三味線

 雨が強い日は、環子さんと会話した庭での出来事を思い出します。

 梅雨が明けたころ、夕立が滝のように降っていた日のことです。入道雲が文字通りの巨人のように風をかき分け、頭の上を通り過ぎていっていました。このままでは猫の姿では何もないところで溺れてしまう、かといって人の姿だと、服が濡れて不快だ、と思い、どこかに雨をしのげる場所はないかと見まわした所、近くに環子さんが暮らしている洋館があることを思い出しました。

 早速そちらへ向かい、煉瓦造りの生垣を越え、敷地内に侵入しました。庭の真ん中に西洋風の東屋(後で知りましたがガゼボというらしいです)が見受けられ、そこに彼女は物憂しげに肘をついて降り注ぐ雨を眺めていました。

 こんなに雨が激しくては、風情もないのでしょうに、と猫のまま声をかけると、

「お姉さま、ごきげんよう。お濡れになっておかわいそう、じいやに手拭いを持ってこさせましょう」と返してもらえました。

 執事らしき初老の男が現れ、手拭いを渡すと、テーブルの上に載っている私を一瞥しただけで、そのまままた建物の中へ戻っていきました。

「あなた家ではどういう扱いを受けてるの?」

「いい扱いはされていると思うよ。だけども人間基準ではちょっと変わった子のように見えるみたいだね」

「猫基準でもかなり変わってるのにね」

 環子さんは苦笑いと、はにかみの中間のような笑みを浮かべました。

 そんな笑い方ができるなら十分よね、と私は続けました。

「例えばの話、父母に愛されているのなら……」

「死んだ娘の愛を奪っているので後ろめたく思わないか? という問いならば、この十年だ幾度となくしたよ。答えは出ていない。いえ……後ろめたくは常に思います。だけども、私の中で父母を騙すことをやめるという選択肢は、あの日から絶対に選ばないと決めたのだよ。それが独善であっても。だからわたくしは幸せになる」

 結婚して子供を作って? 多分家柄から考えて、政略結婚のようなものになると思うけど。

「わたくしにとって選択とは、あの子ならどちらを選ぶか、というものです。あの子が選びそうにない相手は、出来る限り拒否はしますよ」

 あなたはそれでいいの?

「何を言ってるんですか。生命の一生なんてすでに十分楽しみましたよ」

 環子さんのゆるぎない言葉に、それもそうよね、と私は頷きました。

 彼女は私を手拭いで拭きながら「こんなに汚れてしまって、お姉さまの自慢の毛並みが台無しですね」と言いながら抱きかかえました。

 すると、環子さんは、自分の舌で、私の喉の下の毛づくろいをし始めました。舌先が頭や首の後ろ、耳や顎などを這い、汚れが取り除かれていきました。猫と人の舌は形が違うので、奇妙な感覚はあるものの、何やら懐かしい気持ちもありました。昔もこうやって舐めあったものです。激しい雨により高ぶっていた気持ちも、毛づくろいにより落ち着いてきました。

「しかし、あなたが人に化けているときは初めてよね……人に見られたらどうするのよ」

「これぐらいはする娘だと思われてるから大丈夫」

「『あの子が選びえない選択はしない』とは一体……」

「あの子もそれぐらいする子だったよ。成長してもね」

「なかなか個性的な子だったようね」

 かなり控えめな表現をしました。

「とはいっても、あの子のために姉さまに危害を加えるといったことはしないので、安心して」

「なら……」は常ずね思っていることを問おうと思いました。「人と妖が戦争をすることになった時、あなたはどちら側につきますか? 仲介をする、とかいう中途半端な答えでなく、本当にどちらかを選ぶことになるとしたら」

 環子さんは俯き、うーん、と声を出して悩み始めました。自分でも意地悪な問題を出したと思います。人と妖の戦争なんて、起こらないほうがいいと、私自身も思っていましたから。

