赤い箱のチョコレート 1
ゲンちゃんが遊びに出かけた。
家とバイト先の往復くらいしかしていない、ほぼひきこもり男のゲンちゃんが、中学校時代の同級生との飲み会に出かけて行った。ナナちゃん以外にも友だちいたんだ。知らなかった。
もしかしたら今までも、誘われていたのかもしれない。でもあたしが中学に上がるまで、ゲンちゃんは夜にあたしを置いて出かけようとしなかった。
ナナちゃんが「いろちゃんはあたしがみてるから大丈夫だよ」って言ってくれたのに、「彩葉は俺の姪っ子だから、お前には任せられない」とか意地張って。
ゲンちゃんがいてくれたって、なにをしてくれるわけでもないのに。むしろナナちゃんがいてくれたほうが、よっぽど頼りになるのに。そういうところだけ、頑固なんだよなぁ、ゲンちゃんは。
「みぃー」
ミルクが部屋から出てきた。キャットフードをあげようとしたら袋の中が空っぽだった。買い置きを探したけれど見当たらない。ゲンちゃんが買うのを忘れたんだ。
「もー、ゲンちゃんは。買っといてって言ったのに」
あたしは時計を見上げる。この時間ならまだスーパーが開いているはず。
「ちょっと待っててね、ミルク」
ミルクにお留守番をお願いして、あたしは鍵をかけて家を出た。
音楽の流れる明るい店内で、キャットフードを手に取る。レジに並んで順番を待つ間、近くの棚に赤い箱のチョコレートが並んでいるのに気がついた。
あれは……風花がおいしいって言ってた、新発売のやつ。いま人気のアイドルがCMに出ていて、クラスの女子の中でも話題なんだ。
買っちゃおうかな、あたしもちょっと食べてみたい……でも無駄遣いはよくない。いまはキャットフードを買いに来ただけだし。こんな目に着く場所にチョコを置いて、買わせようとしているお店の作戦に負けてはダメだ。
あたしは食べたい気持ちをぐっと我慢し、レジでキャットフードのお金だけを払った。
あたたかい店内から外へ出た途端、強い風がびゅうっと吹いた。あたしは肩をすくめて、上着の前を重ね合わせる。
「あっ、彩葉だ! いーろーはー」
聞きなれた声が風に乗って流れてきた。振り返るとゲンちゃんがあたしに向かって、機嫌よさそうに手を振っている。首をかしげながら近づくと、ゲンちゃんがいきなりあたしの肩を抱いて引き寄せた。あたしのつめたいほっぺが、なんだか急に熱くなる。
「こいつ彩葉。俺の姪っ子」
ゲンちゃんがあたしの髪をぽんぽんっと叩きながら、一緒にいたふたりの男の人に言った。
今夜のゲンちゃんはちょっとおかしい。きっと酔っ払っているんだ。
「あ、俺たち絃の同級生です。さっきまで一緒に飲んでて……」
やさしそうな顔をした、スーツ姿のサラリーマンぽい人が言った。
「ちょうどよかった。こいつちょっと飲みすぎみたいなんで、連れて帰ってもらえます?」
「おいっ、俺は飲みすぎてなんかないぞ?」
ゲンちゃんがあたしから離れ、ネクタイをつかんで絡んでいる。
「まぁまぁ、よかったじゃん、絃。かわいい姪っ子ちゃんと一緒に帰れて」
そう言ったもうひとりの人は、セーターにダウンジャケットを着ていて、ちょっとふっくらした体型。この人も穏やかそうだ。
「こいつ飲んでる間、ずっと彩葉ちゃんの話しててねぇ、でもすっごく楽しそうだったよ」
「うるせぇよ、お前もー!」
今度はこっちの人の首に腕を回して、ゲンちゃんがぎゃーぎゃー騒いでいる。しょうがない酔っ払いだ。お酒臭いし。
「彩葉ちゃんも大変だね、こんな叔父さんと暮らしてるなんて」
「いえ……もう慣れました」
あたしは苦笑いしてから、ゲンちゃんの腕を引っ張る。
「ほら、ゲンちゃん。帰ろうよ」
「いろはー、俺飲んでないからなぁ? 全然飲んでないからな?」
「はいはい、わかったから。ほら、帰るよ」
ゲンちゃんの腕をもっとあたしは引っ張った。
「あのっ、今夜はありがとうございました」
「いえいえ」
「気をつけて帰ってね」
ふたりがにこやかに手を振ってくれる。大人だ。この人たちこそ、常識ある立派な大人だ。
「じゃあな、絃」
「またなー」
ゲンちゃんはふたりに背中を向けて、あたしに寄りかかるようにしながら、「またな」と手を上げた。
「もうー、しっかりしてよ、ゲンちゃん」
ゲンちゃんはふらふらと危なっかしい足取りで歩いている。
「俺、しっかりしてるよ?」
「全然しっかりしてないじゃん」
あたしはゲンちゃんの腕をつかんだまま歩く。
ゲンちゃんはお酒が強くない。だから普段はあんまり飲まない。だけどいったん調子に乗ると、へろへろになるまで飲んじゃう。だからナナちゃんと一緒に飲むときは「ゲンちゃんはこれ以上飲んじゃダメだからね」って制止されてた。
それなのに……大人ってどうして、こんなになるまでお酒を飲むんだろう。
「でもゲンちゃんのお友だち、ふたりともいい人そうだったね」
「あー、そうそう。あいつらすっげーいいやつなんだよ」
ゲンちゃんが夜空を見上げて機嫌よさそうに笑う。スーパーから少し離れると、この時間はもう、人通りが少なくなる。
「中学のころは、いっつもあいつらと遊んでてさぁ」
「でもふたりはゲンちゃんと違って、真面目そうだったよね」
「昔はあんなじゃなかったんだぞ? 悪いこともいっぱいしたしな」
悪いことってなんだろう。気になるけど、聞くのがちょっと怖い。
ゲンちゃんの中学時代ってどんなだったのかな? 高校生のころは? そのあとは? あたしはあたしと会うまでのゲンちゃんのこと、なんにも知らないんだ。
「それなのに今は、会社の係長と二児の父親だってさ」
あたしの耳にゲンちゃんの声が聞こえる。
ゲンちゃんは笑っているのに笑ってないみたいだった。どうしてかな……。
「でもさ……」
あたしはゲンちゃんの腕をぎゅっとつかんで言う。
「ゲンちゃんはフリーで仕事してるんだから社長じゃん。それにたったひとりで、あたしをこんなに大きくなるまで育ててくれて。ゲンちゃんのほうがすごいよ」
ゲンちゃんはぼけっとした顔をしたあと、嬉しそうに笑ってあたしの肩を抱いてきた。
「いろはー、お前ほんっといいやつだなぁ。さすが俺の姪っ子!」
「もー、ゲンちゃん、お酒臭いよ」
「よしっ、お前が大人になったら、俺が飲みにつれてってやろう」
「やだよ、ゲンちゃんとなんか。あたし酔っぱらいの面倒みたくないもん」
「そんなこと言うなって。楽しみだなぁ……彩葉と一緒に酒飲むの」
ゲンちゃんがしみじみとつぶやいて、また空を見上げる。あたしは仕方なく、肩を抱かれたままゲンちゃんと歩く。
風がつめたい夜だった。だけどゲンちゃんとくっつき合った体があったかかった。
お酒を飲むのって、そんなに楽しいのかな? あたしにはわからない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます