ミルクいろの朝

 その日、いつものようにゲンちゃんと向かい合って夕飯を食べているとき、それが来た。

「え……」

 あたしの中のセンサーが、異常を知らせる。

「ゲンちゃん……」

 ゲンちゃんは焼き魚の骨を取るのに夢中だ。絶対気づいていない。

 あたしは危険を察して立ち上がる。次の瞬間、床がぐらっと揺れた。

「きゃあー!」

 あたしは夕飯の並んだこたつを飛び越えて、ゲンちゃんに抱きついた。あんまり勢いよく飛びかかったからゲンちゃんが畳の上に倒れて、あたしが覆いかぶさる格好になった。

「な、なんだ?」

「じ、地震!」

 周りの棚やテレビや蛍光灯がカタカタ揺れて、あたしはぎゅうっとゲンちゃんにしがみついた。

「こわい!」

 心臓がものすごく速く動いている。痛いほど強く目を閉じて、地震よ、止まれ止まれ止まれって、心の中で呪文みたいに唱えまくる。


「彩葉」

 そんなあたしの背中をゲンちゃんがぽんぽんっと叩いた。

「もうおさまった。揺れてない」

 あたしがそうっと目を開くと、すぐ目の前にゲンちゃんの顔が見えた。

「震度2」

 ゲンちゃんが言う。

「う、うそだ。4はあった」

「そんなに大きくねぇよ」

 あたしの体をゲンちゃんが無理やり引き離し、起き上がる。

「あーあー、味噌汁こぼしやがって」

 こたつの上はあたしが揺らしたせいでぐちゃぐちゃになっていて、ゲンちゃんが布巾で拭いている。

「だって……怖かったんだもん」

 あたしが消えそうな声でつぶやくと、ゲンちゃんはこぼれたご飯をつまんで口に入れながら、「いいよ」と小さく言った。


 あたしは地震が嫌いだ。というかすごく怖い。まぁ、好きな人はいないと思うけど。

 まだママと暮らしているころ、ひとりで留守番をしているときに、ちょっと大きな地震があった。あたしはテーブルの下に隠れながら震えていた。家中のものが揺れて、棚から物が落ちてきて、このまま一生揺れているんじゃないかって思った。

