バベルの頂き 恋人達の黄昏
宮埼 亀雄
第1話
第一章
表決の時まで残り六時間。コンピューターのスケジュールに無駄はない。これだけの時間を予定するのは只事ではない。
秘書のマキも少し落ち着かないように見える。もちろん彼女も表決の結果を心待ちにしているからだ。席に浅く腰を掛け、女性らしく膝を揃え美しく伸びた下腿に私の意識が向くと、彼女はさり気なく重ねた掌《》てのひらを膝の上に添えた。
その細くしなやかな指にきらりと光る指輪が見止まる。彼女とは長い付き合いの筈だが、あんな指輪をしていただろうか。金色の台に大きく輝く宝石。私は記憶の糸を手繰る為にモニターに意識を移した。そして滅多に見ないカレンダーを展開すると、空間に映し出される数字を眺める。
たぶん、私の年齢は既に二百歳を越えているだろう。私ほどの年齢になると記憶のデータ量も膨大となり自分が何歳だったのか誕生した日がいつだったのかさえも、にわかには思い出せなくなる。肉体を持つ人間であった頃の記憶など、深遠の底に沈む
あった。これだ。増設に増設を重ね続けた物理メモリー群の、もっとも古臭い鈍重なドライブの奥底から私の古い生態データを拾い上げる。
私はヒロ、生まれた時に両親の付けた名前は
膨大なデータの海を監視し、機械と協力して世界を管理運営するのが私の役目だ。
生物としての限界を向かえた人類が、進化の末にたどり着いた答えは機械との融合だった。西暦二千二百年の一月一日、全人類百二十億人の電子世界バベルへの移動完了をもって、人間の生物としての役割は終了した。
物理世界上のシステムを交代で保守する運営者を除けば現在、地球上に居住する人間は居ない。当初こそ、一部の人々は電子世界への移住を拒んだが、将来の危険性を鑑みて、二基のコンピューターと人類の代表者であるネゴシエイターの下した判断は収監だった。
自然に生きる事を望んだ彼らは、強制的に電子世界へと移住させられた。はじめの頃こそ強権的であると反発も起きたが、彼らの動物的な破壊行動が観測されると、我々の判断が正しく、強制措置が妥当であった事は証明された。
それというのも、彼ら強制移住者達はシステムに対し反乱を起こし。システムの破壊を繰り返した結果、強制移住者たちは自らの生態データ及び記憶データを破壊してしまったのだ。事実上の自殺を図ったのである。
我々人間の肉体は既に消滅しており、その構成データと記憶のみがプログラムデータとして保管されているのだから、何者もコンピューターシステムに逆らう事はできないのである。それを論理的、理性的に受け入れられなかった彼らは、暴力的かつ刹那的な旧世代の人間であった事が証明された。例え、物理世界に留まっていたとしても危険な存在だったのだ。
こうして人類は、神から与えられた地上の楽園を明け渡し、機械に従う事で新しいステージへと進化を遂げたのだった。
そして今、私はコンピューターと管理者との協議の結果を待っている。議題は原種保護法改正と隠されたデータの開示だ。
原種保護法、俗称原種法とは、電子世界と現実世界、機械と人間のあり方を定める基本法である。人類が肉体を捨て電子世界に移り住む条件として要求したのは、時間の統一、生態データの保存と再現である。希望すればいつでも肉体を持つ以前の人間へと戻れるということだ。時間は機械にとってはそれ程重要な事柄ではないが、人間の感覚に同調するリアルな時間の概念は、人々に安心感を与えてくれる。しかし実際には、機械化を推し進め続ける人間社会では、時間の感覚が徐々に加速しているというデータも観測されている。
作業員以外にも観光のために現実世界へと、一時的に戻る人達は存在する。しかし現実世界へ戻ったところで、人々は電子世界の素晴らしさを再認識するに過ぎず、すぐさま舞い戻る事となるのだ。
多くの人達は、現実世界で起こるイレギュラーな出来事に、はじめは感動するが、すぐに飽きてしまい不快な自然環境に閉口しはじめるのだ。それだけ電子世界の作りこみはリアルで、絶妙なバランスに調整され運営されているのである。ゆえに原種法の問題点は現実世界に有るのではなく、実の所、我々が現在暮らしている電子世界にこそ存在しているのだ。
電子世界における原種保護法の適用範囲は多岐に渡っている。様々なレベルに問題はあるのだが、重要なものの一例が自由恋愛の禁止である。
