化け猫

 当時のわたくしは猫としてはそれなりの時間を過ごしてはいたが、死後一七年ほどなので、妖怪としては若輩者だった。なので化けることが出来るといっても数種類ほどのみ。それはお姉さまも同じだった。その化ける種類の中のお気に入りが、女学生の姿だった。ミッション系の女学園を模していたのだが、凛とした佇まいでありながら、少女特有のあどけなさも併せ持つ所が魅力的で、化け猫たちの間でも憧れの的だった。またわたくしは当時、かの、少女の繊細な心模様を数々の花に托した短編連作集を読んだことがあったので、そういった花園に大変強い関心を持っていた。

 校服を着た女学生に化けたお姉さまは、市電を乗り継ぎ四条河原町のカフェへ。化け猫仲間たちとプリンアラモードを一緒に食べる約束をしていたのだ。高度経済成長を経て、人も自動車の数も増え、猫が歩むには少々危険な街と成り変わった。ならばと、それならいっそ人間に化けて、街を楽しもうと考えた次第だった。

 店内にはしっとりとした流行曲が流れ、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。お姉さまは窓際の席に目当ての人物を認め、足を向かわせた。

「ごきげんよう、久美子さん」

 近づき声をかけると、眉をひそめながらコーヒーを飲んでいた彼女は顔を上げた。きめ細やかな長い髪を携えており、目もくらむような美人なのだが、まあ化けているので驚くようなことではない。それはそうと、美しい姿と猫背な姿勢が、何とも不釣り合いで、なかなか奇妙な印象を受け、自分もああ見えるのだろうかと、心配になり、お姉さまは少し背を正した。

「あら、ごきげんよう、お姉さま」

 久美子さんは表情を変えず言った。

 ごっこ遊びの範疇ではあるが、「お姉さま」と呼ばれるたびに、少し口角が上がってしまうのがわかった。それはむずがゆさや、理想の自分を曖昧ながらに演じていることへの、酔狂もあるのだろうが、十人兄妹の末っ子として生まれた事ゆえのことだろう。

「ここ、よろしい?」とお姉さまは席を指さした。

「ええ、もちろんですわ」

「それ美味しいの?」

「あんまり」

 又聞きと小説の知識での女学生の真似なので、なかなかおぼつかないものがあった。ちなみにわたくしたちは、猫ではなく化け猫なので、ある程度のものは食べることができる。

 お姉さまは目当てのプリンアラモードを頼み、行き交う人々に目を向けた。

「本の中じゃない実際のミッション系の女学生って、普段どういう遊びをやってるのかしらね」

「申し訳ありませんお姉さま。見当つきませんわ」

 久美子さんは真顔で答えた。

「忍び込んでしまいたい気持ちもあるのよ。でも協定で決められてるのよね……」

「猫が学校に大量に侵入すると問題になりますわ。そう考えてのことでしょう」

「わかってるわよ」

 正確には猫に限らず、だが。


 お姉さまはプリンをスプーンで堀り、口に運んだ。あまりのおいしさに変身が解けかけたが、持ち前の精神力で持ちこたえた。

 前に視線を移すと、同じようにフルーツを食していた久美子さんの頭から猫の耳が生えていた。心なしか鼻面も獣じみてきている。

「久美子さん……耳がはみ出ていましてよ」

「申し訳ありませんわ。あまりに美味しくて」

 耳と鼻は引っ込みましたが、彼女のおしりと席の隙間から尻尾が出ていて、左右に動いていた。しかし表情に関してはまったく変わらず、美しい白い肌も併せて、陶磁器の仮面を被っているかのようだった。

「こういうことがあるからあまり楽しすぎる娯楽はできないのよね……」

「申し訳ありませんわ。未熟でして」

「例えば暗い所なら、ある程度は大丈夫でしょうけど」

「暗い所で楽しむ……映画とか」

「いいわねそれ。ちらっと、ポスターを見ただけだけど、巨大な猩々しょうじょうと巨大な黒蜥蜴が戦っているのが、面白そうだったわ」

「いいですわね」

 そんなこんなで、なんだかんだ言って話は盛り上がった。当時のミッション系の女学生たちもこのような話題で盛り上がっていたのだろうか。お姉さまはそう思うと何やら楽しい気持ちになった。

