初めて

 初めての感覚って覚えているだろうか。


 いやらしい方の『ハジメテ』の話ではない。三十歳を超えると日常生活での『初めて』がすっかり無くなってあらゆる感覚が鈍くなってくるっていうおばさんの感慨の話。十代の頃に感じたドキドキも二十代の頃に感じたキラキラも何も無くなってしまった。


 かといって自分から求める元気も時間もない。その代わりに貰ったのは責任とお金ぐらい。


「馬場さん、健康診断行こうか」


 半年前ぐらにい中途採用された馬場さん。接点もなく話すタイミングもなかったけど、年齢が近いからという理由で一緒の日になったらしい。らしいっていうのは部長から一緒に行ってあげてって言われなければ忘れてたぐらいには目立たない感じの子。


「はい。すみません。ありがとうございます」


 大きいけれど華奢な体をのっそり立ち上がると事前に書き込んだ問診票を持って私の後をついてくる。


「んじゃ部長行って来ますねー」


「あいよーいってらっしゃい。何も見つからないといいねぇ」


「怖い事言わないでくださいよ」


 ハハハと適当に笑っておく。手を振る部長に会釈して徒歩二分の病院に向かう。部長は前回コレステロール値が高かったって大騒ぎして毎日豆乳を飲んでいたけど一ヶ月で飽きてたから今回もまた騒ぐだろうなぁ。


「馬場さんは健康?」


「え?まぁ、どうでしょう」


「あ、それを今から調べに行くのか」


「ふふっそうですね」


 病院に着くと診察着を渡されて更衣室に向かう。二人で狭い更衣室に入るとそそくさと着替えを始める。

 こういうのが恥ずかしいと思っていたのはいつまでだったか。


 服を脱ぎながら更衣室の壁に貼られた注意書きを読む。ふむふむ、ブラもアクセサリーも外すのか。あっしまった。ピアス外しづらいやつだ。


 思い立ったら行動してしまう癖は仕事では結構役に立つけど下着のままピアスを外そうとし始めたのは少し後悔している。非常に間抜けな姿である。着替えてからでもよかったのに。


 外れないピアスに悪戦苦闘していると横目で馬場さんがYシャツを脱いだのが見えた。横目で見ていたものだからふと感じた違和感に顔を引っ張られてそちらに向けてしまった。またすぐ行動してるってば。


「おぉ、馬場さんタトゥー入ってるんだ」


 頭に浮かんだ言葉をすぐに言ってしまうのも悪い癖。


「あぁそうなんですよ」


「へぇー馬場さんだから馬?」


 肋骨が薄っすら浮かぶ脇腹に馬が跳ねていた。白い肌に黒い馬のコントラストが映えている。毛並みが細かく書き込まれていて綺麗な馬。


「それもありますけど実家が牧場なんですよ」


「そうなんだね〜すごい綺麗な馬。でもちょっとびっくりだ」


 地味な子だと思っていたからちょっとどころの話じゃない。だってさっきまでカーディガンのタグがひっくり返ってるのを見て(ユニクロだー)とか思っていたから。失礼を承知でユニクロ=地味だと思いこんでいるから。


「あの、会社に言ってないんですけど大丈夫でしょうか…?」


「大丈夫じゃないかな〜禁止されてないし、服脱がなきゃ分からないし。私もいちいち言いふらさないよ」


「ありがとうございます…あの、ピアス外すの手伝いますか?」


「あっごめんお願いしたい」


 話している間もずっとピアスに苦戦していたものだから気を使わせてしまった。いやはや申し訳ないけど気の使えるいい子だねぇ。二歳しか変わらないけど。


「いや〜ついつい付けっ放しにしちゃうんだよね」


「あー分かります毎晩取り外せる人って本当にマメなんでしょうね」


 話しながらピアスを外そうとしてくれる。フープピアスは付けっ放しでも軽いし細いから手入れも楽なんだけどいかんせん着脱が面倒くさくて、結構力を入れないと取れない。


 馬場さんも結構な力を入れてるみたいで私から見える腕に筋が張っている。


 それでも耳に負荷がかからないようにしてくれているみたいで全然痛みや違和感は無い。時々力を入れていない指が耳に触れてくすぐったいけど。


「馬場さんもピアス開けてるの?」


「はい。右に四個と左に三個ぐらい開いてますよ。今日は外して来ました」


 タトゥーが先に来たからもう何が来ても驚かないと思っていたけど、天然か養殖か分からない緩いカールを描く髪の毛の下にやんちゃを隠していたなんて。


 あ、今気付いた。馬場さんも下着のままだ。

 一度気付くとどうにも気になって目線がそちらに真っしぐら。思っていたよりも筋肉質で出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいる。着痩せするタイプなんだね。


 先程から情報過多で頭の整理が追いつかないけど馬場さんは明らかに初めて出会ったタイプの人間。もっと知りたくてウズウズする。好奇心旺盛なのも私の取り柄だけど、いい大人なのでどこまで踏み込んでいいものか判断に困る。


「あっ取れました。ちょっと赤くなっちゃいました。すみません。痛くないですか?」


 そう言って馬場さんは私の頬に手の平を軽く触れさせながら耳を撫でた。思わず身体がビクリと反応してしまう。瞬間、スイッチが切り替わったかのように心変わり。思い立ったら行動モード。


「あっすみません」


 私の反応に驚いた馬場さんが手を引いてしまう。


「いや、くすぐったかっただけ。ありがとね。お礼に今度飲みに行かない?」


 くすぐったいと思っていたのに馬場さんの手が名残惜しく感じる事が不思議だった。


「えっいや、ピアス取っただけですよ?」


「いや〜本音を言うと馬場さん面白そうだからもっと話聞きたくて。どうかな?今週末とか」


 思い立ったら行動モードに切り替えた途端に思い浮かんだ言葉がそのまま口から出てくる出てくる。


「そうですか?普通の人間ですよ。そういうことでしたら私も行きたいです。今週末は空いてますよ」


「よしっじゃあ後で連絡先交換しよ」


「分かりました。楽しみですね」


 ワクワクする。ドキドキとかキラキラしたものに近いけれどまた違ったもの。これは初めての感覚。私の中にまだこんな感覚が残っていたなんて。


「馬場さーん、末永さーん着替え終わりましたー?」


 更衣室の外から看護師が呼んでいる。


「すみません!今行きますー!ごめんね馬場さん」


「いえ、急ぎましょう」


 まだワクワクしてる…いかん、血圧が正常に測れないかもしれない。血圧を下げるなら納豆だよ!という部長の顔が思い浮かぶ。しばらくは納豆の差し入れが続きそうだ。

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