第18話 6月12日【影山秋】

【影山秋】



 周りがごちゃごちゃと騒いでいる。僕にはもう、何も聞こえない。

 また誰かに殴られる。そんなことはどうでもいい。


 教室を出て、夏目を探さないと。


 あいつを探さないといけないのに、そうはさせてくれない。

 人の、ありとあらゆる感情という感情がひとかたまりになって、僕を抑えつける。


「夏目が」

 夏目がいない、僕がそう言おうとすると中根と遠藤が、僕の口をふさぐ。

 僕は何度も試みる。こうしている間に夏目は、自分がいなくなる準備を着々と進めているかもしれないのに。屋上か、あるいは、誰にも見られない別の場所か。


 もしかして、もう、この世界には、いないのか。


 ダメだ、そんなこと......絶対に許さない。

 出来上がったら、小説を見せるって約束したじゃないか。

 もう、できあがったんだよ、納得のいくものが。

 僕にしか書けない物語は、僕の全部の出会いが、僕の全部の経験が、僕の全部の魂が、乗り移っているんだ。


「夏目がいないんだ」


 僕がかいくぐって発すると、先ほどの嵐が嘘のように止んだ。

 今の僕の状況と、夏目がいないこととは、なんの関連性もないとみんなは思うかもしれない。ただの延命のための目くらましだと思われても仕方がない。だけど、勢いは止まった。口に出さないだけで、夏目の生気が失われていることに、みんなも気づいてたのかもしれない。なぜなら毎朝、夏目が教室に入ってくると、みんなが夏目を見るから。知らず知らずのうちに、夏目の体調の異変をクラス全員が感じ取っていたのかもしれない。


 しばらくして、

「ヒナ、体調悪いからトイレ行くって」

 佐伯が記憶を呼び起こしながら言う。

「顔色、めっちゃ悪かった」

 篠原が眉をひそめる。

「それから何分経ってる?」

 月島が二人を睨み、しかし冷静に尋ねる。

 佐伯と篠原が腕時計で時間を確認すると同時に、二人の顔がハッと変わり、青ざめる。

 ガタン、と机の脚に躓いた高木が、後ずさりをする。みるみるうちに高木の唇は震えだす。

「ヒナ、『罰を受けないといけない』って言ってた」


 その言葉を聞くや否や、僕が脱兎のごとく走り出さんと教壇近くの扉に手をかけたとき、するするっと後ろの扉が開く。全員が後ろの扉に注目する。



 今まで見たことのない夏目だった。



 鍛えられたしなやかで長い脚の先は、上履きも、靴下も身に着けてはいなかった。

 膝が隠れるほど長くなったスカートの裾は、扉が閉まると軽く揺らめく。

 そしてなによりも変わっていたのは髪だ。綺麗な茶髪のロングヘアーはバッサリと切られ、まるで初めからそうだったかのように黒髪に染め直され、首元が涼し気なベリーショートに変わっている。


 夏目の変貌ぶりに、クラス全員が呑まれる。


「ごめん、遅くなっちゃった」


 夏目は照れ笑いのような、苦笑いのような表情をして教壇の方に近づいてくる。

 クラスに安堵が漏れる。佐伯が「イメチェンしたん?」と寄っていき篠原が「イケてんじゃん」と続く。

「おお、ヒナ、かわいいじゃん。どっかのクソ野郎が余計なこと言うからマジ焦ったわ」

 高木が先ほどの戦慄から立ち直り、事態を話す。高木は、いかに僕が悪者かを説明している。夏目は、高木の説明を聞きながら、三角形と丸が書き殴られた黒板を見て、ふんふん、と口元に笑みを浮かべながら頷いている。


 一通り説明が終わった高木は

「てことで、全部コイツが悪いから、とりあえずコイツぶっ殺すわ」

 と、ニヤニヤしながら飯田や菊地原を払いのける。もう、ほんの少しも力が残っていなかった二人は、あっさりと床に転がる。僕は自分だけに聞こえる声で、サンキュー、と二人に感謝する。

 中根と遠藤が「スッキリさせようぜ」とか「一発で頼むわ」などと野次を入れる。

 そこに、月島が両手をめいいっぱい開いて立ちはだかる。

 前田や鈴木が「千春」と心配そうな声を上げる。

 佐伯が「まだ偽善者ヅラ続けるわけ」とあざ笑い、篠原が「影山に惚れてんじゃね? マジキモい」と続く。

 僕は月島に、もう大丈夫だから、ありがとう、と告げる。でも、と食い下がる月島に小声で「小説出来たんだ、今度読んでくれ。あ、でも本当に殺されたら骨は拾ってくれよな」と冗談交じりに別れの挨拶をする。すると月島は、「遺作になっちゃうね」と笑って僕の前を退いた。


