みっつの肉まん 1
「あ、野々山さん」
朝、教室に向かって風花と歩いていると、担任教師に呼び止められた。
「三者面談の希望日、提出してないの野々山さんだけなんだけど」
「あ……」
あたしは立ち止まり、咄嗟にぎこちない笑顔を作る。
「すみません。あのプリントなくしちゃって……」
「しょうがないわね。あとで持ってくるから、ちゃんとおうちの人に渡してね?」
「はい」
あたしの返事を聞くと、先生は忙しそうに廊下を去っていった。あたしは小さく息をはく。
教職に就いたばかりの若い女の先生は、あたしの家庭環境をいったいどこまで把握しているんだろう。まぁ、深く突っ込まれるのも面倒だから、把握されなくていいけど。
「いろちゃん、まだプリント、ゲンちゃんに渡してなかったの?」
少し首をかしげて、風花があたしを見る。あたしは風花の長いまつ毛がぱちぱちと動くのをながめてから、あいまいにうなずく。
「だってさぁ、なんとなくゲンちゃんには頼みにくいよ」
「どうして?」
どうしてだろう。小学生のころは授業参観のお知らせも運動会のプログラムも、普通に渡せたのに。ただ、お父さんにしては若すぎるゲンちゃんが学校に来ると、周りのみんなが騒ぐから、いちいち説明するのが面倒なんだ。
あたしが黙っていたら、風花がにっこり微笑んで言った。
「じゃあナナちゃんに来てもらえば? お母さん代わりとして」
「えー、無理無理!」
「どうしてよ? ナナちゃん美人だし、しっかりしてるし。ちゃんといろちゃんの進路とか、アドバイスしてくれそうじゃない?」
美人は関係ないけど、たしかにゲンちゃんよりは頼りになるだろう。でもナナちゃんとは血がつながっているわけじゃないし、説明するのが余計面倒だ。
あー、子どもってめんどくさい。どうして自分のことを、自分で決めてはいけないんだろう。
「やっぱりあたしと先生だけじゃ、ダメなのかなぁ……」
つぶやきながら教室に入ろうとしたとき、あたしの耳に男子のふざけた声が聞こえてきた。
「バーカ、それ、彩葉の母親じゃねぇよ」
足が止まり、心臓が大きく跳ねる。
「ていうか女じゃねーし。そいつオカマだし」
「げ、マジで?」
「でもフツーに女だったぞ?」
「違う違う。俺、彩葉と小学校から一緒だから知ってんだ。あいつオカマと住んでる……」
そこまで言ったそいつがあたしに気づき、にやけた顔のまま言葉を切る。周りの男子どもは気まずそうに、そそくさと教室の中に散らばっていく。
「よう、彩葉!」
悪びれた様子もなくあたしに右手を上げるのは、小学生のころから気に入らない、
「湊斗ぉ……」
あたしの押し殺すような声を聞き、風花が心配そうに制服をつかむ。だけどあたしはそれを振り払い、ずんずんと湊斗の前に向かった。教室にいた生徒たちが後ずさりして、あたしの通る道を作る。
「あ、やっぱ聞こえてた? 彩葉が美人と街を歩いてたってあいつらが言うからさぁ。ほんとのこと教えてやったん……」
「うっせぇんだよ。お前!」
あたしは湊斗の胸ぐらをつかみ上げた。周りの男子たちの目が点になって、風花があわてて駆け寄ってくる。だけど目の前の湊斗は、相変わらずへらへらと笑っている。
「なんかまずかった? お前が説明する手間をはぶいてやっただけだけど。あ、そういえば元気? あのニートっぽい叔父さん」
「ゲンちゃんはニートじゃない! ちゃんと働いてる!」
あたしは湊斗の体を思い切り突き飛ばした。だけど湊斗はふらっとよろけただけで、まだへらへらしている。
あれ、なんかおかしい。あたしよりチビな湊斗なんか、いつも吹っ飛ばしてやってたのに。
「いろちゃん、やめて。湊斗くんも、どうしてそんなこと言うの? いろちゃんの叔父さんは家でお仕事してるんだからニートじゃないよ」
駆け付けた風花が、あたしたちの間に割り込む。
「は? じゃあなんの仕事してるんだよ」
湊斗が挑戦的な顔つきであたしを見る。あたしはちょっと戸惑いながら、ぼそっとつぶやく。
「え、絵を描く仕事だもん」
「はぁ?」
湊斗がさらに顔をしかめた。
「お前のおじさん、イラストレーター?」
「まぁ……そんなもん」
そう答えたけど、実はゲンちゃんの仕事をあたしはよく知らない。いつもパソコンに向かって何かやっているけど、近づくと「気が散る」とか「邪魔すんな」って追い払われるし。
