第17話 6月12日【影山秋】

【影山秋】



 チャイムが鳴ると、クラスが一斉に色めき立つ。

 ねえ、一緒に組もう、と提案する女子の声や、もう既に五人組を作り、どこに行くか楽しげに相談している男子たちの声が耳に入る。僕はまだ動かない。飯田も、菊地原も。

 そんなクラスの雰囲気をよそに、高木がツカツカと教室の出口に近づいていく。

 もう高木の班は五人集まって、教室にいるのが怠くなったから外に出ていくんだな、と誰もが思った時だった。


 バーン


 大きな破裂音が出口で起こる。高木が教室側から、あり得ない程強く扉を閉めた音だった。出口付近の生徒は驚きのあまり椅子から尻が数センチ浮く。高木は気にせず、そのままツカツカと後ろの扉へ向かい、先ほどと同様にけたたましい音と共に扉を閉める。近くの女子が肩をすくませる。高木は教室に疑似的な密室状態を作り上げていた。


 高木はポケットに手を突っ込んだまま、さらにツカツカと歩き、教壇に立つ。

 クラスの中で話をする者は、誰一人いなくなった。

 高木はどこを見るでもなく、しかし全員に向けて宣告をする。



「影山っていうクソ野郎と班、組んだ奴は殺す」



 僕に「次、強いの行くぞ」と言ったあの時と同じだ。高木の言葉に嘘偽りは微塵もない。

 高木は言うだけ言うと、教壇から僕の方へ下りてくる。なお、ポケットに手を突っ込んだまま見下ろし、言い放つ。

「なあ、お前みてえなクソ野郎、簡単に潰せんだよ」

 静寂の中、中根と遠藤、それに佐伯と篠原が、耳障りな笑い声を上げる。

「そこに地面があれば、ね」

 僕はすっと立ち上がり、高木と対峙する。

 何だお前、とバカにした言い方をする高木を尻目に、僕は教壇へと歩を進める。

「今さら命乞いしたっておせーんだよ、ボケ」

 中根が相変わらずがなり散らす。遠藤や佐伯が加勢する。

 教壇に立ち、クラスと向かい合う。グループごとに分かれていたみんなは、高木の脅威のせいで、伏し目がちだ。

 僕はそんなクラスメイトに、高らかに宣言する。



「僕は、修学旅行には、行かない」



 高木をはじめ、その界隈が下衆な爆笑をする。

「え、それで終わり?だから何だよ」

 遠藤がすかさず攻撃する。

 僕は飯田と菊地原に合図を送る。

 二人は突如席を立ち、教壇に集合する。

「俺も行かない」

「アチキも、行かない」

 菊地原がふざける。あ、ずりーなお前だけ、と飯田が愚痴る。僕は二人に、そこまでは頼んでないぞ、と驚く。でも、きっと、それを待ってた僕がいる。

「だからよお、弱えー奴が開き直ってんじゃねえよ」

 高木が血相を変えて向かってくる。


 僕は昼に飯田と菊地原にこう話していた。

 「僕は次の時間に話したいことがあるから、合図したら来てくれ」と。

 そして、「僕の話を邪魔する奴がいたら、なんとか阻止してくれないか」と。

 ただそれだけのお願いだったのに、二人は僕に合わせて修学旅行に行かないと宣言した。菊地原なんて、おいしいラフテーが食べられる店を、あんなに調べまくってたのに。

でも、僕は二人のおこないが、無性に嬉しい。


「組んだら殺すって言ったよな」


 高木が今までに見せなかった鬼の形相に変わり、僕に真っすぐ向かってくる。

 飯田と菊地原は、目をつぶりながらも両手を高木に突き出し、抑えようとする。何脚かの椅子が倒れる。

 高木が二人に拳を振り上げる。僕は慌てて叫ぶ。

「班は、組んでない。ただ、行かないって、言っただけだ。自分の発言を思い出せ」


 僕には考えがあった。高木にも、高木なりの秩序がある。それを利用してやろうと思った。前回の対峙でわかったことがある。横暴を働いているようでも、それがあまりにも理屈に合わない事をクラスの衆人環視の元で行うのであれば、当然評価は下がる、ということをあいつは知っている。だから、僕を殴る前も、あいつなりの理屈を提示している。一発目は僕の不必要さをクラスに納得させ、「次、強いの行くぞ」と宣言したのにも関わらず、僕が席をどかなかった。だから殴った、と理屈づけている。二発目も、クラスに不必要なうえに、「開き直って」喋っていたから殴る、という理屈があいつなりにあったんだ。後付けでもなんでも、きっと今までそういう身勝手な大義名分を上手く使ってきたんだ、こいつは。

 つまり、高木は理屈が通っていないと殴らない奴だ。ただ単に弱い立場の者を、弱いからと虐めてくる中根や遠藤とは違う。高木は他の二人とは違い、精神を刈り取ってくる男だ。

 僕は、初めからうすうすそれに気づいていた。なぜなら、あいつはうちの強豪サッカー部のエースだからだ。サッカーは一人ではできないスポーツだ。ボールが回ってこないと点も入らない。野球と比べ、個人にかかる比重は少ないんだ。高木はおそらく、サッカーを小さい頃からずっとプレーし続けてきたから、その思考が染みついているんだ。最低限のコミュニケーションと、チームメイトを納得させる理屈がないと、特進科から出てきてスポーツ科を差し置いてエースなんて背負えない。

 これまでは自分勝手な理屈があるからこそ、クラスの頂点として君臨できたし、僕も打ちのめされた。でも今は、幼い頃から染みついたその理屈が、裏目に出て、高木は飯田と菊地原を殺せない。