「あの……もしかして環子たまこのお友達の方でしょうか」

 話し込んで、少し日が傾きかけたころ、ふと一人の男性に声をかけられた。

 少ししわの寄ったスーツ(しかし、値は張りそう)を着ており。くたびれた印象を受ける表情で、歳は四〇台前半のように見える。

 確かに環子はこの場所で会う約束をしていた、お姉さまの友猫ゆうじんだ。

「ええそうですわ。失礼ながら、あなたは?」お姉さまは尋ねた。

「私は環子の父でございます」

「なんと」

 読者の皆様は、その化け猫の環子が娘なら、父も猫なのかと疑問に思ったことだろうが、そうではない。目の前の彼は――言っていることが本当なのであれば――歴としたと人間だった。何故そうなっているのかを説明するには、数年前のことを語らねばならない。

 お姉さまが化け猫になって間もないころ、人や獰猛な動物よりも強い力を持ったことにより、粋がってかなりの悪さをしでかしていた。これは化け猫にかかわらず、人外妖怪魑魅魍魎に共通することで、万能感に酔い暴れまわるというのは、成り立てにはよくあることだったのだ。そして奇しくもというか、必然的にというか、お姉さまが化け猫となったころは、妖怪が多く生まれた年だった。

 妖が多く生まれる条件、それは人の悲劇が多く生まれることだ。

 成り立ての妖怪が暴れた日本は、混乱を極めた。これを詳しくこの場に書き記すには、余白が狭すぎるのので、遠慮させていただく。

 ただこの世のことわりというものは均等をとる様にできているものだ。暴れまわるお姉さま達に対して、それを鎮める存在も多く出てきた。

 お姉さま達に罰を下したもの、それは比叡山に住まう僧だった。しかし延暦寺に住んでいるわけではなく、山の中腹部で小屋を作り修行にいそしむ、破戒僧のようなものだそうだ。

「お前たちはこのまま輪廻の輪に戻り、罰を受けるなり、魂を清めるなりのことをするべきかもしれない。しかしこの世の理から脱し、現世にとどまっているのにはそれなりの理由があるのだろう。それ自体が罰であるかどうかは、若輩者の私にはわからない。結局のところ、誰にもわからないのかもしれない。罪とはなんだ。罰とはなんだ。おれがこのままお前たちを退治してもいい。だがこの世にとどまり、罪を償いたいというのなら、止めはしない」

 お姉さまたちは傷だらけの体で、涙を流し頭を下げ、罪を告白し、これからこの世のためになることをする、と誓った。しかし環子さんだけはじっと立っていて中々言葉を発っさなかった。破戒僧は錫杖しゃくじょうを彼女に向た。

「お前はどうなんだ」

「私は……一人の人間の少女を殺めました」

「そうか」

「それは自ら望んでやったことではありませんが、だからと言って許されることではありません。和尚様の言葉で、彼女にも父や母がいたことを思い出しました。私がいくら罰を受け、償いをしても、彼女は帰ってきません。だからせめて……」

 なんと環子は、少女に成り代わり、父母の心根を癒し続けると宣言したのだ。

 これは人によっては、冒涜ととれる宣言だろう。死んだ子もそんなことは望んではいないだろうし、その父母も騙すことになる。しかし破戒僧は特にそのことは何も言わず、頷き「これからお前たちに悪事の罰として修行を行う」と言い、宣言通り三人は比叡山で何年も修行を重ね罪を清算していった。そして数年後、修行を終えた環子は記憶喪失を装って、死んだ娘の両親の元へ行った。

 なり替わることは悪事ではないのだろうか。お姉さまは、お師匠様がどういった倫理や哲学で動いているのかは、短い間では理解出来なかった。

 いろいろ思うことはあったものの、大きな決意に満ちた顔をしている環子に、お姉さまが言えることはなかったのだ。

 こうして環子は一人の人間の少女として数年ほど生きてきたわけで、喫茶店で声をかけてきた男性は、その欺き続けられている死んだ娘の父親ということだ。

「申し訳ありませんが、環子はこちらへこられません」父上は封筒を鞄から取り出した。「ですが娘から預かっていたものがあるので、この場でお渡しします」

「これはこれはご丁寧に」

 封筒の中身は手触りから察すると、雑誌のようだった。

 お姉さま達は、環子がここへ来られないのは、その時までおかしいこととは思っていなかった。猫とは本来、気まぐれなものであり、それに加え環子には人間との生活があった。しかし憔悴しょうすいしきった父親の姿を見ると何やら不穏なものを感じざるを得なかった。

