『1:07.55』


 私が拳を握ることで時間は止まった。


 私が時間を止めた彼女は長い四肢を生かし、反動を付けて水中から飛び出してくる。

 水しぶきは時間を止めず紫外線に反射すると重力に従いまばらに落ちていく。水に落ちるものは最後にもうひと飛沫を、コンクリートに落ちるものはシミを残して。


 彼女は帽子とゴーグルを外して、何が楽しいのかヘラヘラしながらこちらへ向かってくる。


「どうだった!?」


「うーん…今日は調子悪い?」


「ありゃー…そうだね。スタートでもたついたかも」


 バインダーに挟んだ記録用紙に記入していると彼女が覗き込んでくる。昨日よりも下がってしまったとまたしてもヘラヘラしながら言っている。

 覗き込んだ拍子に髪の毛から滴る水が私のペンを握る手に落ちてくる。


「あっと、ごめん」


「平気」


 手の甲を濡れた手で拭ってくる。その瞬間、全身に鳥肌が立った。

 いつもこうだ。普段は抱きつかれたって大丈夫なのに。この時だけ。


「ちょっと休んでもう一回やってみようか」


「うん。ちょっとやってみたいことがあるんだよね」


「色々やってみよう」


 今日の気温は30度。雲もなく快晴。風が吹くと気持ちのいい天気。まるで鳥肌という言葉には合わない。

 この時期だけ設置されるプールサイドのテントの中に戻ると暑さは少しだけ和らいだ気がした。

 彼女はテントの半分に引いたブルーシートの上でストレッチを始める。


「それ、暑くないの?」


「このパーカー?紫外線避けだよ。薄いからそんなに暑くはない」


「あぁそっか紫外線アレルギーなんだっけ」


 本当はかなり暑いが紫外線を遮ることよりも鳥肌を隠す方が今の私にとっては役立っている。

 パイプ椅子に座って記録用紙の数字をノートにまとめる。


「そう。このメガネも」


「へぇ!いつも部活の時だけかけてるよね?じゃあ度は入ってないの?」


 首筋に水が降ってきた。

 いつのまにか後ろに立っていた彼女にメガネを取られる。収まったはずの鳥肌が再び全身に襲いくる。


「あっちょっと」


「おぉ、度がない!これで紫外線がカットされた?似合う?」


「水着にメガネって属性多すぎ」


 いつも以上にヘラヘラしてこちらを見てくる。メガネを外す拍子に髪の毛から雫が落ちる。その瞬間、ゴール直前のようなスローモーション。水滴がブルーシートに落ちるまでをじっと眺めてしまう。


 首筋に少しだけ、鳥肌が立つ。


「大丈夫?具合悪い?」


「あ、いやなんでもない。メガネ返して」


「はーい。あ、ちょっと動かないでね」


「いや、自分で出来るから」


 彼女は外したメガネを私にかけなおす。髪の毛から指先についた水滴が私の頬に滴る。


「おっとまたやっちゃった」


 彼女は手のひらで私の頬を拭うと「ごめんごめん」と言いながらやっとタオルで髪の毛を拭き始める。言葉を失うほど今までにないぐらいの鳥肌が全身を襲った。視界が歪み、寒気と同時に吐き気までも襲いくる。


「そうだ、私まだ息継ぎが多い気がするんだよね。だからもう少し減らして──」


彼女の言葉が聞こえなくなる。呼吸が乱れて視界がブラックアウトする。


「えっ…大じょ…?鼻血…て──」


 そこから先は覚えていない。


 気づいたら保健室にいて、夕方になっていた。湿った体操着が肌に張り付いて気持ちが悪い。横を見ると制服姿に戻った彼女が椅子に座って食べかけのパンを持ったまま寝ていた。彼女は部活の後必ず何かしら食べている。


「あ、気づいた?多分熱中症と軽い脱水症状ねー」


「熱中症…」


 デスクで何かを書いていた保健室の先生が私を見て立ち上がった。頭がまだぼんやりとしていて言葉を理解するまでに少し時間がかかる。


「運動しなくても水分補給しなさいね。それからその子に感謝しなさいよー水着のまま走ってきたんだから」


 先生がベッドサイドにある飲みかけのスポーツドリンクを飲みなさいと言って私に渡すと白衣を脱ぎ、帰る準備をしながらこちらに話しかけてくる。


「それ、その子があなたに飲ませてたやつだから。それ飲んだらもう大丈夫だからその子起こして帰りなさい」


「ありがとうございます」


 私たちが保健室から出るのと一緒に先生も出て鍵を閉めた。


「今日は食欲ないかもしれないけどちゃんと食べて早く寝るのよー」


 と手を振って颯爽と帰宅していく。廊下に残された私たちはのんびりと教室に置いたままの鞄を取りに行く。


「いやー驚いたよ」


「ごめん。練習出来なかったよね」


「大丈夫だよーまた明日みてよ」


「うん…ねぇこれさ、どうやって飲ませたの?」


「え、秘密」


 汗をかいたペットボトルから水が滴る。また少しだけ鳥肌が立った。

 水が滴るたびに、また触れてもらえるんじゃないかって思ってる。

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