甘口カレーライス 2

「あっ、いろちゃん! おーい!」

 帰り道の途中で風花と別れ、ひとりで寒空の下を歩いていると、道路の反対側からしゃがれた声がした。見るといつも行くスーパーの前で、ナナちゃんがあたしに向かって手を振っている。

 ナナちゃん――一条いちじょうナナ。彼女もあたしと一緒に住んでいる人間だ。けれどナナちゃんとあたしに血のつながりはない。

 あたしの家庭環境はかなりフクザツなのだ。

「いま帰りなのー? 一緒に帰ろうよ。あたしがそっち行く!」

 走る車の合間からナナちゃんが叫び、近くの横断歩道に向かっていく。ナナちゃんの声はでかいから、歩道を歩く親子連れがナナちゃんのことをぽかんと見ている。ナナちゃんはどこにいても目立つんだ。

「わかったー」

 あたしも声を上げて、同じ方向へ向かう。

 歩行者信号が青になると、ナナちゃんが嬉しそうに駆け寄ってきた。上品そうなピンク色のロングコートを羽織り、茶色く染めた長い巻き髪を揺らし、メイクをキラキラ光らせて。


「おかえりー。いろちゃん」

「ただいま、ナナちゃん。買い物してたの?」

 ナナちゃんの手には、小さなスーパーの袋がぶら下がっていた。

「うん。さっきゲンちゃんからメッセージがきて、『今日は俺がカレー作ってやったから、帰りに福神漬け買ってこい』って」

「なにそれ。たまにご飯作ったからってエラソーに」

 ていうか、カレーしか作れないくせに。

 あたしが口をとがらせると、ナナちゃんはにこにこ笑って「さ、帰ろ」と背中を押した。

 背の高いナナちゃんと並んで歩く。あたしがナナちゃんと歩いていると、男の人がよく振り向く。そしてあたしとしゃべっているナナちゃんを見て、ちょっと首をかしげる。

 ナナちゃんは綺麗だ。みんなが見とれるほど美しい。だけど声は男だ。ナナちゃんは元男の人で、本名は一条幸太郎というらしい。

 つまりあたしは大人の男ふたり……いや男ひとりと元男ひとりと一緒に暮らしている。

 あたしの家庭環境はものすごくフクザツなのだ。


 東京のはずれの、どこかパッとしない町。駅も学校も建ち並ぶお店やビルも、なんとなく古くさい。あたしたちはあまりひと気のないバス通りを、家に向かって歩く。

 ナナちゃんが「寒い寒い」と背中を丸めて、あたしの体に寄り添ってきた。ナナちゃんにくっつかれると、すごくいい香りがする。タバコ臭いゲンちゃんとは大違いだ。

 あたしはナナちゃんと体を寄せ合って、制服のポケットに手をつっこんで歩く。ナナちゃんはそんなあたしの黒い髪を見て言う。

「髪伸びたね。伸ばしてるの?」

「べつに。勝手に伸びただけだよ」

「伸ばせばいいのに。きっと似合うよ」

「そうかなぁ……」

「いろちゃんは髪を伸ばしたら、きっと大人っぽくなると思うよ?」

 ナナちゃんがあたしの隣でにこっと微笑む。あたしはちょっと考えてつぶやく。

「べつに……大人っぽくならなくていいもん」

 ナナちゃんはくすくす笑っている。


 ふたりでおしゃべりしながら少し歩くと、どんよりとした空の下に、見慣れた縦長のビルが見えてきた。

 あたしたちはまた「寒い寒い」と言いながら建物の中に入り、集合ポストに放り込まれたチラシを取り出し、薄暗い階段を上る。

 ビルの一階から四階までは賃貸マンションのドアが並んでいる。あたしとナナちゃんはそれらのフロアを素通りして、四階からもっと上に続く階段を上る。この階段を使うのは、あたしたちとたまーに来る大家さんくらいしかいない。

 階段を上りきったところにある赤いペンキで塗られた重いドアを、ナナちゃんが気合を込めて押した。キイっという錆びた音とともに目の前に広がるのは、灰色のコンクリートと灰色の空。それからあたしたちの暮らす小さな家。

 あたしたちの……というか、ゲンちゃんの借りている家は、このビルの屋上にあった。

「ただいまぁ、ゲンちゃん」

 ナナちゃんの声に視線を動かすと、屋上の手すりにもたれてぼうっとしているゲンちゃんの姿が見えた。手を離した口元から、白い煙がゆらゆらと空に向かって流れていく。


「あー! またタバコ吸ってる!」

 ナナちゃんの後ろから顔を出し、大きな声で叫ぶ。するとゲンちゃんがめんどくさそうにこっちを向いて、「ちっ」と小さく舌打ちした。

「うっせぇのが帰ってきた」

「ちょっ、うっせぇってなによ! てかなんでタバコ吸ってんのよ!」

 にこにこしているナナちゃんを追い抜いて、あたしはまっすぐゲンちゃんの前まで歩み寄る。ゲンちゃんは今日も黒いダウンジャケットを羽織っている。

「いいだろ。俺はお前がよだれ垂らして寝てる間も、のんきに学校で勉強してる間も、ずっと仕事してたんだぞ。それがやっと終わったんだ。タバコの一本くらい吸わせろよ」

「ダメっ! ゲンちゃんは仕事が忙しいときも、仕事がなくてイライラしてるときも、タバコ吸うじゃん。それにあたしはよだれなんか垂らしてないし、のんきに学校行ってるわけじゃないもん!」