「あの……」とお姉さまは恐る恐ると声を掛けた。「もしや環子さんの身に何かあったのでしょうか」

 何か迷うようなそぶりを見せ、そのことにつついて私はここを訪ねたのです、と彼は答えた。

「実を言うとここ数日娘と連絡が取れなくて……何か知ってることはないかと」

「はあ……」

 これもまた驚くことではない、先ほども言った通り、猫とは気まぐれであり以下略。親しいと思ってた友猫ゆうじんが次の日ふらっといなくなるということは、日常茶番だった。

「成替わるのに飽きたのかも……」

 と、ぼそりと後ろで久美子さんが呟いたので、お姉さまは、こら、と怒った。幸いにも目の前の御仁には聞こえなかったようだが。

「申し訳ありません、私たちも数日ほど会っていませんわ。今日という日を楽しみにしていたのに、とても残念ですこと」

「そうですか……だとしたら、やはり駆け落ちかと……」

「まあ、環子さん駆け落ちたんですの?」

 妖と人が恋愛するという話は、古今東西いたるところで聞く話だが、実際に目のあたりにするのは、お姉さまは初めてだった。

「ええ、政治家の家に嫁に出すことになってたのですが、なにやら嵐山の職人と仲良くなったようで」

「何の職人ですの?」

「三味線職人ですよ」

 それを聞いて、お姉さまは気絶しそうになった。


 悪事をしないと誓ったお姉さまが……というか化け猫全般にとって殺したいほど憎い人間というものは必ずしもいることで、その中でも三味線にかかわっている人間というのは、不俱戴天ふぐたいてんの敵ともいうべき存在だった。彼らに対して呪詛や殺意を抑えるのは並大抵の努力ではすまない。猫取りや三味線職人にも生活というものがあり、彼らにも家族があるのだろう。だが殺したい、と。

 お姉さまが、鴨川に並ぶ川床の上を歩いていると、楽しげな音楽が流れてきて、思わず聞き惚れるのだが、三味線の音と気が付き、裏切られたような気持になることがあった。なので殺したい、と。あまり「近頃の若い猫は……」などと年寄りじみたことを、宣いたくはないと考えているが、軒先から聞こえる演奏に合わせて踊る野良猫たちを見た時は、思わず虎に化けて追い払ってしまった。

「ああ、どうしましょう。どうしましょう。相手に化け猫と気づかれて、三味線にされてしまったんだわ。ああ、かわいそうな環子さん」

 お姉さまは環子の父と別れ、そのまま人通りの少ない小路に入り、久美子さんと話し合うことにした。家々の隙間から猫たちが、こちらをうかがっていた。

「落ち着いてくださいましお姉さま。まだそうと決まったわけではありませんわ」

「本当にそうでしょうか、本当にそうでしょうか?」

「そもそも相手がただの人間なら、環子さんが負けるはずありませんわよ」

「……それもそうよね」

「まあ、化け猫と気が付いた男が、高名な霊媒師や僧侶にお願いしたとあれば違ってくるでしょうが」

「……」

 悪いほうにばかり考えていても、しょうがない。前向きに考え、出来ることをすべきだ、と、お姉さまは自身を奮い立たせた。

「そうでないと考えると」お姉さまは顎に手をやり考えた「やはり逃げたのかしら?」

「可能性としては、いくらでも考えられますわ」

「別に逃げただけなら、無理に探したりする必要はないわね……もう会えないのは寂しいけど……」

「良いほうに考えると、何もする必要がないなら、悪いほうに考えて、何か行動すべきではなくて?」

「やはりそうなるのよね」

 そこでお姉さまは手に持った封筒を開けた。

 環子が失踪する前に、父に探してほしいと頼んでいたもで、お姉さまのためというのも彼女から聞いていたそうだ。

 開けると「脱皮 探偵小説集」と書かれた同人誌が出てきた。読むと、副題の通り、様々な人が書いた探偵小説が載っていた。

 環子はなぜこんなものを? と考える間もなく一遍の小説に目が留まる。

 表題は「猫牧場」。雰囲気的には、江戸川乱歩のような怪奇小説に近い内容のようだ。内容はいたって質素で、飼っていた猫がいなくなったので探してほしいと、主人公である探偵が、少女に依頼されることから始まる。そして紆余曲折あり、猫を大量に育てて、大きくなった個体の皮をはいで三味線職人に売るという業者の存在を突き止めた。急いでその家に駆け込んだ探偵だが、危ういところで猫が屠殺されるのを防ぐ。その猫は飼い猫だから返してくれと、探偵は言ったのだが、業者は、そんなものは知らない、私は猫取りから買い受けて、育てていただけなので、今更返せと言われても困る、納期もあるので、代わりの皮を用意してもらおうか、と言ってきた。この要求に対して、探偵は猫と自分の背中の皮膚を交換し、少女の依頼を達成した、というのがあらすじだ。

