どうか忘れさせて

 嫌悪感が本物になったのはいつからだろう。


 愛を誓い合った勇者にかけられた呪いが分かった時、彼女は最後に記憶をなくすのは自分だろうと確信していた。それは、浮ついた気持ちではなく、世界の誰より勇者を愛しているという自負と自信が彼女にあったからだ。


 恐ろしくて仕方がなかった。勇者の事を忘れたくない。


 世界と愛。他人から見れば秤の傾きは、火を見るまでもなく明らか。

 

 でもそういう問題ではない。恋する一人の女として、どうしても彼を心から消したくなかった。

 

 いっそのこと、勇者に魔王を殺さないようにお願いしようかとも彼女は考えた。けれど、そんなことを言えばきっと彼に嫌われてしまうと思った。そして、こんな我がわがままを通そうとしてしまう自分が嫌いになってしまいそうだった。


 そこで思ったのだ、彼女が勇者を嫌いになってしまえばいい、と。


 倒錯とうさくした思考だと十分に理解していた。でも、勇者との思い出を忘れてしまうぐらいなら、嫌いになって側に居続けようと思った。


 最初は当然うまくいかなかった。好きだから嫌いになるなんて感情は壊れている。橋の両端に同時に立てないのと同じことだ。

 

 でも忘れたくないから嫌いになるように思いつく限りの様々なことをした。


 勇者の悪い癖を考えたり。揚げ足を取ったり。荒探しをしたり。


 魔王幹部とも繋がりを持った。彼らは私の行動を不可解に感じていたようだけど利用できれば何でもよかったんだろう。


 そうしていくうちに罪悪感は徐々に消え、魔王城に攻め入る頃には勇者に嫌悪感を抱くまでになった。


 城に残されたのは強敵のみ。呪いの仕組み的にもう彼女が勇者の事を忘れることは無い。魔王を倒した暁には、勇者と婚約し二人で穏やかに暮らすことができる。


 彼女は安堵した。そして気づくことになる。

 

 彼女は勇者に対して殺意を持つようになっていた。


 湧き上がるどす黒い衝動が一体どこから来ているのかもはや彼女にも分からない。


 窓際で水車を眺める彼を、家ごと魔法で吹き飛ばそうと考えたことがある。牡鹿を静かに狙う彼の後ろから剣で切り付けてやろうと睨み付けたことがある。農園で野菜を作るときに毒を仕込ませ毒殺しようと企んだことがある。


 殺したいはずがない。そのはずなのに、心臓に剣を突き立てられ絶命する彼の顔を、彼女は恍惚こうこつを浮かべながら想像している。


 おかしい。間違っている。こんなはずじゃない。


 彼女は勇者が好きなのだ。好きだから嫌いになったのだ。

 

 どうすれば、どうすれば彼女は自信の愛情を再確認することができるのか。


「そうです。殺してもらいましょう」


 魔王亡き今、人類最大の敵は救世主に殺意を向ける彼女自身ということになる。


 倒錯に倒錯を重ね、愛に歪んだ彼女は、この方法の欠点に気づかないまま、躊躇なく勇者に自分を殺させた。


 そして彼の記憶を失うことで彼女は最愛の情を証明する。


 もちろん、彼女が愛の証明を見届けることはなかった。


 勇者の生死さえも。



 


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どうか僕を忘れて タチバナタ @tachi0402

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