涙のエッグタルトとたまご雑炊 2
「いろは! おいっ、いつまで寝てるんだよ! 開けるぞ!」
翌朝あたしは学校に行く時間になっても布団の中にくるまっていた。お腹がしくしく痛んで、どうしても布団から出たくなかった。
窓の外は昨日からずっと、冷たそうな雨が降り続いている。
「それからなんで捨てたんだよ、昨日のお菓子!」
ああ、ゲンちゃん、ごみ箱の中見たんだ。
「おい、彩葉、聞いてんのか? 答えろよ」
あたしは布団の中にもっともぐりこんだ。
「なんだよ、お前昨日から変だぞ? ちゃんと顔見せろ」
ゲンちゃんが掛布団をつかんで、引っ張り上げた。あたしはそれを離さず、必死に抵抗する。
「やぁっ!」
「離せって……」
「いやなの!」
ゲンちゃんから布団を奪い返し、また頭からかぶった。おへその奥から何かが流れ出る感じがする。気持ち悪い。大人になるって、気持ち悪い。
「彩葉?」
ゲンちゃんの声がちょっとやわらかくなった。だけどあたしの体は硬くなる。
「どこか具合悪いのか?」
「……悪くない」
「でもおかしいだろ? まだ腹痛いの?」
「あっち行ってよ。ゲンちゃんにわかるはずない」
突き放すようにそう言った。そうしたらしばらく変な空気が流れて、そしてあたしの耳にゲンちゃんの声が聞こえた。
「あっそ。せっかく心配してやったのに。ならいい、勝手にしろ」
ゲンちゃんが立ち上がる気配がして、そのあとふすまをぴしゃんっと閉める音がした。
怒らせちゃった……ゲンちゃんのこと。でもゲンちゃんにわからないのは本当だもん。
薄暗い布団の中でぎゅっと目を閉じた。窓の上についている庇を、雨が叩いている。
なんだかすごく寂しかった。
あたしはこの世界で、ひとりぼっちのような気がした。
「ん……」
ごろんと転がって目を開ける。いつの間にか眠ってしまっていた。
手を伸ばし目覚まし時計を近づけると、もうすぐお昼になるところだった。雨の音は消えていて、窓からうっすらとした日差しが差し込んでいた。
お腹すいたな……昨日のエッグタルト、捨てなければよかった。
でもあたし、なんであれを捨てたりしたんだろう。あたしが作ったものをこっそり捨てられたりしたら、すごく悲しいのに。
布団を蹴飛ばし、のっそりと起き上がった。パーカーを着て頭からフードをかぶり、そおっとふすまを開ける。
おそるおそるパソコンの部屋をのぞいたら、誰もいなかった。ミルクがゲンちゃんの毛布にもぐってお昼寝している。
ゲンちゃん、バイト行っちゃったのかな?
冷蔵庫をのぞこうとして、テーブルの真ん中に置いてある鍋に気がついた。なんだろうと思って蓋を開けると、黄色と白のやさしい色が目に飛び込んできた。
「たまご……雑炊?」
前にテレビで観たやつだ。何気なくゲンちゃんと観ていたドラマ。風邪をひいた主人公が食べる雑炊がおいしそうに見えて、「今度作ってよ」ってあたしが言ったら、「お前が病気になったらな」ってゲンちゃんが答えたんだ。
「ゲンちゃん、あのときのこと、覚えてたの?」
ふと視線を動かすと、鍋の下に一枚の紙が挟んであった。首をかしげて手に取ると、イラストと文字がかかれている。
「あ、これ、湊斗の好きなキャラじゃん」
前に湊斗がゲンちゃんにおねだりしてたやつ。そのキャラが吹き出しで言っている。
『捨てるなよ』
ふっと頬がゆるんだ。あたしは雑炊をあっためて、スプーンですくう。ふうっと息をはきかけ口に入れたら、やさしい味がふわっと体の奥まで広がった。
「おいしい……」
ちょっぴりにじんだ涙をこすって顔を上げる。窓からは明るい日差しが差し込んでくる。あたしはなんだか食欲が出てきて、鍋の雑炊を全部食べた。
『ごちそうさまでした』
メモ用紙にそう書いて、テーブルの上に置いた。それからその下に『学校に行ってきます』と付け足した。
「これあんたにあげるよ」