 ゲンちゃんはなんだかんだと理由をつけて、ちっともタバコをやめようとしない。あたしが保健の教科書を見せて、「こんなに体に害があるんだよ」と説明しても鼻で笑ってる。

「お前、静かにしねぇと俺の作ったカレー食わせないぞ? せっかくお前の好きな甘口カレーにしてやったのによ」

「なにエラソーに言ってんの? カレーしか作れないくせに」

「は? お前こそ甘口しか食えないくせに」

「う、うるさいな。甘口が好きなんだからいいじゃん」

 特にゲンちゃんの作った甘口カレーは、あたしが小さなときから食べていたカレーと同じで、あたしの好きな味なんだ。すごく悔しいけど。

 ぶすっと口をとがらせたあたしを見て、ゲンちゃんがくくっと笑う。ほんとこいつ、ムカつく。


「ねぇ、喧嘩するなら中でやったら? 寒いでしょ?」

 玄関のドアを開けたナナちゃんが、あたしたちに声をかける。そして「今夜は雪が降るらしいよ」と言って、両腕をさすりながら部屋の中に入っていった。

「雪が?」

 どうりで寒いはずだ。あたしはその場に突っ立ったまま空を仰ぐ。

 駅からだいぶ離れたこの周辺に、あたしたちのビルより高い建物はない。この屋上から見えるのは、くっつき合うように建っている住宅の屋根屋根屋根……屋根ばかり。

 けれど真上を向けば、何にもさえぎられることなく、いろんな色の空を見ることができる。

 真夏の青く晴れ渡った空も。秋の夕暮れの赤く染まった空も。今日みたいに灰色の、今にも泣きだしそうな空も。

 そして雪が降る日は思い出す。あたしはママに捨てられたあの日のことを。

 胸の奥がちくんと痛んで、あたしはさりげなくゲンちゃんの顔を見た。ゲンちゃんはまた、空に向かって白い煙をはいている。

「タバコ……やめなよ」

 つぶやきながら思う。

 ゲンちゃんはあの日のことを思い出したりするのかな。あたしを拾ってくれたあの日のことを、思い出したりするのかな。


「うっせぇな」

 はき捨てるようにそう言うと、ゲンちゃんは持っていた灰皿にタバコを押し付けた。そしてあたしの顔をじっと見る。ゲンちゃんの視線があたしに突き刺さって、あたしはちょっと固まった。

「彩葉……お前、また背伸びた?」

「さぁ……わかんない」

「あんなにちっこくて軽かったのになぁ……」

 ゲンちゃんがしみじみつぶやいて、あたしの前で笑う。

 やっぱりゲンちゃんも思い出すんだ。雪が降っていたあの日のこと。

「それに胸もデカくなったんじゃね? この前までまな板みたいだったのに」

「……っ、バカっ!」

 あたしは持っていたスクールバッグで、ゲンちゃんの顔を思いっきりひっぱたいた。

「ってぇ……なにすんだよっ!」

「うるさい! セクハラおやじ!」

「は? 俺はお前の親代わりとして、姪っ子の成長を喜んでだな……」

「だまれ! 親でもそんなこと言うか!」

 ん? 親なら言うのかな? 普通言わないよね? あたしには親がいないからわかんないけど。

「くそっ、暴力女め。そういうとこ、お前のママにそっくりだな」

 ゲンちゃんがあたしに殴られたところをさすりながら言う。あたしはバッグをぎゅっと握りしめてつぶやく。

「全然嬉しくないよ。ママなんかに似てたって」


 空からはらりと、白いものが落ちてきた。どうやらナナちゃんの予報は当たっていたようだ。今年はじめての雪はゲンちゃんの黒いジャケットの肩に落ち、すぐに溶けて消えた。

「はっ、そうだよな」

 ぼんやりとそんな雪を見ていたあたしに、ゲンちゃんの声が聞こえた。

「あんな女に似てたって、嬉しくねぇよな」

 あたしの前でゲンちゃんはふっと笑って、背中を丸めて歩き出す。

「はー、さみぃ。ほら、中入るぞ」

 ゲンちゃんはあたしを追い越しながら、あたしの髪をぐしゃっとなでた。そしてタバコの煙みたいな白い息をはき、家の中に入っていく。

 あたしはゲンちゃんに触られた髪をつかんで、さっき風花に言われた言葉を思い出す。

『きっとゲンちゃんはいろちゃんのこと、かわいくてしょうがないんだよ』

 そうなのかな? ゲンちゃんはちょっとでも、あたしのことかわいいって思っているのかな。


「いろちゃーん!」

 玄関のドアがもう一度開き、ナナちゃんが顔を出した。あたしは髪から手を離し、いま考えていたことを頭から追い払うようにぷるぷるっと首を振る。

「早くおいでー、カレー食べようよ」

「うん!」

 あたしはうなずいて、歩き出す。ナナちゃんがにこにこしながら、おいでおいでと手を振っている。

『いろちゃんは髪を伸ばしたら、きっと大人っぽくなると思うよ?』

 大人っぽくならなくていいけど、大人にはなりたい。

 ママに似ていない大人に、早くなりたい。

 あたしたちの住む家から、カレーの匂いが漂ってくる。料理嫌いなあたしのママが、唯一作ってくれたカレーとおんなじ匂いだ。

 玄関のドアを閉じる前、もう一度空を見上げた。灰色の空から落ちてくる雪は、真っ白で冷たくて……あの夜と同じくらい綺麗に見えた。

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