人間
環子……この名前は捨てたつもりだ。なのでいつも、その名を聞くと、他人事のように思い、他人事のように語ってしまう。しかし、お姉さまは今でもその名前を呼んでくれる。煩わしく思う反面、嬉しいと思うこともあった。結局のところわたくしは、猫としての自分を捨てきれずに、人間を演じている。だがそれは猫が演じている人間を演じているだけなのではないだろうか。
そもそも猫は人に恋をしたりしないし、人間の本を読んで真似してみようとしたりはしない。狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり、という言葉がある。なるほど真理だ。そして猫から見たら人間なんぞ、すべて狂人である。つまり我々はその狂人の真似をしているのだから、狂人であり人間なのだ。
そのことを恋人に話してみた。
目の前にいる彼だ。すると
「擬人化は悪だ」
と答えになっていないようなことを、言い出した。
「擬人化とは人でないものに、人の感情や業を付与する。人の罪を押し付ける。『空気が泣いている』という表現のために、泣かされる空気はかわいそうだ。猫が人に化けたがために、人の親に決められた男との結婚に悩むなんて馬鹿げている」
未だかつていないほど、人以外を擬人化した意見だ。
ではそのことに目をつむるとして、もう本当に擬人化してしまった猫がいた場合はどうするのだ。存在しないからと言って、切り捨てるのか。
「確かになってしまったのならしかたがない。だが幸せにはなれるだろう」
わたくしはその意味を少し考え、「それは結婚の申し込みか?」と聞いた。
男は意表を突かれたような顔をし、同じように考えこみ、やがて言った。
「結婚することだけが幸せだとは思わないし、愛がすべてを救うとは思っていない。だが、それでも私がお前を幸せにすることは可能だ」
やはり、結婚の申し込みのようだった。
最後に聞いた。
あなたが猫を殺さずに皮を採取する方法を考えているのは、猫を擬人化して見ているからかと。
「わからない」
脱皮する猫を作ろうと思う。
初めて会った時、彼はそう言った。
「うちの実家は、三味線を作ることと、そのための猫と犬を育てることの両方をやっている。材料を取るためには当然猫や犬を殺す。それを防げないかと思った」
偽善だとわたくしは思った。そんなものを開発したからと言って、今まで殺した猫の罪は消えない。それにそれを作る過程で、どれだけの猫が犠牲になるのだろうか。
そもそも脱皮する猫とは何だ。確かに猫は古い皮を捨てるために脱皮することはあるが、使えないから脱ぎ捨てるのであって、それを利用しても商品になるはずがない。
だが興味はあったので、それとなく実験には鼠を使うのがいいと誘導した。鼠ならいくら死んでもいい。
「しかし、猫を掛け合わせて作るのだろう? 気の長いことだね」
「いや、科学雑誌にジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックによる論文が掲載されていた。デオキシリボ核酸 が遺伝物質であるという証明についてだ。このことを利用すればデオキシリボ核酸 の塩基配列を組み替えることにより、新しい生命を作れるかもしれない」
冒涜的だ……でも興味はある。協力することにした。
数年後、数々の失敗を得て、ようやく脱皮する鼠が完成した。
妖術との組み合わせがうまくいったようだ。それに加え、一族の倉庫をあさっていたところ、似たようなことを研究していたという、巻物が出てきた。
ただの科学者には作れなかっただろう。わたくしたちは手を取り合い、涙を流して喜んだ。
彼は言った「次は猫への実験に移ろうか」
わたくしは言った「あえて、人体実験に移るっていうのは?」
「なにがあえてなのかわからないし、それは駄目だ。死人を出すと面倒だ」
「簡単に死なない人を使えばいいんじゃないかな」
そんな人間がどこにいると、彼はあたりを見回し、そしてわたくしに視線を止めた。
「正気か?」
「それを君が言うのか?」
さすがにわたくしが実験体になるのに、彼を説得するのには骨が折れた。何度も簡単には死なないと伝え、痛みや苦しみも術式により遮断出来るという嘘も伝えた。説得した時間でどれだけの工程が省略できただろうかと思ったが、何とか承諾を得ることに成功した。それぐらい猫が実験に使われるのが嫌だった。たとえそれが猫のように小さな自尊心の為でも。
そして数回ほど死ぬような苦しみを感じつつも、『痛みを感じていない姿』で彼を化かしながら、よやく完成した。
あとはお姉さまの知っての通り。
父母にお見合いをさせられることを拒否して、駆け落ちしたり、わたくしの脱皮した皮が、工房の手伝いをしている下女に見つかったことにより、大騒ぎになったりした。彼がお姉さまを襲ってきたのは状況を把握していなかったからだろう。恋人が失礼した。
行き違いもあったようで、心より申し訳なく思う。おそらくお師匠様が、裁きに来るだろうから、この騒ぎを起こしたことへの罰はわたくしが受け持とう。
「お姉さま?」
不定形でうごめいているお姉さまは、答えなかった。
「大丈夫。あなたは猫だよ。狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり、しからば、
わたくしは言った。
何の根拠もない言葉だったが、お姉さまはそれで救われたようだ。
ゆっくりと彼女は収縮していった。わたくしのむき出しの皮膚の周りを覆うように。やがてお姉さまはわたくしの皮膚となった。わたくしは、自分の肌を叩いてみる。慣れ親しんだ皮と寸分違わない感触がした。
ありがたいけど流石にずっとこのままは困る。
「お前、実験の痛みは感じないと、言ったじゃないか」
「ごめんそれ、後にして」
彼をたしなめた後、京都の町を見まわす。遠くで爆発しているのが見受けられた。まだまだ祭りは終わらなさそうだ。
ふと見上げると、雨はやみ、ところどころに、赤い空が覗いていた。東山のほうから日が昇っていくのがわかる。京都の町が、紅く染まっていった。
三味線の音が風に運ばれて聞こえた。
祭りを終わらさなくてはならない。わたくしが原因で始まった祭りだから。
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