おいしいおいしいハンバーグ 2
とぼとぼ歩いてビルに着き、階段を上って家に帰った。足が重くて、いつもの倍以上時間がかかった気がする。
ただいまも言わず黙って玄関から入ると、ゲンちゃんがパソコンの前に座って仕事をしていた。あたしが後ろを通り過ぎようとしたら、背中を向けたままゲンちゃんが言った。
「猫のミルク、買ってきたか?」
「……忘れた」
「使えねーな」
あたしはその場に立ち止まり、ゲンちゃんのちょっと丸まった背中を見つめる。
「ねぇ、ゲンちゃん」
「んー?」
「あたしっていやらしいかな?」
あたしの声が静かな部屋にぽっかり浮かび、一瞬遅れてゲンちゃんが後ろを振り向く。
「は?」
「だから……あたしっていやらしい?」
ゲンちゃんはすっと椅子から立ち上がると、わき目もふらずこっちに来て、ぴたっと手のひらをあたしの額にくっつけた。
「んー、熱はないみたいだな?」
「熱なんかないよ! 真面目に答えてよ!」
あたしはゲンちゃんの手を振り払う。
「あたしってさ、ブスのくせに男の人のこと意識しすぎかな」
男の人が隣に座ったくらいであせったり、ゲンちゃんが部屋に入ってきただけで大騒ぎしたり……やっぱりあたし、おかしいのかな。
ゲンちゃんはじっとあたしを見下ろして、顔をしかめる。
「誰がお前のことブスなんて言ったんだよ。あの湊斗とかいうガキか?」
「え、ちがうよ。湊斗はカンケーない」
首を横に振るあたしに向かって、ゲンちゃんが言った。
「お前はブスじゃねぇよ。まぁ、美人でもないけど」
褒められてるのか、けなされてるのか、よくわからない。
「それに男のこと意識するようになったのは、お前がちょっとだけ大人になったからじゃないのか?」
あたしが……大人になったから?
「俺なんかしょっちゅう女のこと考えてるしな」
「えっ」
あたしはぴょんっと跳ね上って、ゲンちゃんから離れた。
「あー、お前は女と認識してないから心配するな」
「ちょっ、ひどい! バカにしないでよ!」
ははっと笑うゲンちゃんのお腹を、グーでぽかぽか殴った。だけどすぐにあたしはその手を止めて、またゲンちゃんから離れる。
「ミルク……買ってくる」
ゲンちゃんはなにも言わなかった。あたしは逃げるように外へ飛び出す。
グーにした手が、なんだか熱い。あたしやっぱりおかしいかも。だってゲンちゃんのこと、意識してる。
ゲンちゃんはママの弟で、血のつながったあたしの叔父さんなのに。
『俺なんかしょっちゅう女のこと考えてるしな』
ゲンちゃんがしょっちゅう考えてる女って……誰なの?
「昨日はごめん! いきなり帰っちゃって」
翌朝あたしは隣の教室に行き、杏奈の前で頭を下げた。
「べつにいいけどさ。その気がないなら、最初から来ないでよね」
「……ごめん」
杏奈はわかりやすく口をとがらせ、ふいっと横を向いた。たぶん杏奈は、しばらくあたしと口をきいてくれないだろう。
教室の中を見回しても、風花の姿がなかった。あたしがしょぼんと廊下に出ると、ちょうど登校してきた風花とばったり会った。
「風花……」
「いろちゃん……」
風花がすっとうつむいた。あたしはそんな風花に言う。
「ごめん。風花」
足もとを見ていた風花が、ゆっくりと顔を上げる。
「あたし、ああいうのって初めてで……なんかひとりで意識しちゃって……バカみたいだったよね。ごめん」
あたしはぺこっと頭を下げた。すると風花が慌てて口を開く。
「ううん。謝るのはこっちのほうだよ。わたしいろちゃんにひどいこと言ったよね。ごめんなさい」
顔を上げると、困った表情で風花が言った。
「わたしもああいうのって初めてで……男の人に『かわいいね』なんて言われたことなかったから、すごく浮かれちゃって……だからいろちゃんに止めてもらってよかったと思ってる。あのままあの人たちといたら、わたしどうなってたか……」
「風花……」
「いろちゃん、ありがとう」
風花が泣きそうな顔で笑うから、あたしはきゅっと唇を噛む。
風花といると時々もやっとすることがある。だけどやっぱりあたしは、風花の笑顔が好きだ。
「風花はかわいいよ」
「えっ」