「そうだね」と環子さんはようやく頭を上げ「仲介をして人と妖が手を結べるようにします」と迷いなき顔で答えました。

「話聞いてた?」

「ええ、それでも間を取り待ちますよ。不可能でも、だって」

 と彼女は最後に、私を一舐めしました。

「お姉さまと敵対したくはないですよ」


 その答えは環子さんが人側につくという宣言そのものにしか聞こえませんでした。

 八方美人のようで、はっきりと意思を持った言葉……彼女の意志の強さなんて最初からわかっていたことですが。

 環子さんの骨を拾うことになったあの日。私は彼女の言った言葉が、頭の中をずっと回っていました。


 ◇ ◇ ◇


 主様が失踪した三日後、お姉さまたちは嵐山から西に行き、松山の山頂にある金毘羅神社の床下で、作戦会議をしていた。

 京都中の野良猫と若い化け猫が集まっていて、情報を集め意見を交換していたのだ。強い雨が社の屋根に降り注ぎ、大きな音を立てる中、にゃあにゃあと猫たちの話す声が絶えず鳴り響いていた。暗がりの中、光る猫の目がうごめいていた。

「あ姉さまの主殿が、三味線工房に入っていったところを見たという情報が」

 黒縁の猫が、お姉さまに向かって言った。

「その情報は確か?」

「間違いないと思います」

 そこへ控えていた三毛猫が、前に出てきた。

「お姉さま、工房に霊媒師の類が入ったという情報はありません。しかし、化け鼠の臭いがするだとか」

「鼠程度なら、戦力的には大したことないわね」

「いえ、噂では、猫殺しの鼠だとか」

「何それ、旧鼠ってこと?」

「お姉さま」と縞模様の猫が前に出た。「お姉さまのご主人は、探偵の真似事のようなものをしてたとか」

「それいつの話?」

「お姉さま! 三味線工房に警察が集まっていますわ! 猟奇殺人事件だとか!」「三味線職人が猫をさらっているのではないかという、お姉さまの疑問の元調べてみましたが、猫の行方不明はあまり増えてないようです。それでいて、同業者に比べてかなり生産速度が速く異常だとか」「猫が脱皮したと思ったら、毛が抜けただけみたいです」「近年では裕福な人の間では波斯ペルシャ猫が人気だそうです」「西洋に売樽うるたるという猫の国があるそうです」「島原で飼われていた白猫が一度に二十二匹も子を産んだそうです」「錦糸きんし町の魚屋は猫を飼っているそうです。でもその猫は実は化け猫で、一日のうち数時間は人として暮らしているそうです。その化け猫も猫を飼っているそうです。化け猫に買われた猫は人を飼っているそうです」

「待った! 待った! 最初に言った子、もう一度言ってちょうだい!」

 猫たちは口々に自分の調べたことを話していた。協調性のかけらもない。しかし、その中でも、お姉さまにとって聞き捨てならない言葉があった。

「えっと探偵の真似事を……」

「それも重要そうだけど、次の!」

 猫たちはその小さい顔を見回しました。

「工房で猟奇殺人事件……」


 雨。

 降り注ぐ雨は、水飴のように重く感じた。到着したくないという、重い足取り……不安によって呼吸が荒くなり、溺れているような感覚……。それは工房に集まる人だかりを見るにつれて、強くなる。夜はすっかりふけ、闇の中に群れて咲いている蝙蝠傘の表面が、街灯の光を反射していた。お姉さまたち化け猫は、人気ひとけのいない暗がりから、女学生の集団となって、姿を現した。はたから見たらなんとも異様な光景だったかもしれないが、未熟なものばかりだったので、化けることが出来る種類が少なかったのと、緊急を要したので、仕方がなかったのだ。傘をさし、工房に向かおうとしたが、人だかりのせいで、前に進めない。私だけでもと、お姉さまは猫に化けよう腰をかがめたが、横から制止されたため、動きを止めた。