電子世界で自由恋愛の禁止に何の意味があるのか、なんとも不可解な規則ではないか。状況把握のために理由を知りたいところだが、ここに原種保護法最大の問題点があった。それが一部データの閲覧制限だ。人類の代表者である私、ネゴシエイターにさえ、コンピューターは閲覧を許可しない。それには何か理由がある筈だ。
電子世界上の人類は、物理世界上では不可能だった全人類のリアルタイム ソーシャル ネットワークRSNに接続され、各人の意識が全人類間で共有されている。人類が電子世界から外に出ようとしない理由もここにもある。人間はそもそも社会を作ることで進化してきた生き物だった。例えどんなに孤独を好む個体であっても、人間社会の存在を意識する事で安心感を得ていた。
ここで疑問が湧く事だろう。プライベートも共有するのかと。しかしここは電子世界である。動物的羞恥心や好奇心の存在を意識できても、現実世界の様に暴走はしない。欲望や妬み・嫉妬など、人間にとって最も危険な感情をコントロール出来るのが電子世界最大のメリットなのだ。
であるから恋愛も、肉欲であるとか独占欲・猜疑心等とはまったく無縁の、極めて純粋なものだ。それがわかっているにも拘らずなぜ、恋愛を禁止するのか。例えば、自殺した自然主義者達は、人としての拠り所までも自然に依存していた。暴力や猜疑心という極めて動物的な行動原理を人間らしさと誤解し、電子世界への共鳴を拒否した。しかしそれ以外の人々は受け入れているではないか。それにプラスしてデータ閲覧の制限。これは論理的かつ合理的な疑問であり、我々人類に対するコンピューターの裏切り行為の可能性さえもある。
当然コンピューター側も人類の疑問を理解している。
前述の様に、人間はネットワークで繋がれ、更には個人のデータスベースはコンピューターとも接続されている。人間同士がお互いの存在を意識する様に、コンピューターも人間を意識し人類全体の意識を理解している。すでに、人類そのものが一つのコンピューターといえるのだ。
なのに何故? それこそがコンピューターが人間を制限している理由だろう。二基のコンピューターと全人類、この三者のパワーバランスを保とうとしていのではないか。機械と人間の融合、そしてネットワークによる並列処理、進化し続ける人間というシステムは、今やコンピューターでさえ凌駕しようとしている可能性があるのだ。
第二章
「表決に時間が掛かっていますね」
秘書のマキが心配そうに声を掛けた。
「時間はたっぷりとあるさ、しかしデータのやり取りと処理程度ならものの数秒で完了する筈だろう。数時間経っても結論が出ないなんて、相当紛糾しているとみるべきだろう」
電子世界では、時間はさほど問題ではない、しかし人間にしろコンピューターにしろ、膨大な時間を掛けて確立された理論と構造そして展開する情報を持ち合い共有する存在である。ゆえに議論になる事さえ希なのだ、紛糾するとしたらそれは何らかイレギュラーな問題が生じているからに他ならない。
この究極にまで整備された電子世界において、そのような問題が発生する事自体が大きな問題といえるではないか。物理世界では個体差や、感情・思惑、その他様々な要素がお互いの合意形成を阻害してきた。争い罵りあい憎悪し殺しあってきたのが人間の歴史だろう。いや、地球上に生命が誕生して以来、それが生物の歴史そのものではないか。それが遂に、人類の進化は自然の呪縛から解き放たれ、機械化を経て新しいステージへ、高みへ神の領域へと今たどり着いている。
私はこの二百年、これ程までに時間を気にした事は無かった。今回の議案によって、人類は最後の抵抗を排除し更なる進化を遂げる。その瞬間に今、私は立ち会おうとしている。
人類が機械の呪縛から解き放たれ、遂に哲学者フリードリッヒ・ニーチェの提唱した超人へと進化する第一歩なのである。その為には、動物の本能からの脱却と原種保護法禁止条項を撤廃して、人間の真の姿を取り戻す必要がある。前者は既に成し遂げた、そして残るのは後者を達成するだけなのだ。
染み一つ無い、真っ白な天井を見上げる私の傍にマキが寄り添い、その優しい手で私の頬を撫でる。
「ヒロ、もうすぐよ」
