涙のエッグタルトとたまご雑炊 1

「エッグタルト作ってみたんです! あの……よかったら食べてください!」

 今日はうちに友だちが来ている。風花と……友だちとは言いたくないけど……湊斗だ。

「ああ……どうも」

「あの……エッグタルトは好きですか?」

 風花は手作りのお菓子を作ってきて、パソコンの前に座っているゲンちゃんに張り付いている。

「うーん……まぁ、好きだけど」

「よかったぁ! いっぱい作ってきたんで、あとで食べてくださいね!」

 キラキラ星が飛び出してきそうな瞳で、風花がゲンちゃんを見つめる。

 そしてあたしは台所の椅子に座って、猫のミルクを膝の上にのせ、風花がくれたエッグタルトを食べていた。

「師匠! 俺が描いた漫画も見てくれませんか? ガチで描いたやつっす! 師匠にどうしても見てほしくて……」

「だから俺はお前の師匠じゃないって。ていうかお前、二度と来んなって言っただろ?」

「まぁ、そう言わずに……師匠、どうかっ、お暇なときでかまわないんでっ!」

 ゲンちゃんがめちゃくちゃ嫌そうな顔で、ふたりのそばから抜け出してきた。

「おい、彩葉。あいつらなんとかしてくれ」

 二個目のエッグタルトを口にするあたしに、ゲンちゃんがささやいてくる。

「ゲンちゃんさぁ、エッグタルト食べたことあるの?」

「あ?」

「ないのにカッコつけないでよ。『まぁ、好きだけど』とかさ」

 あたしは『まぁ、好きだけど』のところを、思いっきりカッコつけて言ってやった。

「お前……もういい!」

 ゲンちゃんがジャケットとマフラーを手に取って、部屋を出て行く。

「あっ、師匠! どこ行くんすか?」

「タバコ買ってくる!」

「えー、タバコは体に悪いですよぉ」

 玄関のドアがバタンと閉まる。ゲンちゃんはこのふたりにモテモテだ。


「帰ってこねぇなぁ……師匠」

 それから何分経っても、ゲンちゃんは戻ってこなかった。逃げたんだな、絶対。

「あんたがうるさいからだよ」

「でも俺、マジでゲンさん尊敬してっから」

 湊斗がそう言って、テーブルの上に置いた自分の絵を見下ろす。あたしもちらっとそれを見る。漫画家志望というだけあって、湊斗の絵はうまかった。それを知ったのは、つい最近なんだけど。