「私が行きますわ……お姉さまはお待ちください」

 久美子さんが傘で顔を隠すようにしながら言った。

 お姉さまは、ご武運を、とだけ囁き、久美子さんは漆が溜まった壺に落ちたような、真っ黒の猫となり、人垣の中に消えていった。

 彼女たちにとって、久美子さんが戻るのを待つ時間は、猫生じんせいの中において数本の指に入るほど長く感じた。


 最悪の事態を想定して、すすり泣きを始める者、楽観的な乾いた笑いで慰めようとする者、ただ無言で俯いている者と、女学生たちは、様々な表情を浮かべていた。お姉さまはただ、黙って目をつむり、久美子さんの帰りを待っていた。パトカーのサイレンや警察官の叫ぶ声が、雨音に交じり耳鳴りのように響いていた。

 一刻ほどたった後、ようやく人垣から黒猫が現れた。女学生たちは、彼女を囲み、壁となり、人型となるのを待った。

「報告します」大勢に囲まれている状態で、もの怖気ず言った。「工房にて若い人の女性の生皮が発見されたようです。」

 皆は口々に息をのみました。

「首筋に黒子が三つ並んでたとか……」

「環子さんね……」

 お姉さまが呟いたことにより、少女の一人が倒れそうになった。

「まさかわざわざ人の状態のときに、皮をはいだと? 猫の状態の時なら良いってわけでもないですけど」

「鬼畜め……三味線工房の者は、地獄から迷い込んだ鬼に違いない」

「いや待ってください。そもそも化け猫は皮を剥がれたら死ぬんですか?」

「……やったことないからわかんない」

「試してみる?」

「いやですよ痛いし」

「静かに……」お姉さまは、口々に話す化け猫たちを、遮るようにつぶやいた。「よほどの猟奇趣味でない限り、人がわざわざ生きたまま先に生皮を剥ぐという行為を取るとは思えない。殺してから剥いだと考えるべき。そのよほどの猟奇趣味を持っていた場合は生きていると仮定すると、ならば一層許しては置けない」

 猫たちは黙る。

 俯くお姉さまは、学生たちの間を通り抜け、黙って前へ進んだ。

 皆は慌てて追いかける。ただ声は発せずに、黙って彼女の次の言葉を待った。猫たちが望む言葉が、発せられることを。

 やがて彼女たちは、人気のない空き地に到着した。草の生い茂った広場の真ん中に行くとお姉さまは立ち止まる。

「私たちは猫だ」

 彼女はそう言い放つと、数歩ほど歩いた。

「豚ではない。猫は人の家畜にはならない。そう私は宣言する。確かに一部では猫を食べる文化は存在する。しかし、時代が進むにつれ猫食に拒否感を示すものは、より多くなってきている。なぜか? それは我々が導いているからだ。愛嬌や庇護欲と言った物は、弱さととるものがいるだろう。しかしそれらは我々にとっての武器だ。だからこそ、我々は豚ではない」

 また彼女は数歩歩いた。生い茂った草がそれに合わせて揺れる。

 少女たちはまっすぐと、お姉さまを見ていた。

「私たちは猫だ。犬ではない。犬は人に従順になりえる。猫は従順なふりをして、常に人の心を疑っている。だからこその信頼関係もあるだろう。ゆえに我々は犬ではない」

 お姉さまは大きく息を吸いこんだ。

「だからこそ誇りはある! 家畜にはならないという誇りが! 従順になりすぎないという誇りが! では友が殺されて、黙っているのかが誇りか? そんなものはない! ならばやることは一つ!」

 次第に声が大きくなっていった。しかしお姉さまは、いったん声を落ち着けた。

「私たちは猫だ。人ではない」

女学生たちは跪き、猫に戻る。口々に大きく鳴き、そして次第に姿を変えていく。

「だから、こそこそと探偵の真似事をしたり、法律を守ったりするのはもういい」

 お姉さまの体が膨れ上がるように大きくなっていく。めきめきと筋肉が捻じれるような音がした。不定形のようなそれは、次第に巨大な猫のような形を取り始めた。毛が黒に染まり始め、そして黄色に変わっていく。点滅する用に色が変わり、黄色と黒の縞模様となった。

