どうか僕を忘れて

タチバナタ

第1話 どうか僕を忘れて



 カタカタと回る水車の音が耳障りだった。


 深々と降る雪も。ぱちぱちとなる暖炉も。蛇口から滴る水滴も。絶え絶え続いて鼓膜をかすかにつつく音。

 普段は心地のいいはずの音色が、今の彼には鬱陶うっとうしくて堪らない。


 こんな静かな冬の夜は、余計なことまで思い出してしまう。


『神の力には代償が伴う』


 勇者に選ばれた彼が神から最後に掛けられた言葉だ。

 

 当初はその意味も分からず、旅を始めても何ら悪影響はなかった。勇者は呪いなんて忘れ、仲間たちと魔王討伐への旅路を進めた。


 呪いの効果に気が付いたのは、魔王軍の幹部を倒した時だった。 


 仲間の一人が勇者のことを忘れていた。

 男は勇者と古くからの友人だった。神託しんたくを受けた勇者を助けるために同じ村からともに旅に出た幼馴染だ。

  

 それなのに旅の記憶も、昔の思い出も幼馴染は綺麗さっぱり忘れていた。


 そこで気づいたのだ。

 

 勇者にかけられたのは「周囲の人々が勇者を忘れる」呪い。倒した敵に応じて、「勇者を大事に想う」人たちが彼の事を忘れてしまう忘却の呪いだ。そしてそれは、倒した敵の強さと比例する。


 名も知らぬ下級モンスターを倒した時には、名も無い村の女の子に忘れられた。

 魔王の側近たちを倒した時には、両親に名前すら思い出してもらえなかった。


 こんな呪いなら身を焦がしたほうがよっぽどましだ。魔王を倒したその時には、彼を一番大事に思ってくれる誰かが記憶を失うのだから。


 しかし、それでも勇者は剣を放さなかった。


 それは勇者が勇者と呼ばれる所以ゆえん。自己犠牲の信念がそうさせたもの。


 たとえ自分が忘れ去られ、愛する恋人すら呼びかけてくれなくなったとしても、悲しむのは自分ひとり。魔王討伐の大義と天秤にかけることすら烏滸おこがましい。

 

 そう無理やり納得して、勇者は誰も彼の事を覚えていない王国へと魔王の首を持ち帰った。


 でも、勇者はもう独りでいいと考えていた。あとは一人寂しく王都のはずれで余生を過ごそうと。


 なのに、


「ただ今帰りました。あなた」


 愛を誓い合ったはずの彼女は、なぜか勇者を忘れていなかった。


「冷えてかないません。あなたもお買い物に付き合ってくれたらよかったのに」


 外から帰ってきた彼女の白い手が微かに赤く上気していた。そのかじかんだ手のまま、彼女は美しい金髪にかかった雪を払う。


 彼女の手の柔らかさと撫でると心地よい金髪。そして勇者に向けられる笑顔は、紛れもなく彼が愛した彼女に違いない。


 でも。だとすれば、だ。

 愛しい彼女だとか確認するたびに勇者の中にある疑問は膨れ上がっていく。


 どうして彼女は俺を忘れなかったのだろう、と。

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