だけどゲンちゃんは絵がめちゃくちゃうまい。あたしがどんなに頑張っても、美術の成績「3」以上とれないのに。あたしとゲンちゃんの血がつながっているなんて信じられない。
「へぇ、有名なのか?」
湊斗の声にぎくっとする。絵はうまいけど「仕事がない」が口癖のゲンちゃんが、名の知れた人であるわけない。
「まぁ……フツーじゃないの?」
湊斗はじろっとあたしをにらむ。あたしはさりげなく目をそらす。
「ほんとにお前の叔父さんイラストレーターなのか? てかほんとに仕事してるのか? やっぱニートなんじゃねぇのか?」
「し、してるよ! そんなに疑うなら見に来れば!」
そう言ってからはっと口をふさぐ。目の前の湊斗がにやっと笑う。ああ、どうしよう。あたし、なんてことを言ってしまったんだろう。この前国語で習った「墓穴を掘る」って、きっとこういうときに使うんだ。
ひとつ仕事を終えたばかりのゲンちゃんは、たぶんまだぶらぶらしているだろう。逆に仕事が入っているのに友だちなんか連れていったら、絶対機嫌が悪くなるに決まってる。ただでさえ愛想のないやつなのに。
「じゃあ見に行く。今日の放課後、お前んち行くぞ」
「えっ、今日? 冗談やめてよ」
「やっぱ仕事してないんだろ?」
湊斗がにやにや笑っている。こいつほんとムカつく。ゲンちゃんの次にムカつく。
「わ、わかった。来たいならくればいいじゃん」
「よし! じゃあ行くぞ!」
「あ、わたしも行っていい? 久しぶりにゲンちゃんに会いたい」
風花があたしのそばでにっこり微笑む。あたしは風花の笑顔に弱いから、断るなんてできるわけない。
「も、もちろんいいよ。風花もおいでよ」
はぁ……どうしてこんなことになっちゃったんだろう。めちゃくちゃ気が重い。
放課後。あたしは家への道を、風花と湊斗を引き連れて歩いていた。歩道を歩くあたしたちの脇を、バスが音を立てて追い越していく。
「ゲンちゃんに会うの久しぶりだなぁ。楽しみ」
風花はなぜか嬉しそうだ。不愛想でいつも不機嫌で、口を開けば文句ばかりの何考えてるのかわからないアラサーのオッサンに、どうして風花は会いたいんだろう。
「あ、ナナちゃんもいるかな? ナナちゃんにも会いたいな」
「ナナちゃんってオカマだろ? まぁ、俺もオカマに会ってみたいけど」
「オカマって言うな。バカチビ」
「は? 俺もう、お前より高いんですけど」
湊斗があたしの前に立ちふさがり、自分の頭にのせた手をあたしの頭の上で止める。その手と頭の間にはぽっかりとした空間があった。
「な?」
「くっそ……」
いつの間にかあたしの背は、湊斗に追い抜かれていた。
「くっそー」
「くそとか言うなよ。口悪いな」
口が悪いのはゲンちゃんに似たんだもん。文句があるならあたしを育てたゲンちゃんに言ってよね。
そんなことを考えていたら、あたしの住んでいるビルの前についた。あたしは灰色のビルの屋上を見上げ、ごくんと唾をのみ込む。
風花はここに来たことがあるけど、湊斗は来たことがない。ていうかよく考えたら、男の子を家に呼ぶのははじめてだった。
「ここだよ」
「へぇ、ここがお前んちのマンションかぁ」
ビルを見上げてそう言った湊斗を連れて、階段を上る。四階からさらに上へ行こうとしたら、湊斗がちょっと首をかしげた。そして一番上のドアを開くと、湊斗は驚きの声を上げる。
「はぁー? 彩葉んち、屋上なのかよ」
「うん……そう」
「えー、すげー!」
湊斗は目をまんまるにして、嬉しそうに走り出す。中学生が走り回れるほど、屋上は広い。ゴールがあればバスケぐらいはできる。今日は晴れているから、あたしたちの上にあるのは青い空だけだった。
「すげーな、彩葉んち、サイコーじゃん!」
湊斗はぴょんぴょんと飛び跳ねたり、フェンスから下を見下ろしたりしてはしゃいでいる。中一男子って、ほんとガキ。
「こっちだよ。うち」
あたしは風花と一緒に玄関に向かう。湊斗が走って近づいてくる。あたしは息を整えてからドアノブをひねった。
「あれ、あかない……」
誰もいないのかな。いやいや、ゲンちゃんはいつも鍵を閉めて家に引きこもっているから、まだわからない。あたしは自分の鍵を取り出し、玄関ドアを開けた。
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