お昼休みに学校に着くと、あたしは湊斗に紙を差し出した。
「えっ、これ俺が二番目に好きなキャラじゃん! 師匠描いてくれたの? マジで?」
湊斗はあたしの手から、ゲンちゃんの描いたイラストをひったくる。
「なにこれ、『捨てるなよ』って言ってる。捨てるわけねーじゃん! 宝物にするぜ!」
「じゃあそう伝えておくよ」
あたしが自分の席に戻ろうとしたら、廊下から「いろちゃーん」と甘い声がした。見ると風花がこっちに駆け寄ってくる。あたしは昨日のことを思い出し、ごくんと唾をのみ込む。
「どうしたの? いろちゃんが遅刻なんて珍しいね? まだお腹痛かったの?」
「うん、でももう平気」
「よかったぁ」
風花があたしの前でふんわりと微笑む。あたしの好きな風花の笑顔。
「風花……ごめんね?」
あたしの声に、風花が「ん?」と首をかしげる。
「なにが?」
「あ、ううん……なんでもない」
教室に午後の授業が始まるチャイムが響く。
「昨日のエッグタルトおいしかったよ。ありがとう」
「うれしい。また作るね」
風花のやわらかそうな髪がふわっと揺れる。
「あ、そうだ、わたし今日委員会があるから、いろちゃん先に帰っててね」
「うん、わかった」
「じゃあまたね」
隣の教室に帰っていく風花を、あたしは手を振って見送った。
二時間だけ授業を受けて、学校を出た。足元にはまだ水たまりが残っている。
ふたりの女の子が楽しそうにおしゃべりしながら、あたしを追い越していった。彼女たちの首に巻かれているマフラーは、風花のとちょっと似ている。流行ってるのかな、あれ。
そんなことを思いながら、あたしはポケットに手をつっこみ背中を丸める。
「えっ」
そのときあたしは気がついた。校門の向こう側のガードレールに腰掛けて、あたしが選んだジャケットを着て、暇そうにタバコを吸っている人の姿に。
「ゲンちゃん!」
あたしはあわてて駆け寄った。
「おう」
「『おう』じゃないよ! なにやってんの? こんなところで!」
「タバコ吸ってたんだよ。ここは校内じゃないから、いいんだろ?」
校門から出てきた女の子たちが、あたしたちのことをじろじろ見ている。あたしはゲンちゃんのタバコを取り上げて、灰皿に押し付けた。そして黒いジャケットを引っ張って、歩き出す。
「もうっ、恥ずかしいじゃん」
「なんでだよ。せっかく迎えに来てやったのに」
あたしはその場で足を止める。
「へ?」
「だから。具合悪そうだったから、迎えに来てやったんだよ。もう腹は治ったのか?」
あたしはゲンちゃんから顔をそむけて、ぼそっと答える。
「たまご雑炊食べたら治ったよ」
「あっそ。そりゃあよかった」
ゲンちゃんがへらっと笑う。ちょっと嬉しそうに。あたしはまた歩き出す。
「あの絵。湊斗にあげちゃったけど、いいよね? 宝物にするって」
「十万もらったか?」
あたしの少し後ろから聞こえるゲンちゃんの声。
「風花にも……謝った。捨てたことは言えなかったけど……でも反省してる。すごく」
車道を大きなトラックが通り過ぎて、強い風があたしの前髪をふわっと上げる。あたしは胸の奥のもやもやをはき出すように、冷たい空気に白い息をはく。
「彩葉」
ゲンちゃんの声がして立ち止まった。振り返るとゲンちゃんが自分のマフラーをはずして、それをあたしの首にぐるぐる巻いてきた。あたしを拾ってくれた、あの夜みたいに。
「病み上がりだから」
にっと笑ったゲンちゃんが、あたしの頭をくしゃくしゃってかき回す。あたしは肩をすくめて目を閉じて、それから嫌そうな声を作って言う。
「タバコくさーい」
「贅沢言うな」
ゲンちゃんが鼻で笑い、ポケットに手を突っ込んで歩き出す。あたしはその背中を見つめて思う。
ゲンちゃんはなんにもわかってない。あたしは病気なんかじゃないのに……やっぱりなんにもわかってない。
だけど……それでもいいや。
