テレビでよく見るやつだ。少し走ると窓の外に青い海が見えてきた。
「わぁ、ゲンちゃん、海が見えたよ!」
「はしゃぐなよ。海に行くんだから海が見えるに決まってるだろ」
ゲンちゃんはいつもと変わらない。でもどうして海に行こうなんて言ったんだろう。だいたい引きこもりのゲンちゃんから、出かけようって誘われたことがびっくりなんだけど。
少し電車に揺られたあと、ゲンちゃんが「降りるぞ」って言った。あたしは黙ってゲンちゃんのあとについていく。
降りた小さな駅の前は、やっぱり海が広がっていた。
道路を渡って階段を降り、ゲンちゃんと一緒に砂浜に出た。午後になり気温はぐんぐん上がっていたけど、海風はまだちょっと冷たい。あたしは伸びかけの髪を手で押さえながら、見慣れない景色に目を細める。
三月の海は日差しを浴びて、きらきらと輝いていた。浜辺を歩く人影はまばらで、寄せては返す波の音が耳に心地よく響く。
「水、まだ冷たいかな」
「冷たいだろ」
あたしは波打ち際まで走って、手で水に触れてみた。思ったより冷たくはなくて、それを伝えようと後ろにいるゲンちゃんに振り返る。
「ゲンちゃん……」
だけどゲンちゃんはあたしを見ていなかった。ただぼうっと海をながめていた。いつも空をながめているときと同じように、今日は海をぼうっと見ていた。
あたしの足元に波が来た。最近少しきつくなってきた白いスニーカーに、じんわりと水が染み込む。あたしは黙って立ち上がり、ゲンちゃんのところへ戻った。
「やっぱりまだ冷たかった」
「だから言ったろ」
ゲンちゃんがちらっとあたしを見る。あたしはゲンちゃんの隣に並んでつぶやく。
「どうしてここに来たの?」
ゲンちゃんは少し黙ったあと、ぼそっと口を開いた。
「この前お前、聞いただろ? 俺の親のこと」
「あ……うん」
あたしの知らないおじいちゃんとおばあちゃんのこと。
「今日、お前のばあちゃんの命日なんだよ」
「え、知らなかった……」
だっていままでそんな話、ゲンちゃんは一度もしてくれなかったから。
「そういえばあたし、おじいちゃんとおばあちゃんのお墓参りに行ったことないよ?」
「だって墓なんてないから」
「えっ、そうなの?」
「骨は海に撒いたんだよ。散骨ってやつ?」
ああ、なんかそれ、聞いたことある。亡くなった人を火葬したあと、遺骨を粉のようにして海や山に撒くって……。
「うちの親、けっこう斬新だろ?」
斬新っていうのかな、そういうの。
あたしが黙っていたら、ゲンちゃんがふっと笑った。
「だからこの海のどこかにいるんだよ。お前のじいちゃんもばあちゃんも」
なんだかあたしにはピンとこなかったけど、あたしの知らないおじいちゃんとおばあちゃんは、ゲンちゃんのお父さんとお母さんで、あたしのママの両親でもあるんだ。
しばらくゲンちゃんと並んで立って、海をながめていた。あたしはゲンちゃんの隣で、少しだけママのことを思い出していた。
「あ、俺が死んだらさ」
突然ゲンちゃんがあたしに言う。
「俺の骨も海に撒いちゃっていいよ」
「えっ」
あたしは顔をしかめて隣のゲンちゃんを見上げる。
「どうしてそんなこと言うのよ」
「だって俺もお前も、いつかは死ぬだろ?」
「そうだけどさ……」
そんなのはあたしにとって、まだまだずっと遠い先の話で……今まで考えたこともなかった。
「でもなんであたしなの?」
「俺の家族はお前しかいないから」
あたしの胸がきゅっと痛んだ。でもすぐにあたしは言い返す。
「そんなことないでしょ? ゲンちゃんだっていつか結婚するかもしれないし、そうしたら奥さんができて、子どもも生まれるかもしれないじゃん」
「それは……たぶんない」
「どうしてよ?」
ゲンちゃんはあたしのほうを見ないまま、小さく笑って言った。
「どうしても」
ゲンちゃんの声と一緒に、波の音が聞こえた。なんだかあたしは寂しくなる。
「意味わかんない」
「わかんなくていいよ。お前は」
「なにそれ! 子ども扱いしないでよね!」
「だって子どもだろ」
ゲンちゃんが笑って、そして腕をさすりながら背中を向ける。
「帰ろ。やっぱ寒いわ」
「えー? もう帰るの?」
「腹減ったから、なんか食いにいこう」
「なにそれー」
ゲンちゃんがさくさくと砂の上を歩いていく。さくさく、さくさく……
なんだか雪の上を歩いたあの日みたい。
あたしはゲンちゃんに抱っこされたまま、その音を聞いていたんだ。
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