私たちは愛し合っている。この完全なプラトニックな世界で純粋な心の愛を育てている。それが例え電気信号と無機質なデータの羅列であったとしても、二人にとってはとても大切な愛の結晶なのだ。
そして視界の片隅をあの指輪が横切った。
「こんな指輪持っていたかな。誰かからの贈り物かい?」
マキは優しく答える。
「あたしも覚えていないの。二百年前に大切にしていた宝石箱から見つけたのよ。おもちゃの指輪だけれど何故か愛おしくて、きっと生きていた頃のあたしの大切な宝物だったのね」
確かに間近で見る指輪は安物の、角のメッキがはげ掛かけている、
第三章
既にこの世界には、長大な時間の流れの中で出来上がった私たち各々の記憶が、データ領域に膨大な量蓄積されている。
そして電子世界では、現実世界では不可能だったことも可能となった。生態データは保護され変更は出来ないが、生態データをベースにした電子世界の初期値は変更可能なのだ。顔や姿形は簡単に理想像に書き換えられる。個別の認証データ以外は変更自由だからだ。
誰だって見た目は若く美しくありたいだろう。そうでないなら弄らなければよいだけだ。私も彼女もきっと生態データからは随分とかけ離れているに違いない。
しかし、心と心が解け合う愛こそが純粋な愛だ。容姿など問題ではない。性別や人種も、肌の色や家系も、年齢さえも超越した純粋な愛がこの素晴らしい電子世界には存在している。
やがてモニターがポップアップし、評議会から私への呼び出しが告げられた。
「いよいよね。評議会が貴方の意見を聞きたいと言っているわ」
マキは立ち上がり評議会室へと向かう私にすがりつき、爪先立ちに背伸びをして私と強く口づけを交わした。
「世界人類の九十九.九九パーセントの人達が貴方に期待してるわ。頑張って」
本来、評議会では二台のコンピューターと私を加え、三者で話し合うのが通常の協議だが、今回は私が発議者なのでルール上同僚に代わってもらった。
しかし私も同僚も全人類と意識を共有しているのだ、私に交代し話したところで事態が進展するとは到底思えない。
厳重に防護された評議会室に着き中に入ると、同僚が何もいえないと言いたそうに、不思議そうな顔をして「発議者である君でなければ理解できないというんだ。なんとも不可解だよ」と、言った。
勿論私にもコンピューターの考えは不可解だ。私もほぼコンピューターと意識の共有が出来ていると思っていたのだから、尚更理解出来ない。やはりコンピューターは何か隠し事をしている。
「ごきげんようヒロ」
二つ目の防護壁の通路を進みコンピュータールームへ入ると、女性の声が聞こえた。
二基のコンピューターはまるで双子だ。声のトーンは少し違うが、まるで女性二人と話している気分になる。コンピューターが女性の声色を好むのは、女性には人間に安心を感じさせる特性がある事を熟知しているからだ。
「このままの会話で良いかしら、それとも直接コードの交換がいいかしら」
データが大量で複雑な場合、ソースコードとデータの受け渡しの方が短い時間で済むが、今回は協議なのだ。
「では、このままで」
軽く挨拶を交わし席に付いた私は早速質問に入る。
「今回珍しく協議が滞っているようですが、何かあったのですか?」
「彼女も元気そうね」
私の質問を無視して、マキへ話題を振る意味を計りかね私は困惑した。もしかしてマキに何か問題があるとでも言うのか……。
コンピューターが無駄な会話などすることなどありえない。これは彼女と私の関係が原種法に抵触したという事なのかも知れない。しかし、今まで規定を超える意識を持ったことはなかった筈だ。
私はマキに意識を移すが、しかしマキの気配を感じられない。すかさずコンピューターが、「この部屋は今ネットワークを遮断しています」と言った。
「何故です?」
「それは」
「だって」
双子のコンピューターが困惑している。こんな事態は、ネゴシエイター歴が長い私にも経験が無い。
「私を隔離するおつもりですか?」
「そんな事はしません。協議が終わり次第開放しますし、内容を公表する判断は貴方にお任せします。わたし達は皆さんを信じているのですから」
「そうよ、信じてるわヒロ」
私は二人の声に単刀直入に質問を返した。
「では早速、議題の可否を伺いたい。恋愛禁止項目撤廃と閲覧禁止データの開示です」