地面を蹴って、ゲンちゃんに駆け寄る。思い切って手を伸ばし、ジャケットを着た腕に絡める。ゲンちゃんはあたしを見て、ちょっと驚いた顔をした。
「病み上がりだから」
へへっと笑ってゲンちゃんを見上げる。その腕にぎゅうっとしがみついて。
「恥ずかしいんじゃなかったっけ?」
「寒いからいいの!」
ゲンちゃんはちょっと頬をゆるめてあたしを見て、すぐに目をそらした。腕を組んだままゲンちゃんの視線を追いかけると、雨上がりの晴れた空が見えた。
あたしはそんな空を見ながら考える。
ゲンちゃんの好きな人って、誰なんだろうって。
「三十八度八分? これってガチでヤバいやつじゃない?」
翌朝、ゲンちゃんが熱を出した。あたしを校門の前で待っている間、やたら寒気がしていたらしい。なのにカッコつけてあたしにマフラーなんて貸してくれたから、風邪ひいたみたい。
「とりあえずここに水とスマホ置いとくから。何かあったら救急車呼びな」
「えっ……彩葉……どこ行くんだよ……」
ゲンちゃんが布団の中から、情けない声を出す。
「学校に決まってるじゃん」
「お、俺を置いていくのか? インフルエンザかもしれんのに?」
あたしはそばにいたミルクを抱き上げ、ばっとゲンちゃんから二メートルくらい離れた。
「やだっ、あたしとミルクにうつさないでよ!」
「ひどっ……お前、もし俺が死んだら……」
言いかけたゲンちゃんが、苦しそうにごほごほと咳き込む。
大丈夫かなぁ、とちょっと心配になる。
「いろは……」
ゲンちゃんは寝返りをうって、あたしに背中を向けた。
「もういいから……学校行け」
「でもやっぱり……」
「いいから行け……インフルうつりたくないんだろ?」
あたしは黙って、ゲンちゃんのもぐりこんだ布団を見つめる。
もし……こんなことはあってはならないけど……もし、ゲンちゃんになにかあったら……あたしはこの世にひとりぼっちになっちゃうんだ。
そんなことを考えてしまったあたしの耳に、ゲンちゃんのかすれた声が聞こえた。
「そのかわり……帰ったらでいいから……作って」
「え?」
「たまご雑炊……食いたい」
あたしはゲンちゃんから離れたところでうなずく。
「わかった」
「じゃあもう行け……俺は……大丈夫だから……」
全然大丈夫そうじゃなかったけど、あたしはそのまま学校に行った。だけどその日は一日中ゲンちゃんのことが心配で、学校の授業は全く頭に入ってこなかった。こんなことなら休めばよかった。
帰りは走って家に帰った。途中、救急車のサイレンが聞こえて、心臓がひやっと凍りついた。
どうしよう。ゲンちゃんに雑炊食べさせてあげられなくなっちゃったら、どうしよう……。
考えれば考えるほど不安になって、体育で百メートル走ったときよりもっと全力で家まで走った。
「ゲンちゃん!」
息を切らして玄関を開けたら、ゲンちゃんが台所でカップラーメンを食べていた。
「あ、れ?」
「ああ、腹減ったからカップラーメン食っちゃった」
「は? なんでよ……」
あたしはその場に崩れ落ちる。
「いや、マジで死ぬかと思って病院行ったんだよ。そしたらインフルじゃなかったらしくて、もらった薬飲んだら調子よくなっちゃって……最近の薬はよく効くなー」
ゲンちゃんがすっきりした表情で笑う。
「ぞ、雑炊食べたかったんじゃ……」
「ああ、今はいいや。腹いっぱい」
「バカ! ゲンちゃんなんかもう知らない!」
「は? なにキレてんの? お前」
自分の悩みを忘れちゃうほど、心配してやったのに。あたしの今日一日を返せ。
あたしはゲンちゃんのそばにいたミルクを抱き上げ、部屋に入ってふすまをぴしゃんっと閉めた。
でも……ゲンちゃんが死ななくて、それだけはよかった。
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