おとなのラーメン 2

 ナナちゃんのお店を出て、駅に向かって歩く。

 空はさっきよりも雲が厚くなっていて、いまにも雨が落ちてきそうだった。ゲンちゃんの手には、「途中で降ってきたら困るから」とナナちゃんが貸してくれた傘がぶら下がっている。

「よかったね、ナナちゃん。もしかして男の格好させられてたらどうしようと思ったけど、ナナちゃんはナナちゃんのままだった」

 あたしが言っても、ゲンちゃんはなにも言わない。

「あ、わかった」

 あたしはそんなゲンちゃんに言う。

「ゲンちゃん悔しいんでしょ。ナナちゃんが生き生き働いてて」

「あ?」

 わざと挑発してみたら、思った通り、ゲンちゃんが不機嫌な顔をこっちに向けた。本当にゲンちゃんは単純だ。

「もうゲンちゃんがいなくても、ナナちゃんは大丈夫みたいだもんね。ヒーローの出番はなくなっちゃったね」

「お前なぁ……」

 低い声でそこまで言って、ゲンちゃんは白い息をはぁっと灰色の空に向かってはき出した。

「まぁ、いいや」

「なにがいいの?」

「お前の言う通りでいいよ」

 よくわからないけど、ゲンちゃんは言い返せないってことなんだろう。

「あいつが泣いてないなら、それでいいよ」

 ゲンちゃんの声が、あたしの胸に沁み込んでいく。


 しばらく無言のまま、ふたりで歩いた。天気が悪いせいか、そんなに遅い時間じゃないのに、あたりはもう薄暗くなっていた。だけど真冬のような寒さはない。

 街にあたたかい灯りが、ぽつぽつと灯り始める。小学生くらいの男の子がふたり、ふざけ合いながら家への道を急いでいた。

「ゲンちゃんも……」

 あたしはふと思ったことを口にする。

「昔はナナちゃんみたいに、お父さんやお母さんと喧嘩したりしてたの?」

 ゲンちゃんとあたしのママの両親、つまりあたしのおじいちゃんとおばあちゃんはもうこの世にいない。おばあちゃんはあたしが生まれる前に、おじいちゃんはあたしが小さいころに亡くなってしまった。だからあたしはおばあちゃんのことを全然知らなくて、おじいちゃんのことは最後のお葬式くらいしか記憶がない。

「俺の母親は……しょっちゅう泣いてたよ。俺がしょうもない息子だったから」

 あたしはそっと、隣を歩くゲンちゃんの横顔を見上げる。

「でも俺の描いた絵だけは褒めてくれた」

「ゲンちゃん、絵うまいもんね」

 あたしがそう言って笑ったら、ゲンちゃんもちょっとだけ笑った。

「母親の思い出なんか、そのくらいだよ。父親はあんまり俺に興味ないみたいだったし。まぁふたりとも、わりと早く死んじゃったしな」

 ゲンちゃんは、なんとなく人ごとみたいに家族の話をする。

 でもそれが普通なのか、普通じゃないのか、あたしにはよくわからない。

 あたしは普通の家庭がどんななのか知らないから。


「彩葉は……」

 ゲンちゃんが前を向いたまま、つぶやいた。

「ママのこと……どう思ってた?」

 あたしは小さく息をはく。白い息が夜のはじまりの空気に溶けていく。

 ゲンちゃんがあたしに、ママの話をしてくることはあんまりない。

 冗談っぽく「あんな女」なんて言うことはあるけれど。

「あたしは……」

 過去を遠くまでさかのぼる。閉じ込めていた、あの雪の日より前の記憶を無理やり掘り起こす。

「ママのこと……いつも待ってた」

 あの寒くて薄暗い部屋の中で。毎日毎晩……。

「ほんとはそばにいて欲しかったけど、わがまま言ったら捨てられちゃう気がずっとしてた。だからママに嫌われないように、いい子ぶって無理やり笑って……でも心の中はいつもビクビクしてて……すごく怖かった」