 お姉さまは、この微妙な何とも言えない文章には読み覚えがあった。

「これ……主様の書いた小説よ……」

「えっ小説家志望の遊民じゃなかったのですの?」

「なんてこと言うのよ」

 前にも同じような会話で「お姉さまの主様の書いた小説なんて書店で見たことがないのですが、ただ執筆活動にかっこつけて遊んでいるだけなのでは?」と言い出した久美子さんと、お姉さまで喧嘩になってしまった。そこで見かねた環子が知り合いに頼んで、探しておいてあげましょう、と言っていたのを彼女たちは思い出した。

「ということは」久美子さんは本をのぞき込んだ「探してくれていたのですね。今と筆名も違うようですが、よく見つけられましたわね」

「書いてある内容も、何やら今のことを暗示しているような……これは調べてみる価値はありそうね……あなたたち」

 お姉さまは、あたりに集まっている猫たちに呼びかけた。

「まだはっきりとしたことは言えないのだけれども、一人の友人の命が脅かされているかもしれません。ほかの猫も危ないかも――ですから力を貸してください! 憎き三味線職人を亡き者としましょう!」

 一斉に猫の歓声が上がり、肉球のついた手を、月に翳した。小さな獣たちは、散り散りに、韋駄天のような速さで、この場を離れ、夜の京を走り抜けた。お姉さまはそれを熱い気持ちで眺めていた。

「いや亡き者にしたら、お師匠様が黙っていませんよ」

 久美子さんが呟いたが、お姉さまは聞こえないふりをした。


 猫の情報網によると件の駆け落ち相手というのは、名うての三味線職人の、倅のようでして、嵯峨嵐山さがあらしやまのあたりに工房を構えて住んでいた。人当たりもよく、近所の人だけでなく、餌もくれるので猫にも人気だとか。

 喜んで三味線職人に、餌をもらう猫がいますか! とお姉さまは叫んだ。

 目の前の野良猫に対してだ。

 喫茶店で環子が失踪した次の日の朝、哲学の小怪の長屋の前に立ちながら、お姉さまは野良猫と話していた。

 長屋の作りは木造であるが、ペンキなどでモダンな西洋風の雰囲気を作っていた。

 主様が下宿している場所だ。

 人の姿で会うのは初めてで、胸の鼓動が大きく高鳴っていた。今まで会わなかったのは、猫と人との健全な付き合いをしたいがため……。しかし友の危機とあっては、手段を選んでいる場合ではない。ええいままよ、とまずは主様にお話を伺うことにしたというわけだった。

 しかしこのまま人として出会うと、あれよあれよと話が進み、禁断の関係になるのではないか……などと少しは妄想したが、主様は人嫌いの気難しい性格をしており、口を聞くだけでも大変な苦労をするはず、とお姉さまは考え、楽観視はそれほどしていなかった。野良猫と別れ、長屋に入り、額に汗を流して、緊張した面持ちで部屋の扉を叩いた。

 しばらくして「どなた?」という声が聞こえた。あまり人と話していないためか、いがらっぽい声で、それに自分で気が付いたのか、強く咳こんだ。

 お姉さまは同人誌に乗っていた名前で尋ね、自分はファンであると明かした。

「えっ、あれを読んだのかい!? 本当に!? ちょ、ちょっと待って」

 重機が通り過ぎたような音が聞こえ、その後心配になるほどの静寂が続き、ようやく扉が開かれた。

 どこから引っ張り出したのかわからないようなワイシャツにチョッキと、服装は中性的だが、体の線がしっかり女性的なので、人の目から見るとなかなか色っぽくも思えた。

 これが彼女の小説家としてのイメージなんだろうか、そんなに取り繕わなくてもいいのに。

「いや、さあさあ、汚い部屋だけど、ゆっくりしていってくれたまえ。それとも外で話すかい? あすこの喫茶店のケーキがおいしくてね」

「いえ、大丈夫ですわ。ここが先生の部屋なのですのね。いかにも小説家の部屋って感じがして、素朴でかっこいいですわね」

 前で待っている間に、緊張は薄れ、何度も来た部屋だというのに、そんな言葉をすらすらと吐くことが出来た。

 ほめても何も出ないよと、主様は嬉しそうにお茶を出し、お姉さまは「猫牧場」の良いところを語った。その一言一言に、主様は平然を装いながらも、体の節々に喜びを滲ませていた。