 目玉は大きく、瞳は小さい、表情に破天荒さを浮かべたような、それはまるで曾我蕭白そが しょうはくの描いた虎が屏風から出てきたような姿。

 そう、虎。

 虎は吠えた。

 嵐山の街の真ん中で、空気を轟かす咆哮を。

 その瞳からは一筋の涙が、零れ落ちた。

 「工房を潰す」

 

 

 初めに。

 一匹の黒縁の猫が、印度象いんどぞうに化けて、工房の前に止まっているパトカーに向かって突っ込んだ。

 やじ馬たちの人垣が割れ、あたりは混乱の渦に染まる。押しつぶされる寸前で、中にいた警察官が脱出するも、そこへ追い打ちをかけるように猩猩しょうじょうに化けた猫が現れ、車を亀のようにひっくり返した。

 瓦斯倫ガソリンが漏れ出て、あたりに緊張が走る。さすがに身の危険がこちらにも及ぶとみて、印度象と猩々は、パトカーから離れた。

 ――次の瞬間自動車から火柱が上がった。轟音が響く。

「妖怪か!」警察官の一人がそう叫び、手でいんを結び始めた。

 式が身を召喚し、火柱に向かって弾丸のように射出する。「火生土!」一瞬燃え盛る炎をより強くなったかと思えたが、次第に小さくなっていった。かと思うと大量の土砂が、パトカーから漏れ出ていた。

 次はお前だといわんばかりに、猩々に向かって、式神の媒体たる呪符を飛ばした。「陰陽師の者か!」猩々はかすり傷を受けながらも、距離を置いた。

 体勢を崩した猩々を見ていた印度象に向かって、糸のようなものが、巻き付けられていた。否、糸ではない。数珠だ。頭を結った警察官の腕から伸びており、彼は念仏を唱えていた。「化け解!」印度象から力が抜けていき、猫に戻りかける。猩々が慌てて、数珠を剥がしにかかるも、同じように化けの皮がはがれかけた。

 ――そこへ空を飛ぶ錦鯉の大群が、警察官を取り囲む。神道系の警察官が隔離結解を張ろうとするが、間に合わず大正三色や紅白が爆ぜた。火の代わりに桜の花が爆発となって広がる。文字通りの桜吹雪。「吸うな! この桜は毒だ!」警察官の一人が叫び、皆が息を止めた。警察官の一部が撤退を始める。戦争へ行っていた警察官なら、よくあることなので、息を止めたまま戦うことができたが、若い者には無理だったようだ。一寸先も見えぬほど濃く桜の花びらが舞っていた。まとわりつく花たちが、人間たちの動きを鈍らせた。少しだけ薄くなり、視界が通るようになった。

 足音が響いた。巨人たちがあたりを闊歩するような音。

 警察官たちが見上げる。何かが彼らを跨いだ。次々に頭上を通り過ぎていく。あれは、木だ。桜の木が歩いている。桃色の吹雪が次第に晴れていった。そして、通りの向こうに何本もの桜の木が立っていた。

 警察官たちが武器を構える。桜の木たちも、枝を腕に見立てて、こぶしを構えるような恰好を取った。

 両者がお互いに走り出した。


 祭りだ。嵐山で祭りがある。

 そんな噂が、京都中の妖怪たちに広まった。日頃の鬱憤をためている者。日頃から暴れてるので、さらに暴れたい者。暴れたくないが、暴れている奴を冷やかしに行きたい者。暴れるのを止めたい者。近くにいて巻き込まれた者。

