みっつの肉まん 2

「ただいま……」

 小さな声で言ってみたけど、家の中にひと気はない。あたしはちょっとホッとしていた。どうしてだろう。ゲンちゃんもナナちゃんもいないことに、ホッとしていたんだ。

「なんだよ、誰もいねーの? それじゃなんの証明もできないじゃん」

 湊斗が口をとがらせている。あたしは湊斗を軽くにらんでから「入れば?」とそっけなく言う。

 あたしの家は玄関から入るとすぐに、けっこう広い台所がある。右側はトイレとお風呂。屋上でももちろん、電気水道ガス完備だ。そして左側に、ふすまで仕切られた和室が二部屋。それだけの家に、三人の人間が住んでいる。

 あたしは湊斗たちをどこへ通そうか悩んだ。

 いつもご飯を食べている台所には椅子が三つあるけど、テーブルの上は食べ終わったカップラーメンや食べかけのお菓子が散らかっていた。

 ゲンちゃんめ。ちゃんと片付けろって言ってるのに。

 あとは手前のテレビのある部屋と、奥のあたしの部屋。あたしの部屋は少し前までゲンちゃんの仕事部屋で、夜はあたしたち三人、テレビの部屋に雑魚寝していた。だけどあたしが中学に上がった途端「お前にこの部屋やる」とゲンちゃんが言って、仕事部屋があたしの部屋になった。ゲンちゃんは今、テレビの部屋で仕事をしていて、眠くなるとそこでナナちゃんと一緒に寝ている。

「あ、えっと、じゃああたしの部屋に……」

 あたしの部屋も散らかっているから、ほんとは湊斗なんか入れたくないんだけど。

 嫌々部屋を開けようとしたとき、玄関のドアが勢いよく開いた。そしてナナちゃんが顔を出し「あらっ」と声を上げる。


「あっ、ナナちゃん、おかえり」

「まぁ、いろちゃんのお友だち? めずらしいね」

 ナナちゃんはにこにこしながら、あたしたちの立っていた台所へ来る。風花が「こんにちは」とあいさつをし、ナナちゃんも「あ、風花ちゃんよね? こんにちは」と答えている。それからまっすぐ湊斗の前まで進むと、いきなり湊斗の手をとった。

「はじめまして! 君はここに来るの、はじめてよね?」

「あっ、え、はぁ……」

 湊斗の顔が、りんごみたいに赤くなる。至近距離で美しいナナちゃんを見て、恥ずかしくなったんだろう。

「一条ナナです。よろしくね」

「おっ越智、湊斗っす」

 あたしは風花の隣でぷっと噴き出す。

「あいつどもってる」

「ナナちゃんが綺麗すぎて照れてるんだね」

 湊斗はさらに赤くなりながら、あたしたちのことを横目でにらむ。ナナちゃんはそんな湊斗から手を離すと、いつも仕事で使っているバッグを置いてあたしに言った。ちなみにナナちゃんは普通の会社で経理の仕事をしている。

