第4話 勇者の剣

 夜の街道を照らすのは月明かりのみだった。

 雪解け水でぬかるんだ地面はとても走りにくく、油断すると足を取られて転んでしまいそうになる。


 でも勇者は冷静ではいられなかった。いや、努めて冷静でいようとはしたが、膨らみすぎていた疑心の風船は今や破裂寸前。風船が一人で割れてしまう前に確かめたいことがあった。

 

 だから全速力で湖畔の自宅へと急いだ。

 彼女の安否、そして、真実を明らかにするために。


「おかえりなさい。あなた。遅かったですね。何かあったのですか?」


 けたたましく自宅の扉を開けた勇者の目に飛び込んでみたのは、愛しい彼女の笑顔だった。


 とても癒されそうにない、血濡れの笑顔だった。


「こちらも大変だったのですよ。王国の騎士たちがいきなり攻めて来たんです」

 

 彼女の足元には血溜まりができていた。そこには蓮の花ではなく、数十人はいる兵士たちの亡骸なきがらが浮かんでいる。


「訳が分からないことを言っていました。私が魔王軍の幹部と秘密裏に会っていたところを見た人がいるらしいんです。はぁ、魔王を倒したのは我々なのに、なんでこんな根も葉もない疑いを掛けられなければならないんでしょうか」


 彼女は心底迷惑そうに、そして残念そうに肩を落とす。


 今朝までの勇者ならば、彼女の言葉を優先し、無理やり納得しただろう。

 だけど、今、勇者の彼女への疑いは破裂寸前。


 くわえて、兵士たちの亡骸。その死に様があまりにも惨すぎる。五体不満足。四肢がバラバラにされ、山積みになった頭部の眼球はえぐりだされている。


 彼女がこんな残虐ざんぎゃくな殺し方をしないことは勇者本人が知っている。

 

 けれど、心優しい彼女が偽りであれば、話は別だ。


「どうしたの、あなた? そんな怯えた目をして」


 頬について血を拭いながら笑顔で彼女が近づいてくる。勇者は思わず警戒して後退あとずさってしまった。


 その瞬間、張り付いた鍍金めっきが剥がれる様に彼女の笑顔がこぼれ落ちた。


「なんだ、気が付いていたんですか」


 笑顔が剥けた彼女の表情。形容するならば邪悪。

 明確な殺意と悪意を滲ませた悪魔の形相だった。


「じゃあ、殺しちゃいますね!」


 彼女が剣を構えて突進してくる。得意の風魔法を剣に纏わせている。

 確実に勇者を殺す気だった。


 嘘だと言ってほしかった。たとえ裏切りがあったとしても、勇者はそれを飲み込んで見ないふりをしてもいいと思っていた。それほど、彼女とのこれからに光を見出していたのに。


 今日という日ほど、彼が勇者という運命を呪った日はない。


 愛する者に裏切られた。それだけで、魔王を倒そうと奮闘してきた幾数もの年月が無駄だったように覚えてしまう。


 このまま彼女に殺されたならどれほど楽だろう。


 彼女の剣と魔法の実力は本物だ。勇者彼女が本気でぶつかり合えば、互いに傷つき合い無事では終われない。 


 それ以上に愛する女を殺すなんて、勇者にとっては魔王殺しよりも苦心を強いられる。


 でも、彼はやはり剣を取る。


 忘れ去られても彼は勇者なのだ。長年の戦いで骨身に染みついた、人類救済の信念が敗北を許してくれなかった。


 全てはこの世界の民の為。


 大義を翳して勇者は剣を振りかぶった。胸の中で燃える「裏切りへの怒り」という小さな炎に蓋をして。


 長期戦を覚悟していた。しかし、結末はあっさりと訪れる。


 武器を振りかざしたままの無防備な彼女の腹に勇者の剣が突き刺さっていた。


 彼女は治癒魔法を使えない。勝敗はこれで完全に決したと言っていいだろう。


 だけど、なぜ彼女が剣を振り下ろさなかったのか。勇者には分からない。


 血を吐きながら、彼女が力なく崩れ落ちる。

 そして虚ろな目で勇者を見上げると、悲痛を隠さず滲ませて彼女は呟いた。










「あなた、誰?」

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