 体がひんやりと冷たくなる。待っても待ってもママが帰ってこなかった、あの夜を思い出す。

「それでも……結局捨てられちゃったけど」

 あたしはその場に立ち止まり、ゲンちゃんを見上げた。そしてあのころみたいに、ぎこちなく笑う。そんなあたしの額に、ぽつんと生ぬるいものが当たった。


「バカだな」

 ゲンちゃんがつぶやく。

「俺の前でまで、無理やり笑わなくていいのに」

 ゲンちゃんの指先があたしの額に触れて、雨のしずくを拭った。そして持っていた傘を開き、あたしに差しかけてくれた。

「嫌なこと思い出させて……ごめん」

 あたしは首を横に振る。

「大丈夫だよ」

 降り始めたあたたかい雨が、傘を叩く。

「いまはもう……怖くないから」

 ゲンちゃんがあたしと一緒にいてくれるから……だからいまは怖くなんかない。

 傘の中であたしを見つめるゲンちゃんが、ふっと口元をゆるめる。あたしはもう一度、本当の笑顔を見せる。


「あっれー?」

 そんなあたしたちの耳に、突然その声は響いてきた。

「彩葉と師匠じゃん。こんなところでなにやってんすか?」

 あたしはびっくりして声のほうを見る。傘を差して駆け寄ってくるのは湊斗だった。

 湊斗とはあの衝撃の告白のあとも、普通に仲良くしていた。あたしはちょっと気まずかったけど、湊斗がいつもみたいにからかってくるので、何事もなかったかのように過ごしている。

 だけどあの日湊斗が、顔を赤くしながら言ってくれた言葉を、あたしは一生忘れないと思う。

 湊斗があたしたちの前に来ると、ゲンちゃんはまためんどくさそうな顔をした。

 でもこのふたり、時々連絡を取りあって、あたしに秘密の相談をしたりしているんだ。意外と仲がいいのかも。

「なんかカップルがいちゃついてんなーって思ったら、このふたりなんだもん」

「カップルじゃないし!」

 あたしとゲンちゃんの声がハモった。サイアクだ。

「そんなムキにならなくてもいいのに。余計あやしいぞ?」

「うるさい! あんたこそこんなところでなにしてんのよ!」

「俺はこれから塾」

 湊斗が駅前にあるビルの看板を指さす。そこには大手の進学塾の名前が書いてあった。

「こんなところまで、電車で通ってるの?」

「ああ、同じクラスのやつも何人かいるよ」

 湊斗はあたしの前で歯を見せて笑う。

「そんじゃ、また!」

「うん、がんばってね」

「おう!」

 湊斗はゲンちゃんにも「師匠、さよなら!」と声をかけ、雨の中を走って行ってしまった。あたしは黙ってその背中を見送る。


「休みの日も夜まで勉強かよ。中学生も大変だな」

「普通の子は、だいたいみんなあんな感じだよ」

 あ、今の、あたしが羨ましがってるみたいに聞こえたかな? そんなつもりは全然ないのに。

 傘の中でちらりとゲンちゃんを見上げる。ゲンちゃんはにっと笑ってあたしに言う。

「じゃあ普通じゃない俺たちは……飯でも食いに行くか」

「えっ、外食? やったー! なに食べる? ステーキ? お寿司?」

 あたしは傘の中でぴょんぴょん跳ねる。ゲンちゃんがあたしのジャンプに合わせ、傘を高く上げる。

「俺はやっぱラーメンだな」

「え、なんでそこでラーメン来る? そこはステーキでしょ?」

「俺はいま、ラーメンが食いたい気分なんだよ。ものすごーくな!」

 ゲンちゃんが「ものすごーく」を強調して言う。ほんとに大人げないな、この人。

 ひとつの狭い傘の中、ゲンちゃんと言い合いながら歩く。ふたりでしゃべっていると、雨の音も聞こえなくなる。ゲンちゃんといれば、つめたい雨もあたたかくなる。

「じゃあ、じゃんけんで決めようぜ。勝ったほうがなに食うか選べる」

「オッケー。勝負!」

 三回あいこが続いたあと、あたしが勝った。ゲンちゃんがわかりやすく落ち込んで、あたしは「ラーメン」を選んだ。

 あたしはゲンちゃんより大人なのだ。

 ふたりで食べたラーメンは、ものすごーくおいしかった。

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