 様々な妖怪が祭りと聞きつけ駆け付けた。

 稲荷大社の狐が猫側につき、. 狸谷山の狸が、じゃあそれならと、警察官側についた。鞍馬の天狗が、空で酒盛りをし、北野天満宮前の妖怪たちが入り乱れて、喧嘩をしだした。沈静化のため、平安神宮の陰陽師や御所の旧裏皇宮護衛官が駆り出された。

 そんな混乱の中、輸送されていた、三味線工房の倅を、一匹の虎が連れ去った。絵から飛び出したような、奇妙な姿の虎だった。


 お姉さまは、男を子猫のように咥えて、土砂降りの中、京都の町の家々の屋根を走っていく。大通りはそれなりの高さのビルジングが立っているが、少し離れると、瓦屋根の家が並んでいた。お姉さまが足を下すたびに、瓦がはがれ、土が舞った。

 そんな家の屋根の一つに、お姉さまは倅を投げた。お姉さまは着地し、吠えた。

「環子の体はどこにある」

 三味線工房の倅はゆっくりと体勢を立て直した。

 男の顔は何とも捉えどころのないものだった。殺人罪の容疑者として連行されている途中、いきなり虎に攫われたというのに、特に驚いた様子もなく、ただ不思議そうに虎を見つめていたのだった。

 もう一度虎は吠えたが、男は何か不明瞭なことを呟いた。

「五匹は必要だな……」

 じれったくなったお姉さまが飛び掛かる。男は屋根から屋根に飛び移り、虎から距離を置いた。呪文めいたものを呟いたと同時に、いきなりえづきだす。そして喉元を抑えたかと思うと、吐瀉物を屋根にまき散らした。胃から撒き散らされた食物だった物に交じって、何やらうごめくものがあった。よく見るとそれは鼠で、二匹、三匹と、男の口から現れていく。五匹現れてそこで、嘔吐は止まり、男は口元をぬぐった。男は指を鳴らした。鼠たちのうち一匹が、怪しげな煙を立てて、変化していった。鼠は三味線となった。男はそれを手に取り、懐からばちを取り出し、弾き始めた。

 ――べん……べべん……べべん。

 小さな音であったが、不思議と雨音にかき消されず、しっかりとお姉さまの耳に届いた。

 男は胃の中に化け鼠を飼っていたのだ。

「おのれ面妖な!」

 そう叫ぶと、虎は頭の形を変え始めた。頭が三つに増え、さらに尻のあたりに新たな頭をはやした。

 再度虎は、男に飛び上がる。べん……と三味線を一つ鳴らすと、四匹の鼠が隊列を組み、彼の周りを回り始めた。鼠たちが龍と変わり、虎を弾き飛ばす。とぐろを巻いた龍が、男に巻き付いていた。長さは一〇メートルほどで、頭の大きさは狼と同じ程度であった。

 龍が火を吐いた。虎も負けじと火を吐いた。

 炎が交差し、お互いの皮膚を焙ったが、雨のおかげで、それほどまでの傷とはならなかった。炎の陰に隠れ虎が横に跳ねる。男も横に跳ね、家々を渡っていく。再度虎は火を吐き、それを目くらましとして、猫へ変わり懐へ飛び込んでいく。男は龍を放った。猫はそれをかわす――かに見えたが、男が三味線の弦を弾くと、龍が突如二つのへと分裂した。うち一匹は、猫は目で追えず、巻き付かれる形となった。蛇のような動きで、龍はお姉さまを絞めつけていく。猫は地震の骨がきしむ音に、悲鳴を上げた。

 鼠とは猫の天敵である。なぜこんなにも苦戦するのか?