「でも今日もカッコよかった。ゲンちゃん」

 風花があたしの前でにっこり微笑む。あたしの胸がなんだかもやっとする。

 なんでだろう。最近風花の前で、あたしは素直に笑えない。

「だけど風花。ゲンちゃんって、好きな人いるよ?」

 あたしはミルクをなでながら、ちょっと意地悪を言った。

「えっ、そうなの?」

 思った通り、風花の顔色が変わる。

「たぶんね。女の勘だけど」

 あたしはナナちゃんの真似をする。

「そうなんだぁ……」

 風花がしょぼんとうつむいた。隣で湊斗がエッグタルトを頬張りながら、にやにやしている。

「なに風花って、ガチでゲンさんのこと好きだったの?」

 あたしはなぜか風花の顔を見ることができない。さりげなく視線をそらしたら、風花が勢いよく顔を上げて湊斗に言った。


「まさかぁ! 十五歳も年上の人を、本気で好きになるわけないじゃん」

 風花の言葉が、いきなりあたしのお腹をぶん殴ってきた。いや、お腹を殴られたことなんてないけど、たぶんこんな感じなんだと思う。

「ゲンちゃんの顔ってわたしの好みだし、無口でシブいし、ちょっといいなって思ってるだけ。付き合うならやっぱり同い年か、ちょっとだけ年上の人がいいなぁ……」

 風花がうっとりするような顔つきで言う。

「だよな。実際師匠が中学生に手を出したら犯罪だし」

「やぁだぁ。でもそういうのちょっと憧れちゃう。危険な香りがして」

「おい風花、お前意外とやべーやつだな」

 湊斗と風花が笑い合っている。あたしはなんだかむかむかしている。

「あの、さ」

 喉の奥から声を押し出す。思ったよりずっと、低い声だった。

「悪いけど、そろそろ帰ってもらってもいいかな? なんかあたし、お腹痛くなっちゃって」

「えー、大丈夫? いろちゃん」

「エッグなんとかの食いすぎじゃね? お前さっきから何個食ってんだよ」

 湊斗に笑われてもあたしはなにも言い返さなかった。とにかくさっさと帰ってほしかった。

 そのあとふたりはあっさり帰っていった。もともとゲンちゃん目当てだったから、あたしといても意味ないのかもしれない。

 玄関でふたりを見送って台所に戻ると、テーブルの上の箱にエッグタルトが残っていた。

 あたしは黙ってその箱を持ち上げる。そしてそれを一気に、生ごみ入れに流し込んだ。



「いろはー、おーい、いーろーはー」

 ゲンちゃんがあたしを呼んでいる。あたしは布団の中からもぞもぞと抜け出す。窓の外はいつの間にか真っ暗だ。かすかに雨の降る音がする。

「なに?」

 ふすまを開けて台所へ出た。蛍光灯の灯りがまぶしくて目を細める。

「さっきのエッグなんとかは?」

 ミルクを抱いたゲンちゃんが、周りを見回しながら聞いてくる。

「ゲンちゃん、あれ食べるの? 和菓子が好きなんじゃなかったっけ?」

「和菓子が好きでも、あれは食うよ。せっかく作ってくれたんだし」

 あたしはぎゅっと手を握り、声を出す。

「もう全部食べちゃったよ! ゲンちゃんがなかなか帰ってこないから!」

「あ? なにキレてんの、お前」

「うっさい!」

 そのときお腹がきゅうっと痛んだ。さっきからずっと、おへその奥が変なんだ。

「ちょっ、どいて」

「どこ行くんだよ」

「トイレ! あっち行ってて!」

 ゲンちゃんがぶつぶつ言いながら、ミルクを抱いたままパソコンの部屋に向かって行く。あたしはトイレの中に駆け込んで、そこで下着についた染みを見た。

「あ……」

 全身がひんやりと冷えていく。心臓がどきどきして、喉の奥がひりひりする。

「どうしよう……」

 初潮の知識は学校で教えてもらったから、頭の中に入っている。あたしの友だちのほとんどはそれを迎えていて、あたしは遅いほうだ。準備だってちゃんとしている。

 だけど……どうしてこのタイミングでなるの?

 トイレの中で泣きたくなった。こんなとき、ナナちゃんがいれば……いやいや、さすがにこれはナナちゃんにも相談できない。

 じゃあママがいれば……そんな思いが頭をかすめ、あたしはふるふると首を振る。

 ママがいればよかったなんて、思ったことない。思いたくもない。

 だってそんなことを思ったら……ゲンちゃんがかわいそうだ。


 なるべく音をたてないように、静かにトイレから出る。ちらりと和室を見ると、ゲンちゃんは背中を向けてパソコンを眺めていた。近くにあるストーブの前で、ミルクが丸くなって眠っている。

 黙って台所を通り抜けようとしたら、後ろを向いたままゲンちゃんが言った。

「大丈夫かよ? 腹でも痛いの?」

 あたしは体をびくっと震わせ、ゲンちゃんの背中に答える。

「もう大丈夫……お風呂入ってくる」

「ああ」

 急いで自分の部屋に駆け込んだ。そして用意していたポーチと着替えを抱えてお風呂場に飛び込む。

 シャワーのお湯を全開にして、汚れた下着をごしごし洗った。なぜかゲンちゃんに初めて会った夜を思い出す。あのときあたしはおもらししちゃって、ゲンちゃんはそんなあたしを嫌がりもせず抱っこしてくれたんだ。

 いつの間にか流れてきた涙をシャワーで流した。そして自分の体をごしごし洗った。ごしごしごしごし……痛くなるまで洗った。

 あたし……大人になっちゃったのかなぁ……。

 もう子どもには戻れないのかなぁ……。

 早く大人になりたいって、あんなに思っていたのに……なんでこんなに涙が出るんだろう。

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