風花の頬が、みるみるうちにピンク色に染まる。
「風花はかわいい。ほんとにそう思う」
「もうやだぁ、いろちゃんてば」
風花が頬に両手を当て、恥ずかしそうにあたしを見る。あたしはそんな風花に笑いかける。
素敵な彼氏が見つかるといいね、風花。
その日の夕飯は、あたしがハンバーグを作った。昨日せっかくファミレスに行ったのに、ハンバーグを残して店を出てしまったことが、実はずっと心残りだったんだ。思い出せば思い出すほどハンバーグが食べたくなってしまい、自分で作ることにした。
「どう? あたしの作ったハンバーグ、おいしい?」
夕飯はこたつに足を突っ込んで、ゲンちゃんと向かい合って食べる。この部屋にテレビがあるからだ。
ナナちゃんがいたころは、「ご飯を食べながらテレビを観てはいけません」って言われてて、台所で食べていた。でもナナちゃんがいなくなった途端、ゲンちゃんはこの部屋で、テレビを観ながら食べるようになった。子どもかよ。
「ねぇ、聞いてる? ゲンちゃん」
「あ? なんか言った?」
ゲンちゃんがテレビの画面から目を離し、こっちを向く。テレビの中ではお笑い芸人が、おもしろそうなコントをやっている。だけどあたしはリモコンでテレビをぶちっと消した。
「あっ、なにすんだよ、お前!」
「ご飯のときはテレビ禁止!」
「ナナみたいなこと言うなよ」
「だってゲンちゃん、あたしの話、聞いてくれないじゃん」
あたしはゲンちゃんから顔をそむけ、ハンバーグを口に入れる。悔しいから、どんどん口に入れる。味なんかもうわかんない。
ゲンちゃんもそんなあたしの前でハンバーグを食べて、そして言う。
「おいしいよ」
あたしはむすっとした顔でゲンちゃんを見る。
「めんどくさいから、聞こえないふりしてたんでしょ?」
「うるせぇな、おいしいって言ってんだから、もういいだろ」
「なにそれ! 全然心がこもってない!」
「じゃあなんて言えばいいんだよ」
あたしはさっき学校で見た、風花の幸せそうな笑顔を思い出した。
「ねぇ、ゲンちゃん。あたしって美人じゃないけど、ブスでもないんだよね?」
「まぁな」
「じゃあ『かわいい』って言って?」
箸を置いてゲンちゃんの顔を見る。ゲンちゃんはじっとあたしを見つめて口を開く。
「かわいい、かわいい。めっちゃかわいい。こんなかわいいやつ、見たことない」
「なにその棒読み! 全然心がこもってないじゃん!」
「はー、ガキの相手はめんどくせぇ」
ゲンちゃんはいつの間にかハンバーグを食べ終わっていて、お皿を片づけ立ち上がった。
「風呂入ってくる」
「ちょっと、待ちなよ、ゲンちゃん!」
「なに? 一緒に入りたいの? いやらしい彩葉ちゃん」
あたしの顔が、かぁっと熱くなる。
「バカっ! 変態! さっさと風呂入ってこい!」
ゲンちゃんがげらげら笑いながら、脱衣所のドアを閉める。
ゲンのやつ。今度ヘンなこと言ったら、セクハラで訴えてやるからな。
「あ、そうだ、いろはー」
むっとした顔で振り向くと、上半身裸のゲンちゃんがドアから顔を出して、シャンプーのボトルを振っている。
「これ、なくなっちゃったから、今度買ってきて」
「ぎゃー! そんなカッコで出てくるな!」
ゲンちゃんは両手で顔を隠したあたしを見て、満足そうに笑う。そしてすぐにドアをバタンと閉めた。
なにあれ。絶対わざとでしょ。あたしがあたふたするのをおもしろがってるんだ。
「くやしー」
テーブルをどんっと叩いたら、食器とリモコンが音を立てて揺れた。あたしはもう一度テレビをつける。さっきのお笑い番組は終わっていて、恋愛ドラマをやっていた。ちょうど男の人と女の人が抱き合うシーンで……あたしはあわててテレビを消す。
「はー、もうやだ」
なんだかどっと疲れて、畳の上に仰向けになった。
でも……天井からぶら下がっている、丸い蛍光灯を見ながら思う。
ゲンちゃんの上半身なんて、しょっちゅう見ていたはずなのに。
いつからあたしはゲンちゃんから、目をそらすようになったんだろう。
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