「ママ……」

 あたしはそう口にしたと思う。このときほど、ママに助けを求めた瞬間はない。

 でもママはちっとも帰ってこなくて、帰ってきても地震のことなんか一言も口に出さなかった。あたしも怖かったことをママに言えなくて、地震のことは胸の奥に閉じ込めた。

 だけどそれがトラウマになり、いまでもかすかな揺れでさえ恐怖を感じてしまうのだ。


 その日はお風呂に入るときも、いま揺れたらどうしようってびくびくしていた。部屋に戻って電気を消し布団に入ってからも、なかなか眠れなかった。

 そのときまた、ほんのかすかな異変を感じた。

「地震っ」

 あたしは布団から飛び起きた。同時に天井からぶら下がった蛍光灯や机の横の本棚がまた揺れ始める。

 あたしは部屋から飛び出した。そして隣の部屋に続いているふすまを開け、眠っているゲンちゃんの布団にもぐりこんだ。

「あ? なんだぁ?」

「また地震!」

 布団の中で目を閉じて体を丸める。自分の体が震えているのがわかる。

「揺れてたか?」

「ゆ、揺れてたよ」

「あいかわらず敏感だなぁ、お前のセンサー」

 ゲンちゃんはあたしが地震苦手だって知っている。

「また来たらどうしよう……」

 布団の中でもごもごとつぶやく。

「もう来ねぇよ」

「来るかもしれないじゃん」

「大丈夫だって」

「なんで大丈夫って言い切れるの?」

 するとあたしの耳にゲンちゃんの声が聞こえた。

「俺が大丈夫って言ったら大丈夫なんだよ」

 あたしはこの家に来たばかりのころを思い出す。あたしがなにかに不安になってゲンちゃんの布団にもぐりこむと、いつもゲンちゃんはそう言った。

 なんの根拠もない、わけわかんないその自信に、あたしはなぜか安心できたんだ。

「だからもう自分の布団に戻って、さっさと寝ろ」

 ゲンちゃんが寝返りをうって、あたしに背中を向けた。ゲンちゃんの布団の中はぽかぽかとあったかい。いつもだったら絶対こんなところ、入り込んだりしないけど……。


「ねぇ、ゲンちゃん」

 あたしはひょこっと顔を出してつぶやく。

「お話して」

「あ?」

「ほら、昔よく寝る前にお話してくれたじゃん。桃太郎が竜宮城に行って、乙姫様と一緒に鬼をめちゃくちゃやっつける話とか。シンデレラが毒リンゴ食べて、王子様と踊ってる最中に笑いが止まらなくなっちゃう話とか」

 ゲンちゃんが作ったでたらめのお話を、布団の中で聞くのがあたしは好きだった。

「もう忘れたよ、そんなの」

 背中を向けたまま、ゲンちゃんが言う。

「さっさと戻れって、自分の布団に」

「寒いから出たくない」

「狭いんだよ」

「いいじゃん、もうちょっと」

「俺みたいな変態男と寝たりして、なにされるかわかんねぇぞ?」

 あたしは暗闇の中で天井を見る。それからもぞもぞ動いて、ゲンちゃんに背中を向ける。背中と背中がちょっとくっついて、ゲンちゃんのぬくもりがじんわりと伝わってくる。

「なにもしないよ、ゲンちゃんは」

 つぶやいて、静かに目を閉じる。

「ゲンちゃんは……そんなことする人じゃないってわかってる」

 ゲンちゃんはなにも言わなかった。あたしはあったかいぬくもりに包まれて、そのまま眠りに落ちていった。



「んー……」

 目が覚める。あたしはゲンちゃんの布団で寝ていた。窓の外はうっすらと明るい。ごろんと寝返りをうって隣を見ると、そこにゲンちゃんの姿はなかった。

 ゲンちゃん、もう起きたのかな……いつもあたしより寝坊するくせに。

 あたしは布団の上に起き上がって、うーんと伸びをする。地震が怖くて眠れないかもって思っていたのに、朝まで一度も起きることなくぐっすり眠ってしまった。

「ゲンちゃん? どこにいるの?」

 寒くて腕をさすりながら、部屋を出る。ミルクが足元にすり寄ってきたけど、ゲンちゃんの姿はない。

「ゲンちゃん?」

 あたしは上着を羽織って、玄関から外へ出る。夜明けの屋上に、ゲンちゃんの後ろ姿が見えた。

「あー、またタバコ吸ってる」

 ゲンちゃんはミルク色の空に、タバコの煙をはいていた。

「うるせぇ。俺は寝不足なんだ。タバコくらい吸わせろ」

「え、なんで? 地震なかったからぐっすり眠れたよ?」

「お前はそうだろうな。グーグーいびきかいて眠りやがって。俺の背中にパンチするわ、腹の上に足のっけてくるわ、お前のひどい寝相のせいで、こっちは一睡もできなかったんだぞ?」