しばらくの間、双子が黙り込む。話し合っているのか? やがて一人が話し始めた。
「わかりました。では閲覧データから、その後は貴方の判断に任せましょう」
その意味深げな言い回しに私は緊張した。しかし、これで全ての謎が解ける。人類は神に一歩近づけるのだ。私に躊躇する選択肢は無かった。
「わかりました。はじめてください」
返事をすると私の視界は暗転し、大量のノイズが乗る古いアナログデータが展開された。それは昔の動画に似ている。私は人間の記憶の曖昧さがそうさせる事を知っている。そう、小さな子供の爆発的に成長する脳細胞が、幼いがために鮮明なカメラ映像を歪めてしまうからだ。
映像は私の意識に直接描かれているので、当然私視点の疑似体験となる。
私の目に女性が映った。女性は目を細め私の顔を覗き込み、額にキスをしたり
『愛してる』
やがて立ち上がれる様になり、よちよちと不器用にも
『愛してる。貴女を誰よりも、この世界の誰よりも愛してる』
やがて話せる様になると、友達達との遊びを覚え、やがて異性も意識し始める。
『それでもけして変らないものがある。それは貴女への愛』
玩具で遊び、両親の愛を一身に受けて育った子供は外の世界へと飛び出し、自転車に乗り買い物にも出かけるようになる。
『それでもいつも貴女のことは忘れない』
お正月には知らないおじさんおばさん、祖父母達が訪れて、新しい生命の健康を願い心のこもったお年玉をくれる。
幼い心は物欲の嬉しさを覚えるが、何に使っていいのか考えることはまだ出来ないでいる。でも一つだけ確かな事がある。『それは貴女への愛』だから、初めてのお年玉の使い道は決まってる。
いつもの駄菓子屋に飾ってある、女の子達が憧れる、素敵な素敵な宝物。お店の人が包んでくれたプレゼントを、大好きな大好きなあの
なぜか涙の光る貴女が受け取るその指に、おもちゃの指輪が美しく輝く。
見覚えのある、メッキのはげ掛かけた指輪。
第四章
泣く事など、随分昔に忘れていた。
怒りも憤りも当に忘れていた私の感情が、人間の感情が今、突然私の全身から溢れ出すのを感じている。崩れ落ち嗚咽を堪えられない私にコンピューターの声が優しく囁きかける。
「思い出しましたか。これは貴方の封印された子供の頃の記憶です」
「あぁ、思い出した。マキは私の母だ……」
「人間は長く生きると昔の記憶を処理しきれなくなり自分が何者であるのかさえも忘れてしまう」
「愛は素晴らしい。人間は機械には無いものを持っている。だからヒロ、人間には愛を忘れないで欲しいのです。例え人間が機械になろうとも、人間である事までは捨てないでください」
「お願い」
壁をつたい評議会室を後にする私は、コンピューターに言った。
「今私は、機械にだって十分に愛を感じています。貴女たちの優しさを、人間を慈しむ愛の深さをね」
私は大きな誤解をしていた。コンピューターは人間を欺く為にデータを隠していたのではなかった。人間を傷つけない為にデータを隠していたのだ。そうしなければ、人間が犯した多くの過ちが、愛しい人達を傷つけてしまうから。
コンピューターは知っていたのだ。超人とは人間が人間では無くなる事を。神から与えられた全ての恩恵を捨てさってしまう事を。
かつて私が肉体を持つ人間だった頃、高等教育を受け政府の直轄事業に従事していた。電子世界構築から管理に至るまで、あらゆる事業に携わった。その頃には母や家族とは絶縁状態だった。この計画は、それほどまでに全人類の利益となる壮大な事業だったのだ。
母はその後どうなったのか、家族・親戚の消息さえも私は忘れはててしまっていた。私は超人になる為に、人間である事を捨ててしまったのだ。
オフィスに帰った私の顔を、マキが心配そうに覗き込んでいる。
「なんだか顔色が悪いわ」
私はマキを強く抱きしめ、その耳元に囁く。
「愛してる」
「私も愛しているわヒロ」
これは神を超えようとした私への罰なのか? 例え、そうであったとしても私は喜んで受け入れよう。
永遠の命の中で、例え偽りの言葉であったとしても、この愛を伝え続けよう。私は貴女を、この世界の誰よりも愛しているのだから。
〈了〉
バベルの頂き 恋人達の黄昏 宮埼 亀雄 @miyazaki3
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