 今は、夏目が生きて戻ってきたっていうそれだけで、僕は救われているんだ。これが終わったら、そこには明るい未来が広がっている。みんなで話そう。僕達の夢、僕達のこれからを。それにしても足元がおぼつかない。頭部に拳をもらいすぎたのかもしれない。


「それじゃ殺しまーす」


 高木が高らかに宣言する。最後まで頂点を貫き、クラスのみんなを納得させつつ、不穏分子を排除するこの男のことを、いま僕は尊敬しているのかもしれない。ブレない大した奴だ、と。思い返せば高木とちゃんと対峙したのはこれで三度目だ。一度目は僕が電車で起こした騒動の翌朝、二度目はその翌日の昼休み、そして今だ。三度目の正直、ということわざが、とてもお似合いな状況だ。


 浅黒く焼けた肌、スカルプチャー系の香水、めくりあげたズボンから見える筋肉とミサンガ、何の迷いもない拳。肘を引く。力を溜める。獲物を捕らえる目。一気に振り抜く、そのわずか前。


「じゃあさ」


 高木が動作を止めて振り返る。全員がそちらを向く。声の主は夏目だった。


「じゃあさ、私もいいかな」



 そう言うと、夏目は一人の男子生徒の正面に立つ。

「えんどう」

 夏目は右手の親指を立て、続けて人差し指を開き、長く細い腕を伸ばし、遠藤の額に向ける。


「ぱん」


 という声と共に手首を45度ほど斜め上に返す。すかさず手首を戻し、隣にいた中根に遠藤同様の仕草で、人差し指を向ける。何か言いかけて口をパクパクさせている遠藤と中根をよそに

「なかね」

 そう夏目が呼ぶ。中根の額めがけて腕を伸ばす。僕は頭がぐるんぐるんと回転している感覚に陥る。崩れ落ちそうになるところを、教壇に手を突っ張って支える。



「ぱん」


 同じ作法で手首を返し、すぐ戻す。

 夏目の異様な行動に、僕を含めたクラス全員が絶句する。

 僕は、夏目の右手に、本物の拳銃を見ている。

「エリカ」

 篠原が歪んだ笑顔になる。鉄の塊がトリガーを引く。


「ぱん」


 無慈悲に破裂音は響く。夏目の指先から硝煙が立つ。


「ミカ」

 ちょっと、ちょっと、と佐伯が半笑いで命乞いを始める。夏目は佐伯を気に留めることもなく、額へ銃口を突き付ける。



「ぱん」


 ためらわず撃たれた弾丸は、あっけなく佐伯の額に風穴を空ける。


「シュウ」


 ついさっきまで僕に殴りかからんとしていた高木のもとに、夏目がやってくる。

 高木は夏目の肩を抱き、なだめ、懇願する。やがて、その手は震え、恐れおののく。

 熱を帯びた銃先が高木の額を焼く。ジュッと焦げた匂いが立ち込める。引き金が、いとも簡単に引かれる。


「ぱん」


 反動に手ごたえを掴む。鉛の球は、もうあとには戻らない。高木の脳天を貫き、もう帰ってこない。

 夏目は振り返らない。まっすぐな目で壇上に上がる。そして僕と向き合う。

 よく戻ってきた、と僕は夏目を見据える。夏目は涙と鼻水が溢れかえり、肩を震わせる。くちゃくちゃに大泣きしながら、大笑いしている。


「かげやま、しゅう」


 君は声にならない声を出す。僕は、確かに聞こえたんだ。



 ありがとう



 終わり、あるいは始まりを告げる銃声がとどろく。夏目のこめかみを通り黒板を突き抜けた塊は、教室を抜けて学校を抜けて、空高く飛び出していく。夏目を覆っていた金の鱗は、風のあおりを受けて、桜の花びらのように舞い上がり、やがて天井を突き破る。残っているのは、何も身に着けていない、生まれた時と同じ状態の夏目だ。


 三角形の隣に書いた大きなマルは、夏目の血潮を受け翼が生える。夏目が、血しぶきを上げながら僕に歩み寄る。



「ただいまの、チュー」



 僕をまるで癒すようかのに、優しく、冷たく、柔らかい感触が、頬に伝わる。

 それもまた意味が違う気がする。


 夏目に撃ち抜かれた他の連中が、その事実に気が付き、ばたばたと倒れ込む。

 僕も、とたんに全身の力が抜け、あえなくその場に倒れ込む。



 こうして狂騒と狂熱の時が幕を閉じる。

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