ハリボテ全力

 全力で走った。呼吸は乱れ、喉の奥から血の味がする。喉は乾いて、胸の辺りが痛い。肺は酸素を求め、脇腹に攣ったような違和感がある。骨盤は普段の可動域よりも大きく動き、膝は一歩踏み出す度に悲鳴をあげる。


 ヒールの踵は既に何処かへ飛んで行った。足の甲が擦れて痛い。踵も痛い。全身の隅々がくまなく痛い。


 次の角を曲がった右手の扉。書類を左手に持ち替え、髪の毛を軽く整える。右手でドアを素早くノックしてから開く。


「すみません!遅れました!」


 会議室のドアを開けると元々皺だらけの顔にマシマシの皺を寄せた人達が、こちらを侮蔑の目で見ている。奥に一人だけ慌てた顔で早くこちらに書類を寄越せとジェスチャーをしてくる。お前なぁ。

 こんな時の二言目には主役は遅れて登場するもんだ!なんて啖呵を切りたい。しかし、目の前の空気は二言目から最後の言葉まで謝罪の言葉しか有り得ない。




「それでなんとか謝り倒して契約取れたは良いけど条件が厳しくなっちゃったんですか?」


「そうなのーそれ全部私のせいだってさ。元々は課長が忘れたんだよー」


 肺に煙を吸い込み愚痴と共に吐き出す。さっきまでの全力疾走なんて無かったことのように身体は落ち着いているしタバコをやめる気もさらさらない。


「えー課長ヤバくないですか?そういえばこの間私も──」


 今回の仕事の責任は十中八九課長の元に戻っていく。会社というのは責任は上に、雑用は下へというベクトルが出来ているから。


 それでもこうして後輩に喫煙室で愚痴っているのはただの処世術。愚痴を言える関係性というのは本音を晒しているように錯覚しやすく、いざという時に味方になってくれる。もちろん相手の愚痴もちゃんと聞くことが大事。


 結局は全てハリボテなのだ。全力も味方も。その時だけ必要なもの。


「お疲れ様です」


 天使が通った。いや、天使が入って来た。という方が簡潔かもしれない。

 それまで賑やかに愚痴大会を繰り広げられていた喫煙室は無音になる。


「お疲れ様でーす。大隈さん、データ送っておきますね」


「はーいよろしくー」


 素早くタバコを消して俊敏に逃げた後輩は賢い。

 天使は一番奥のパイプ椅子に腰掛けるとキャメルに火を付けた。


 沈黙が気まずい。アメスピは1本で他のタバコ2本分の時間がかかることが取り柄だけれど時々裏目に出る。


「大隈さんって足速いんですね」


「えっ見られてたんですか?」


「そりゃあ目立ってましたよ」


「お恥ずかしいです」


 この人には時々話しかけられる。私が一人の時にだけ。他の人に聞いてもプライベートな話は聞いた事がないという人が大多数でこれといった情報ナシのため会話を広げる方向性が未だに掴めない。


「何かトラブルがあったんですか?」


 来た。けど愚痴が嫌いな人かもしれない。ここは軽くジャブを。


「先方の重役揃いの会議だったんですが課長が資料を印刷し忘れて大急ぎで印刷してきたんですよー」


「それは大変でしたね」


 …今日はよく天使が通るな。ここは丁度天国への通り道なのかもしれない。


「変なこと聞いてもいいですか?」


「えっ?はいどうぞ?」


 天使が三人ぐらい通って会話は終わったと思った頃に唐突に口を開く。テンポも掴みにくい。


「大隈さんって裏番長って感じですよね」


「えっそうですか?どの辺が?」


 とんでもない方向から質問が飛んで来てまたもや掴みにくい。そして図星かもしれない事でこれまたやりづらい。


「人の心を掴むのが得意そうな感じとか、自らは手を下さないところとか」


「いやー全然ですよ」


「けど本音は誰にも言ってなさそう」


 自覚のある図星を突かれてとても痛い。ここは本音っぽい話と質問で回避するか。


「…まぁそうですねー本当の本音ってなかなか言えないですよ。瀧さんはサラッと本音言えます?」


「大体は本音ですね。思った事言ってしまうのであんまり人と関わらないようにしてますけど」


 来た、手応えだ。


「そうだったんですね。人と関わらないっていうのは傷付けないように?」


「そうですね。学生時代痛い目を見たので」


 学生時代の痛い目は私もよく分かる。そこで学習したことを活かした結果、目の前に立てたハリボテに喋らせている。


「けど傷付く時って大抵図星な事を言われた時ですよねー瀧さん洞察力が鋭そうですし」


「言われたくない事を言ってしまうんでしょうね」


「そういう人って憧れますけどねー芯が通っているというか、ハッキリしててカッコいいとと思いますよー私は人に合わせてばかりですし」


「…やっぱり大隈さん面白い」


「えっそうですか?」


 質問攻めと肯定で私から意識を逸らそうとしていたのにまたもや突拍子もない返しが返ってくる。


「私が質問していたのに結局本音を話したのは私になってました。大隈さんってめちゃくちゃ頭いいでしょ」


「いやいや、そんな事ないですよー成績は中の中でしたよ」


「大隈さんの事が知りたかったのに知らず知らずのうちにこちらの心を開かれます」


 身を守る盾のように煙を自分の目の前に吐いてみるけれどすぐに視界はクリアになる。やりにくいな。私のことなんて知らなくていい。知って引かれることが怖いからハリボテを立てているのに、ハリボテを倒そうとしてくる人は私にとって厄介者以外の何者でもない。だからか、少し次の言葉には棘が含まれてしまった。


「どうして私のことを知りたいんですか?」


「うーん…なんか気になるんですよね」


 先程までの簡潔な応答からは打って変わってなんだかはっきりしない答えになる。ちょっと言葉が強すぎたかもしれない。冷静になれ、私からハリボテを押してどうする。


「恋の病?かもしれませんね」


「瀧さんてばまたまた〜」


 半分ほど減ったタバコを口に運び、座ったままの上目使いでこちらを見てくる。そんな目で私を見るな。


「今度飲みに行きませんか?その方が本音話してくれそう」


「いいですね〜あそこの居酒屋知ってます?」


 ハリボテはちゃんと笑えているだろうか。

 ハリボテの裏の私といえばチョロくて、綺麗系なお姉さんに弱くて、たった一言で期待に胸を膨らませて、もしかしたらお仲間かもとか、学生時代の痛い目って私と同じようなことなのかもとか考え始めていると知っても彼女は失望しないだろうか。


 薄く笑いながら煙を吐くその唇に吸い寄せられてしまう。


 もし、同じ価値観を持っているのなら。もし、同じ痛みを知っているなら。ハリボテを蹴り倒して全力の私を見せてもいいのかもしれないと思ってしまう。

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