案の定、高木の動きが止まる。止まった隙をついて、飯田と菊地原が二人がかりで高木の胴体にしがみつく。

 僕はすかさずチョークを取り出し、黒板に大きな三角形を書く。

「何書いてんだよこの野郎」

 きめーんだよ、という罵声と共に中根と遠藤も向かってくる。

「調子こいてんじゃねえよ」

 遠藤に胸ぐらを掴まれる。僕は宙に浮きそうになるのを堪え、つま先立ちで何とか耐える。

「俺がぶっ飛ばす」

 中根が僕の頭を片手で鷲掴みにし、一度後ろに反動をつけ、ハンドボール投げのように勢いよく前へ押し出す。

 ガン、という鈍い音と共に僕の顔面は黒板に激突する。中根と遠藤のせいで、僕の体は身動きが取れないままだ。

 遠くで「行っちゃえ行っちゃえ」という女子の声が耳に届く。

 僕は黒板に顔面を押し付けられ、チョークまみれで意識が飛びそうになりながらも、書くのを止めない。

 三角形の頂点あたりにマルをつける。

「ここがたかぎたち」

 僕は抑えつけられている喉を無理やり開き、精一杯声を出す。

「黙ってろ」

 中根が第二投目を投げるモーションに入る。

 僕は抵抗して振りほどこうとするが、今度こそ足が地面から浮き上がる。

 中根と遠藤の後ろから、細い腕がするっと出てきて、二人の首を抱えるようにロックする。

「わたしがあいて」

 女子の声。突然の出来事に唖然とする中根と遠藤の間から顔を覗かせたのは、月島だ。

 僕は三角形の底辺にマルをつける。

「ここがぼくだ」

「女は殴らないとか、言わないでよ。私いまちょうど、痛みを知りたい年ごろなの」

 中根と遠藤が言葉を失っていると、月島はそのまま僕の間に割って入る。

「何してんだよこの偽善者女」

 発情期のオラウータンのような金切り声を上げ、今度は佐伯と篠原が向かってくる。

僕はその場にいる全員を無視して三角形の底辺の延長線を、右に左に伸ばしていく。

「ぼくが底辺にいるのは、ここが地面だから」

 僕は黒板に向かい両手を大きく広げ、三角形の底辺の延長線をバシバシと叩く。

「わたしも、いかない」

 月島がそう宣言すると、我に返った中根と遠藤が、月島もろとも僕を抑え込みにかかる。倒れ掛かる月島の黒ぶちメガネが落ちる。よろけた僕がそれを踏んでレンズが割れる。

「ぎゃっ」

 中根と遠藤が悲鳴を上げる。二人の両顔に鋭い爪が突き刺さっている。

「お前のせいだ、影山」

 前田が般若の形相で二人の顔に自分の爪を食い込ませている。

 僕は、さっき書いた底辺のマルを、爪が割れてそこから血が溢れてきている左手で消す

「ぼくは、ぼくたちは、もうここにはいない」

 僕は振り向かずに、ただ、手を動かす。佐伯と篠原の前に鈴木が立ちはだかる。鈴木が奇声を発しなが佐伯と篠原の腕をつかみ、離さない。

 僕は右手で三角形の外側に大きく円を描く。黒板が耳障りな断末魔を上げる。チョークがボキボキと折れながら粉塵をまき散らす。

「僕たちは、ここを出て、飛ぶ」

 僕は黒板に向かいみんなを背にしながら、家の外に出たシャボン玉のような円を、何度も力いっぱい叩きながら、叫ぶ。

「強いとか、弱いとか、そういうことじゃない」

 佐伯と篠原が鈴木の両肩を抑えながらじりじりと前に進んでくる。遠藤は僕の腰や腿をかかとで蹴りつける。

「勝ったとか、負けたとか、そういうことじゃない」

 中根は何度も僕の頭に拳を叩き付ける。前田は遠藤と中根の肘打ちを喰らい鼻血を出している。月島は開いた両手を下ろさないまま、僕をかばっている、。顔の切り傷から血が滲んでいる。


「かげやまあああああ」


 高木が、自陣ディフェンダーからのロングボールを追いかけるように、腰に付いた飯田と菊地原を引きずりながら僕に向かって突進する。

 僕は前を向く。栓をして溜めていた水が、一斉に排水口を目指すように、僕に流れ込んでくる。


「僕達は、心の自由という翼を、手に入れた」


 僕の声は、僕以外の人たちの声に、かき消された。

 きっと、僕の声は、この喧騒の中で誰にも聞かれていない。でも、夏目、聞いてるか。夏目は感じてるか。夏目は届いてるか、僕の声が。



――それでね、私、いなくなろうと思ってる――



 私の罪と罰、と言った夏目の声は、なんだかぼんやりしていた。元はと言えば、僕が静かな水面に石を投げたせいで、あっという間に波紋が広がり、夏目が飲み込まれるほどの大波になったんだ。その波に溺れそうになりながら、もがいて、苦しんで、今、諦めようとしている。苦しいよな、諦めたいよな、そりゃ。この世界は、僕達には狭すぎる。


 だけど、諦めるなんて、させない。僕はお前を、置いてけぼりになんかしない。

 だから夏目、僕の声が、届いているか。

 いなくなろうなんて、思うな。


 僕は、今にも押しつぶされそうだ。もみくちゃにされながら、夏目を探す。

 こんな時には、ひとりクールに佇んでいるはずだろ?

 どこだ、どこにいるんだ。

 僕の体は、何発受けたか分からない程殴られ、あるいは蹴られていたが、全然痛みを感じない。



――夏目が、いない――



 どこを探しても見当たらない。夏目は、姿を消してしまった。

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