「いろちゃん、あたし夕飯の買い物行ってくるから。お友だちとゆっくりしてて」

「あ、えっと……ナナちゃん、ゲンちゃんどこ行ったか知らない?」

 あたしの質問に、ナナちゃんはちょっと考えてから答える。

「うーん、パチンコかゲームセンターあたりでぶらぶらしてんじゃないの?」

 ぎくっとして湊斗を見ると、やつは勝ち誇った顔つきで笑っていた。

「じゃあね」

 ナナちゃんは風花にも笑いかけ、今度はマイバッグを肩に下げ家を出て行った。

 玄関のドアが閉まると、湊斗が意地悪い表情を浮かべあたしの前に歩み寄ってくる。


「やっぱお前の叔父さん、働いてないじゃん? てかオカマおばさんのヒモ?」

「違うもん。今日は休みなんだもん」

「休みの日はパチンコで稼いでくんのか。いい叔父さんだな」

 あたしはむかむかしてきて、湊斗に言ってやった。

「なによ、湊斗。ナナちゃんに手握られて、赤くなってたくせに!」

「は? うるせぇな。オカマを近くで見たのは初めてで、ちょっとあわてただけだ」

 あたしはじゃんけんのグーを作って、湊斗の頭をぽかっと殴る。

「あんたねー! 今度ナナちゃんのことを『オカマ』とか言ったら、その顔ぶん殴ってやるからね!」

「なんだよっ、暴力女!」

「うっさい! だまれ!」

「ちょっとやめなよー、ふたりとも」

 湊斗に肩を押されたから、その仕返しにもっと強く押したら湊斗はよろけた。その拍子にテーブルに山積みになっていた本や雑誌の上から、紙がばらばらと床に落ちてしまった。

「あー、ほら、やめなって」

 風花がしゃがみ込んでそれを拾おうとした瞬間、湊斗が床に落ちた一枚の紙を素早く手に取った。

「こっ、これはっ!」

 それはたまに出前をとる、ゲンちゃんお気に入りのラーメン屋さんのメニューだった。


「これ誰が描いたんだ?」

 立ち上がった湊斗が興奮した様子でメニューの裏を見せる。そこにはあるアニメのキャラクターの絵が描かれてあった。

「ああ、ゲンちゃんが描いた落書きだよ」

 前にラーメンの出前がなかなか来なくて、ゲンちゃんがイライラしながらメニューの裏に落書きを始めたんだ。そのとき何気なく、今中学生の間で流行っているアニメのキャラを描いてって言ったら、ゲンちゃんがさらさらっと鉛筆で描いてくれた。

「それがどうかしたの?」

「俺、このアニメ大好きなんだよ。特にこのキャラ! すっげーうまいじゃん、この絵! てかこれが落書きって、レベル高すぎ!」

「ま、いちおうプロだし……でもそれゲンちゃんのオリジナルじゃないし」

「いや、このタッチが本物よりいいよ。もろ俺好み!」

 すると湊斗が興奮した様子で、聞いてもいないことをペラペラしゃべり出した。

「すげーな、お前の叔父さん、マジで絵うまいんだな! 実は俺、漫画家になりたくてさ。でもうちの親はそんな不安定な仕事はやめろって大反対で、父さんみたいな会社員になれってうるさくて」