 その理由は、男の所属する幻城まぼろぎ工房にあった。

 幻城工房は起源を江戸時代に持ち、同時に妖術師としての性質を持っていたのだ。これはそこまで珍しいことではなく、動物の肉体を使用した楽器を作るという行為は、元来呪術めいた行為であると、古来の民話や伝承をたどれば、おのずとわかってくることであった。

 工房は三味線の製作と同時に、様々な動物の飼育もおこなっていた。

 より良い楽器を作るために、特殊な妖術的環境下で動物たちを交配させ、尋常ではない生物を作っていく。この化け鼠も、そんな特殊な生物製作においての副産物だった。

 窮鼠猫を噛む、という言葉がある。

 これは、絶体絶命の窮地に追い詰められれば、弱い者でも強い者に逆襲することがある、というたとえであるが、語源たる鼠は猫を噛んだことで拍が付いているのではないか。そう男の先祖の一人は考えたのだった。妖怪とは、思いや、信仰、言い伝えによって生まれる。ならば猫を噛み殺せた鼠の妖怪は、「猫殺しの鼠」の妖怪になるのではないか。

 まず猫と化け鼠を用意し一匹ずつ同じ檻に入れる。猫が鼠を食べたら終わり、鼠が猫を噛んだら二匹を檻に出す。そしてそれを繰り返す。何度も繰り返しているうちに、猫を食い殺せるようになった鼠が現れてくる。

 男が使役しているのは、そんな猫殺しの鼠の妖怪細胞を受け継いだ、化け鼠だったのだ。もっとも、平和な世の中で役立つことはあまりなく、今回が初陣だったが。

 二匹の龍が、猫を締め上げていく。猫は虎へと変わったが、状況はあまり改善しなかった。

 虎は吠えた。目の前で立っている男に向かって。地の底から声を絞り出し、雷鳴に負けぬほどの大きさで吠えた。

 何故だ、なぜ友を失わねばならなかったのだと。

 内臓が圧迫され、首が絞められる中、お姉さまは吠えることしかできなかった。声は、様々なものへと、変わっていった。猫の鳴く声、虎の吠える声、人の泣き叫ぶ声。虎は人の姿へ変わっていった。弱弱しい女学生の姿へ。

 男は黙っていだが、人の泣き叫ぶ声のせいで、哀れに思ったのか、それとも人の姿になった訳が分からず、探りを入れるためか、数歩だけ近づいた。

「お前は……」

 男はつぶやいた。真意を測ろうと、少しだけ首を下す、次の瞬間

「――化け解!」

 ――お姉さまは叫んだ。


 昔、お姉さまたち三人が、比叡山のふもとで、破戒僧の元修行をしてた頃。

「お前たちには一つだけ技を教えてやる」

 そう、和尚様は切り出した。

 お姉さまは浮足立った。これで、お師匠様に向かって、一泡吹かせられるのではないかと。正直、彼女は日々の修行にうんざりしていた。残りの二人は過去のことを反省し、真面目に取り組んでいたが、お姉さまだけは、まだどこか反抗的だった。それを察し、僧は錫杖しゃくじょうでお姉さまの頭を叩いた。

