第2話 雪上の足跡

 勇者と誰にも呼ばれなくなってからの彼の日課は、もっぱら狩りだった。


 魔王軍は殲滅せんめつした。魔物は残っているかもしれないが滅多に人前に姿を現さなくなった。でも勇者はじっとしてはいられなかった。その間、よくない想像ばかりを繰り返すからだ。


 剣を握っているときは無心でいられた。精神を刃のように研ぎ澄ませ、獲物の息の根を止めることだけに意識を割ける

 

 脈打つ命をただ静かな刃で貫く。


 一つ残念なことがあるとすれば、勇者が本気を出せば狩りなんて一瞬で方がついてしまうということだ。あまりに集中できる時間が短いと、すぐに頭が雑念に支配されてしまう。


「お見事です。剣さばきは衰えていませんね」


 彼女が近くにいるのであれば猶の事だ。

 彼女は勇者パーティの一因だった。勇者と同じく剣も使うが魔法も多彩で、近接後衛とも頼りがいのある魔法剣士だ。本気の勇者と剣を交えても、実力は同等だろう。


 純粋な仲間として見ていた昔には考えもしなかったことだ。


「夕飯は牡鹿おじかのスープにしましょう」


 風の魔法で牡鹿を運ぶ彼女は、なぜか愛し合った勇者を覚えたままでいる。


 大事な人に忘れ去られる勇者の呪いは万人に有効だ。だから魔王を殺した時に、勇者と彼女は赤の他人になってしまうと覚悟していた。


「あなたの大好物でしたものね。楽しみにしていてください。腕によりを掛けますので」


 微笑みかける彼女は、かつて勇者にとっての砂漠のオアシスだった。魔王軍との戦いは汗すら枯れ、涙も萎れる程の激戦の連続だった。彼女がいなければとっくに勇者の心は熱風に舞う砂のように乾き散り散りになっていただろう。


 しかし、この微笑みも今の勇者には不審の種でしかない。


 彼女はいつ心変わりしてしまったのだろうか。愛を囁き合った日々は幻だったのだろうか。

 それ以前の問題として、よもや彼女は魔王軍の敵なのではないか。


 最悪の想像だ。仲間に、しかも最愛の女性に疑いをかけるなんて恥ずべき行為だ。


 それでも考えずにはいられない。彼は人類の敵を滅ぼすために生まれた勇者なのだ。


「さあ、冷えてしまう前に帰りましょう、あなた」


 彼女が勇者に背を向ける。そこに不信は一切なく信頼以上の愛だけがある。


 でも、もし彼女が魔王軍の手によるものだとしたら、勇者は涙を堪えて首を撥ねるだろう。


 だけど、まだだ。


 彼女が敵だという確証が出てきてしまうまでは、せめてこのままで。


 勇者がゆっくりと彼女の後を追う。まじまじと彼女の背中を見られず、雪の上に残した小さな足をなぞって歩く。


 二人の足跡も、鹿から滴る血もいずれは雪に埋まるだろう。


 心を埋めつくす灰色のもやも一緒に消してくれればいいのにと、勇者は願わずにはいられなかった。

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