「へぇ……」

 湊斗が漫画家になりたかったなんて、はじめて聞いた。こいつ絵、うまかったっけ? 小学生から一緒だったけど、まったく記憶がない。湊斗の趣味も特技も興味なかったし。

 あたしは同じく唖然としている風花と顔を見合わせた。

「なぁ、この絵、もらっていい? いいよな?」

 興奮の冷めない湊斗の後ろに、ぬっと黒い人影が現れた。


「やらねぇよ」

「へ?」

 振り向いた湊斗の手から、ゲンちゃんがすっとラーメン屋のメニューを引き抜く。そして機嫌悪そうな顔で、湊斗のことを見下ろす。

「ゲンちゃん……」

 あたしの声に湊斗ははっとして、ゲンちゃんの前で両手を合わせる。

「あ、あのっ。その絵、俺にくれません?」

「やだ」

「なんでっ」

「欲しけりゃ一万払え」

「はぁ? たかが落書きに一万?」

「プロの絵をタダでもらえると思うな。ボケ」

 ゲンちゃんは絵をぐしゃっと丸め、ジーンズのポケットの中に押し込んで、あたしと風花のほうを見る。湊斗は「うそだろぉ」と情けない声を出している。

「おかえり、ゲンちゃん。この子は風花。覚えてる?」

 ゲンちゃんはちらっと風花のことを見て「ああ」とうなずくと、テーブルの上に袋を置いた。

「お前らで食っていいよ」

「なんすか、それ? パチンコの景品?」

 湊斗をめんどくさそうににらんだあと、ゲンちゃんが言う。

「バイト先のコンビニで買ってきたんだよ」

「バイト先? なにそれ、ゲンちゃんバイトしてるの?」

 ゲンちゃんは頭をかきながら、やっぱりめんどくさそうに答える。

「あー、こないだからはじめたんだ」

「仕事ないの? それでお金が足りないから……」

 あたしははっと口をふさぐ。湊斗と風花が、じっとあたしの様子をうかがっているのを感じる。ゲンちゃんは何も言わずに、ぶすっと顔をそむけている。

 でも、きっとそうなんだ。いままでもお金が足りなくなると、ゲンちゃんはバイトしていた。きっとあたしみたいなお荷物がいるせいで……。


「だったらあたしもバイトする! 学校に内緒でバイトする!」

 ゲンちゃんが「は?」という顔でこっちを向いて、小さくため息をつく。

「バーカ。心配するな。お前を食わせて、大学行かせるくらいの余裕はあんだよ」

 ゲンちゃんの大きな手があたしの頭にのって、髪の毛をぐしゃぐしゃってかきまぜた。そんなゲンちゃんに向かって、湊斗がぼそっとつぶやく。

「女の子の前だからって、カッコつけちゃって」

「あ? お前なんなの? なんで俺の許可なく俺んちにいるんだよ?」

 すると湊斗がしゃきっと背筋を伸ばして答えた。

「あ、俺、彩葉と同じクラスの越智湊斗っす。彩葉とは小学生のころからずっと一緒で……」

「彩葉彩葉ってうっせぇんだよ、お前……」

 ゲンちゃんは湊斗の背中を押すと、そのまま玄関から外へ追い出した。

「えっ、なんでっ……」

「二度と来んな! ボケっ!」

 ゲンちゃんが勢いよくドアを閉める。さすがにあたしはそんなゲンちゃんに駆け寄った。

「ちょっ、いくらあいつがバカでもそこまでしなくても……」

「お前、この家に男を入れるなよ? 特にあんなへらへらしたやつは二度と入れんな!」

「はぁ?」

 ゲンちゃんはイライラした様子で仕事部屋に入り、ふすまをぴしゃんっと閉めた。

「……なんであんなに怒ってるんだろ」

 つぶやいたあたしの隣で、風花がくすくす笑っている。

「ゲンちゃんって、いろちゃんのお父さんみたいだね?」

「どういう意味?」

「いろちゃんのことが、かわいくてしょうがないんだよ」

 首をかしげていると玄関のドアが開き、スーパーの袋を下げたナナちゃんが帰ってきた。


「あー、寒い寒い。ねぇ、さっきの男の子、しょぼんとしながら帰ってったけど? もしかしてゲンちゃんが何か言ったんじゃないの?」

 風花が苦笑いしてあたしを見る。あたしはゲンちゃんをちょっとひどいと思ったけど、最初に湊斗がゲンちゃんやナナちゃんをバカにしたのを思い出し、まぁいいかって思った。

「もういいよ、あんなやつ。それよりこれなんだろ」

 あたしはさっきゲンちゃんが置いた、テーブルの上の袋を開ける。白い湯気がふわっと袋から舞い上がり、あたしの頬をやわらかくなでた。

「あ、肉まんだ。まだあったかい」

「ちょうど三個あるよ。食べよ」

「でもこれ……いろちゃんとナナちゃんとゲンちゃんの三人で食べようと思って買ってきたんじゃないですか?」

 風花が申し訳なさそうに言う。あたしはちょっと考えてから「いいのいいの」と笑った。

「ゲンちゃんが『食っていいよ』って言ったんだから、遠慮なく食べよ」

「そう? じゃあ……いただきます」

 ナナちゃんもにこにこしながら「いただきまぁす」と声を上げる。

 台所の電気ストーブをつけて、ごちゃごちゃしたテーブルで女子トークをしながら、ゲンちゃんが買ってきてくれた肉まんを食べた。ほかほかとあったかくて、どすの利いた声で話すナナちゃんの話はおもしろくて、あたしのお腹も心もほっこりと満たされた。


 次の日、学校に持っていくバッグの上に、ラーメン屋のメニューがのっていた。

「なにこれ」

 ぐしゃぐしゃになってしまった紙を、ゲンちゃんに見せる。ゲンちゃんは朝ごはんのトーストをかじりながら、あたしを見ないで答える。

「そんなもんでよければタダでやるよ」

「え、昨日は一万円って言ったくせに」

「ま、俺も大人げなかったし」

 ゲンちゃんがそう言って、マグカップに入ったコーヒーを勢いよく飲む。

「あっち!」

「ほんと大人げないね、ゲンちゃんって」

「うっせ」

 あたしはくすっと笑い、奥の部屋に向かって「ナナちゃん、いってきます」と言う。するとメイク中のナナちゃんの「いってらっしゃい」って声が返ってくる。

 猫舌のゲンちゃんは「水、水!」と叫びながら、水道の蛇口をひねっていた。あたしはそんなゲンちゃんの背中に声をかける。

「ゲンちゃん、いってくるね」

「ちゃんとその絵、あのガキに渡せよ」

「はぁい」

 背中を向けたままのゲンちゃんに返事をして、あたしはコーヒーの香りが漂う小さな家を出る。

 玄関の外には青い空が広がっていて、あたしは澄んだ真冬の空気を、思いっきり胸の中に吸い込んだ。

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