「これを教えるのは、お前たちには悪用しにくいからだ」

 うずくまるお姉さまを横目で見ながら、僧は続けた。

「これを使うと妖怪などの変身を解ける。だが妖怪が使うと、同時に自分の変身も解ける。あと人型でないと使えない」

 確かに悪用しずらい技だ。かといって善い使い方も、しやすいというわけでもない。そして悪用できなくもない技だった。半月後、三人は見事技を習得する。

 お姉さまはさっそくお師匠様に向かって使ってみた。

 もしや、この破戒僧は妖怪が化けているのではないかと思い、念のため使ってみたみたいだが、案の定意味はなかった。

「があ!」

 しかし、お姉さまのほうは苦しみ始めた。

 体が溶け、表面が乾留液タールのような黒さを持った物質となっていく。自身が不定形の化け物になっていった。

「え……なんで……猫に戻るだけじゃ……?」

 写経をしていたお師匠様はそれを見かねて、お経を唱えた。骨が形成され、内臓が風船のように膨らみ形を作っていく。むき出しの筋肉が皮膚でおおわれていった。

 お姉さまは慌てて新しくできた肺で、荒い呼吸をした。

 困惑しているお姉さまに向かって僧は言った。

「もしやとは思ったが、お前、猫じゃないんじゃないか?」

「え……」

 そんなはずはない。確かに猫だった記憶はある。

 あの大空襲の夜。防空壕で少女の腕に抱きかかえられ、物語を聞きながら息を引き取ったことを覚えている。

「そもそも妖怪とはなんだ? 生物なのか? 概念なのか? どこからきてどこへ行くのだ? 死んだ妖怪はどうなる? 輪廻を回るのか? それとも消失するのか? わからない。俺はわからない」

 そう破戒僧は独り言のように言うと、写経に戻っていった。


 龍が鼠に戻り慌てふためく。

 それを横目で見ながら、お姉さまは自身が溶けていくのを感じていた。

 確かに自分という妖怪は何なのだろうか。猫でないのならなんだ? 人のふりをする猫のふりをする不定形の化け物である自分は何だ? 自身の自己同一性について悩むのは人間らしいかもしれない。それでいて、道端で歩いている蟷螂を口に入れるのは猫らしい? 否、猫のふりをした人らしいとも言える。所詮は擬人化。ならば、自分は人なのだろうか。それもなんとも違うように、お姉さまは思った。

 目の前に男の顔があった。流石に、驚きの表情を浮かべていた。

 それを見ると、彼女は自分のことなど、半分どうでもよくなった。

 そうだ、自分には理由がある。友の敵討ちをするという理由を持っている。ならばそれが、自信を構成するものとなりえるはずだ。だからせめてこの男を殺そう。そうすれば、自分は保たれるような気がした。

 体内が煮沸した重油のように熱かった。降り注ぐ雨が表面で、蒸発していった。

 この体で男を包めば、殺せるだろうか。死んだ友の為になるだろうか、自分を取り戻せるかどうか、と。

「待って、お姉さま」

 誰だ。

 お姉さまと呼ぶということは、化け猫のうち一人か?

 ならば邪魔をするな。この男を殺すことは、お前たちの悲願でもあるだろう。

「お姉さま、わたくしをお忘れか」

 誰に向かって口を聞いてる。

 そう言いながら、お姉さまは振り向く。

 そこには環子が立っていた。

 少女の姿で、雨に打たれながら立っていた。

 

「え、なんで? なんで生きてるの? いや確かに化け猫は皮を剥がれても死なないか……でも生きたまま剥がれたのね、可哀そう、なら結局この男は許しておけな……え? 違うの? じゃあやはり、殺されてから剥がれたのね、可哀そう……生かしておけな……え? 違うの? つまり、やはり生きたまま剥がれたのね……だから違うって? どっちでもないなら、どっちなのよ。どっちかでしょう。でも、どっちでもないの? つまり、この男は殺さなきゃ駄目? え、違うって? ああ、皮は別人のだったのね。黒子が首元に三つあるだけの別人なのね。それも違う? ああ、わかった! あなたが皮に化けてたのね! なるほどなるほど! それも違う……なんなの……結局私の勘違いで、先走っただけってこと……? 私はただの道化だったってこと……? ここまでしでかしたのに、責任なんて取れないわよ……せめてこの男を殺すしか……」

 落ち着いて、お姉さま、と環子は言った。

 お姉さまは、環子を認識しながらも、男のほうへ向かうのを止められなかった。

 環子はお姉さまを抱きしめる。発熱していた不定形の物体に触っていたことにより、皮膚が焼けただれた。やめなさいとお姉さまは言った。だが環子はやめない。環子の体が、お姉さまの中に埋まる。全身の皮膚がただれながらも、環子は黒い流体の中で言った。

「何やら行き違いがあったみたいだね。ならば話しましょう。わたくしの物語を」

 体を焼かれながらも、お姉さまの中で、環子は語った。

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