 ゲンちゃんは超不機嫌な顔でそう言うと、またフェンスの向こうを見ながらタバコを吸った。

「そんなのうそだぁ」

「だったら今度、証拠動画撮ってやる」

 白い雲が流れ、空が少しずつ明るくなる。凍りつくような真冬の寒さとはちょっと違い、どこか空気がやわらかい。

 春は、もうすぐそこまで来てるんだ。

 あたしとゲンちゃんはなんにも話さず、ただなんとなく空が明るくなっていくのをながめていた。


 その日、学校から帰ってくると、ゲンちゃんが畳の上で死んだように眠っていた。

「ゲンちゃん? おーい、野々山ゲーン」

 呼んでもまったく起きる気配がない。でもすーすー寝息を立てて、なんだか気持ちよさそうに寝ている。だからあたしは起こすのをあきらめた。

 顔を上げてパソコンを見ると、描きかけのイラストが画面に映っていた。

 あたしはゲンちゃんの絵を、あまり見たことがない。仕事中に邪魔すると怒られるから。でもいつも見たいと思っていたんだ。

 画面に見えるのは風景の絵だった。今朝ふたりで見たような、ミルク色の空が広がっている。

 ゲンちゃんの絵は、描いている本人と正反対ですごく繊細だ。色も淡くてやさしくて、どこか儚い感じがする。あたしはそんなゲンちゃんの絵が好きなんだ。

 ゲンちゃんが唸り声をあげて、寝返りをうった。あたしはそばにあった毛布をそっと掛けてあげてから、静かに部屋を出た。


「なんで起こしてくれなかったんだよ!」

 数時間後、あたしが夕飯の支度をしていたら、ゲンちゃんが飛び起きてきた。

「え、起こしてなんて、頼まれてないもん」

「今夜バイトの夜勤なんだよ。やべぇ、遅刻だ!」

 ゲンちゃんがジャケットを羽織って、外へ出て行こうとする。

「えっ、ちょっと待って! こんなときに夜勤って……」

 あたしはガスの火を消して、ゲンちゃんに駆け寄った。

「また地震きたらどうするの。あたしをひとりにしないでよ」

 ゲンちゃんが振り返ってあたしを見た。

 わかってる。こんなのわがままだって。ゲンちゃんは仕事なんだから仕方ない。

 でも、昨日の地震を思い出すと、また心臓がどきどきしてくる。

「彩葉……大丈夫だよ」

 あたしは唇を結んで、ゲンちゃんの顔を見上げる。

「俺が大丈夫って言ってるんだから、大丈夫なんだよ」

「うん……」

 小さくうなずくあたしを見て、ゲンちゃんが口元をゆるめる。

「でももしちょっとでも揺れたら、すぐに来てやるから。コンビニ近いし」

「うん……」

「あとこれも貸してやる」

 ゲンちゃんはあたしの手をとると、そこに自分のスマホをのせた。

「一応、お守り。何かあったら店に連絡していいよ」

「ゲンちゃん……」

「わっ、もうこんな時間かよ!」

 ゲンちゃんがあわてて飛び出して行く。あたしはそんなゲンちゃんの背中を、スマホを握りしめて見送った。



 夜中に騒がしい音で目が覚めた。ドアを開ける音とか、ばたばた床を走ってくる音が聞こえる。

「もー、なんなの? うるさいなぁ」

 重いまぶたをなんとか開くと、コンビニの制服を着たままのゲンちゃんが、息を切らしてそこに立っていた。

「お前……寝てたのか?」

 ゲンちゃんはなんだかすごくあせった顔をしている。あれ、ゲンちゃんまだ仕事中じゃなかったっけ?

「いまっ、揺れただろ! けっこう強いの!」

「え、うそだぁ」

 全然気づかなかったけど?

「震度1くらいじゃないの?」

「バカっ、絶対4以上あったぞ!」

「うそでしょ。そんな大きいのに、あたしが気づかないはずないもん。もうせっかく寝てたのに、起こさないでよ」

 あたしは眠くて眠くて布団をかぶる。お守り代わりのゲンちゃんのスマホを抱きしめて。

「お前なぁ! 俺はお前のこと心配して、バイト早退して帰ってきたんだぞ!」

「うーん、ゲンちゃん……うるさい……黙って……」

 ゲンちゃんはまだなにか騒いでいたけど、あたしは眠すぎて、あっという間に夢の中に戻ってしまった。


 夢の中で、あたしはゲンちゃんのお話を聞いていた。あたしはもう子どもじゃなくて、そんなおとぎ話を喜ぶ年齢じゃないんだけど、なんだか楽しくてずっとずっと笑っていた。

 ゲンちゃんはそんなあたしを見て、幸せそうな顔をしていた。ママはあたしのことを好きじゃなかっただろうけど、ゲンちゃんはあたしのことを好きなんだろうなって思った。

 幸せな気分のまま目を覚ますと、ゲンちゃんがあたしの隣の畳の上で、コンビニの制服のまま眠っていた。

「あれ? ゲンちゃん、なんでここにいるの?」

 そういえば夜中にゲンちゃんがなにか騒いでいた気がするけど。

「ま、いっか」

 あたしは自分の毛布をゲンちゃんに掛けてあげて、うーんと大きく伸びをした。

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