 人嫌いとは何だったのか……おそらく自分の小説が好きな人と会うのは初めてだったのだろう。わたくしには合わなかったものの、きっとあの話が好きな人はいそうな作風だった。そんな人に恵まれなかった故、こんなに他愛も無い性格になってしまったのだろう。

 お姉さまにとって、主様が喜んでいる姿を見るのは、うれしい反面、騙していることへの心苦しさもあった。こういうのがあるから、人に化けては出合いたくなかった。環子はこれを十年近くやっているのかと、感心した。

「ところで」

 と、お姉さまは猫牧場の話題も付き、他の文学の話題についても語り終わったあたりで、頃合いと見て、本題に入ることにした。

「猫牧場……表題ではなく、作中の猫が育てられている場所のことですけど、あそこだけ他に比べて描写が濃かったですわよね」

「まあ、重要な場面だからね」

「それもあるんでしょうが、明らかに周りとの釣り合いがおかしかったですわ」

「これは手厳しい」と主様は苦笑いをした。

「いえ、攻めているのではありませんわ」と、お姉さまは薄いお茶に口をつけ、いったん言葉を切った。「もしや猫牧場とは実在するのでは?」

「そりゃあ猫を家畜として育てている文化は昔からあるよ」

「飼い猫をさらってくるようなものも?」

 主様は眉を寄せて苦い顔を浮かべた。

「違法ではあるが、あるんじゃないかな。誰にも見つからないような山の中や、人けのない、小路道とかね」

「実際に取材に行ったりとかは」

「なぜそんなことを聞く?」

 ついに主様の顔に笑みが消えた。お姉さまは唇をかみしめた。主様に嫌な思いをさせている。しかしこれも友のため。ここで辞めては、何も進まない、と考え、姿勢を正し、手をついて頭を下げました。

「気を悪くなされたのなら、大変申し訳ありません。実を言うと友人から先生に会うのなら、聞いてほしいことがあると言われこのことを伺ったのです」

「君の友人は芸者か何かなのか?」

「いえ、しかし猫を飼っていました。そんな猫がいなくなったのです。そこで先生の小説を思い出し、聞いてほしいと。もちろん私はそれ自体が目的でここへ参ったわけではないです。次いで程度の気持ちで……いえ、こんなことをついでみたいに聞くのって失礼ですよね……本当にごめんなさい」

 震えながら頭を下げるお姉さまを見て、主様は少しバツが悪そうにした。

「随分と裕福の家なようだ」

 当時としては猫を家で飼うというのは珍しかった。せいぜい家の外で放し飼いする程度で、いつの間にかいなくなっているということも、よくあったことだ。

 主様は、茶飲みを揺らし、しばらく何か思案していた。天井を仰ぎ見ていて、とても声をかけづらい状況だった。これは……いつもお姉さまが猫として膝の上で撫でられているときに、見る表情そっくりだった。

 おっと、と主様は黙っていたことに気が付き、ようやく声を発っした。

「すまないね。つい人がいるのを忘れてしまった。まるで親しい者と共にいるような、感覚になって……いや忘れてくれ、変なことを言った」

「いえ、お気になさらずに」

 少し、心の臓の動きが早くなった。

「猫牧場は本当にあるか、……実を言うとめったなことは言えないんだが……」

 その表情は先ほどよりは柔らかくあった。

「確かに京都にあるよ」


 その後さまざまなことを話したが、これ以上のことは聞けはしなかった。初めて会ったにしてはかなり多くのことを聞けたのだが、確信についてはぼかされるばかりだった。

 主様と直に話せたことはお姉さまにとって至福のひと時だった。だがやはり、彼女とお姉さまには人と人外のものの差がある。そんな二人が親しくしすぎては、待っているのは破滅……この件が片付いたら、人の姿で出会うのはやめることにしましょう、と心の中で誓ったのだった。

「環子さんも……」

 それを感じて逃げたのだろうか。はっきりしたことは全く分かっていなかったけれども、お姉さまは如意ヶ嶽にょいがたけ大文字だいもんじを眺めながら、そう思ったのだった。ふと道端に蟷螂が歩いていたので、彼女はそれを口に運んだ。

主様が部屋から消えたのはその次の日のことだ。

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